隠し味
スーパーHANAZAWAからの帰途、大通りから横道に逸れると、A型バリケードの黄色が目に飛び込んできた。どうやらマンホールの目視調査を行っているらしい。ずらした蓋の表面には首をかしげたシマエナガが刻印されている。実物の数倍はある円らな瞳と視線が合いそうになり、尾形は意識的に顔を背けた。すると、ちょうど同じタイミングで、調査員が管渠から顔を出した。
ヘルメットを目深にかぶった月島は、立ち止まった尾形に気がつくと、短いつばの下から鋭い視線を寄越す。その視線は尾形の全身を検分し、最後に片手に提げたショッピングバッグに留まった。重々しい声が問いかける。
「漬けものは」
「梅干しと沢庵を買いました」
「佃煮は」
「わかさぎと、奮発してほたても」
「奮発?」
「ままかりの酢漬けも売っていたので。お好きかと思って」
月島は尾形をねめつけた。
「意外とやるな」
「そりゃあもう、月島さんの飯のためなら金も手間も惜しみませんよ」
「味噌汁は」
「具はじゃが芋とわかめの予定です」
「いいな」
月島の眉尻がかすかに下がる。
「味は少し濃いめで。炎天下の作業、お疲れさまです。冷蔵庫にビール、冷やしておきますから」
「よし、通れ!」
「ハッ!」
背すじを伸ばして敬礼する。月島とのやり取りにおいて、通行人の人目など気にならない。そんな尾形の背後で、作業着姿の野間がバインダーにボールペンを走らせながら呟いた。
「検問所かよ」
尾形は聞こえなかったふりをしてバリケードの脇を通り過ぎる。野間の足元が安全靴でなければ事故を装って踏みつけてやっていたかもしれない。
アパートに帰ると、尾形は行儀よくうがいと手洗いを済ませて台所に立った。買ってきたものを冷蔵庫に手早くしまう。次に、米を研いで炊飯器のボタンを押した。もっちりと炊飯できると評判の五合炊き炊飯器だ。セット完了を示す軽快な音楽を背に、一晩かけて水出しした昆布出汁を鍋に注ぎ、じゃが芋を洗って皮を剥く。丁寧に芽を取り、やや大きめに切り分けた。
自分で食べるだけなら、こんなに手間はかけない。すべては今夜、夕飯を食べに来る月島のためだ。疲労困憊の月島が部屋に立ち寄り、湯浴みして汗を流した後、食卓に並ぶ夕飯を見て目を輝かせるさまを見たいのだ。そのためなら、カップ麺の残り汁に卵を割って茶碗蒸しを作るのが得意料理と言って憚らない尾形も、一途に料理の腕を磨く。
後は味噌を溶くだけになった鍋をいったん横に寄せ、尾形は冷蔵庫のドアを開けた。月島には報告しなかったが、スーパーHANAZAWAは本日、名物のタイムセールを開催していた。庶民の味方を標榜する店ながら、目玉が飛び出るほど高値の商品も揃えており、不定期に開催されるタイムセールでお手頃価格に値下げすることで知られている。尾形は生まれて初めて、化粧箱入りの豚ロース肉をかごに入れた。その肉が冷蔵庫内の最も目立つ場所、冷蔵室の中段に鎮座している。
月島は喜ぶだろうか。呆れるだろうか。
脳裏に掠めた疑念を、ドアを閉めることで片隅に追いやる。月島に対して必死なのは今に始まったことではない。考えるだけ無駄だと、尾形は下ろし金を手に取った。
生姜を丁寧に擦り下ろし、砂糖と醤油、料理酒と合わせる。 フライパンを戸棚から出す。調味料も鍋も、月島のために買い揃えたものだ。
生姜焼きの準備を終えたところで浴室に向かう。浴槽に湯を張り、洗面所に来客用のタオルと石鹸を置く。坊主頭の月島は石鹸で全身を洗う。何度か、尾形のシャンプーやボディソープを使ったが、気分が落ち着かないと言って自宅から固形石鹸を持ち込んだ。今や、尾形の生活は大部分が月島に侵食されている。
「悪くねえな」
独りごちたとき、玄関のインターホンが鳴った。
月島は食卓に並ぶ夕飯を見て目を輝かせるだろう。生姜焼きの皿に小さな歓声を上げ、いそいそと椅子に腰かける。よく冷えたビールの黄金色ときめの細かな泡に満足そうにうなずき、乾杯をして喉を潤す。待ちきれない表情で箸を手にし、味噌汁を一口すする。熱さに瞬いて飯碗を取り、白飯の甘みに目を細める。それから漬けものを噛み、豚肉を食み、もう一度白飯を口に運んで屈託のない笑顔で言うのだ。
──うまいな、尾形!
「はああ……」
尾形は片手で顔を覆い、深々と溜め息をついた。
「飯を食うあんたが好きだって言ったら引かれるかな」
再びインターホンが鳴る。尾形は髪をかき上げて表情を引き締め、おもむろに玄関へと足を向けた。