屋烏の愛とも言うらしい
「……メさん、また唇傷つきますよ」
下唇をキュッと軽く摘まれた刺激に驚いたことで、ようやく俺の耳に心地よい低音が届いた。
「……スマンな、百。気付かんかった」
俺の唇を楽しそうに弄っているこの色男は、俺の可愛い年下の恋人だ。俺には考え事をしている時に下唇を噛みしめてしまう癖がある。口内炎が出来やすく、酷い時は血が出てしまうことも。無意識下の行為で、自分だとコントロールできない。なので、尾形はソレに気付く度に注意してくれる。
「傷ついてないか確認しますね」
尾形は俺の下唇を指で摘んで捲り、念入りにチェックし始めた。普通にしていたら他人に見られることのない内側の粘膜を、恋人とはいえ曝け出すことに微かな羞恥を覚える。
「ああ、大丈夫そうですね。今回は何を熟考してたんです?」
俺が悩んでいる内容なんぞ、丸っきりお見通しな癖に……。全く意地が悪いことだ。
「……夜に何食うか考えてた」
「へぇ?かなり真剣だったので、先週俺が言ったことにどう答えようか悩んでいると思ってましたよ。杞憂でしたね」
ニヤニヤと笑いながら、尾形は俺の頬を指で繰り返し啄く。分かりやすい自覚はあるが、こうやって揶揄られるのは、あまり気分がいいもんじゃない。
「別に嫌なら嫌って言えばいいんですよ」
尾形のニヤけた顔を殴りたいが、その軽い態度は俺の為、……俺が断りやすくする為だと分かっている。
今日と同じく、先週末に俺の家へ泊まりに来ていた彼が帰る前に「一緒に暮らしませんか?」と零した。思いがけない言葉にどう答えればいいのか分からず、俺は黙り込んでしまった。それを拒絶だと受け取ったようで.……。
「嫌じゃない……」
「はいはい」
尾形は苦笑しながら、俺の下唇を指でしつこく弄ぶ。
「百、やめろ」
「嫌ですよ。離したら、また噛むでしょう? ……そんな真剣に悩む必要ないんですから」
ほんと尾形は俺に甘い。
家庭に恵まれなかった俺はひとりで生活することに慣れすぎていて、過去の恋人とは同棲はもちろん、自宅に招き入れることさえなかった。自分の安全地帯を遠慮なく踏み荒らされるような気がしたからかもしれない。
けれど、尾形は他人との距離感が俺とよく似ていて、肩肘張らずに一緒にいれる相手だ。だから、週末泊まりに来ないか?と付き合って一年経った頃に彼を誘った。それからもう半年ほど経過し、彼はほぼ毎週末、俺ん家に泊まりにきている。
週末一緒に暮らしているようなものだけれど、常に生活を共にするのは俺にとってハードルが高い。それに、もし同棲が上手くいかなかったら、彼との関係もダメになってしまうのも怖かった。
「アンタを困らせるつもりじゃなかったんです。ただ誰もいない家に帰りたくねぇなと、少し思っちまっただけなんで」
「……そうか」
「そうです。……で、夕飯のメニューは決まりました?」
同棲の話は終わりと言わんばかりに尾形は無理やり話題を切り変えた。
「いや、まだ決まらん。……お前は何が食いたい?」
「俺の意見なんて聞いてどうするんですか」
洒落ている尾形はクリーニングに出したYシャツを受け取りに、日曜の夕方に帰っていくので、その日の夕飯は別々だ。その度に『今晩はひとり飯か、味気ないな……』と俺は思ってしまってた。それはきっと尾形も。
「あー、だから、その、晩飯にお前が食いたいもん作るから、今晩も泊っていけ」
「……はい?」
「週明けに、ここから出勤できるように、自宅からスーツとか持ってくればいいだろ……」
尾形から目を反らしながら、俺はぶっきらぼうな口調でそう伝えた。
「……はい。ついでにクリーニングも取ってきます」
「俺も買い出ししたいから、一緒に行くぞ」
幸せを煮詰めたようなだらしない表情の尾形の背中を、バンッと音が出る位の勢いで張り手する。
「グエッ!!照れ隠しにしても強すぎでしょ」
「大したことないだろ。で、何食いたい?」
「基さん一択で」
「……ばーか」
「ははぁ、耳真っ赤ですよ」
ドヤ顔で指摘されたことにイラッとし、下唇を噛もうとする俺の頭を尾形は包み込むように抱きしめた。
「また噛もうとして……。でも、一緒にいる時間が増えれば、俺が止めてあげれますね。口内炎に苦しむことが少なくなるんじゃないですか?」
「それは、悪くないな」
「でしょう?」
狩りに成功した猫が飼い主に戦利品を見せるかのように、誇らしげな様子が彼の声色から伝わってくる。
「アンタのその癖は嫌いじゃないんですけどね」
「ふーん?」
「ええ。あばたも何とやら……ってヤツです」
「ふっ、そうか」
俺も尾形の背中に腕を回し、隙間がなくなるようにくっついた。トクントクンという心臓の音が心地よい。
「……そろそろ行きましょうか?」
「……ああ」
そう言いつつ、尾形は腕の力を緩めない。……そして俺も。こんなに離れがたいなんて。
一緒に暮らす時間が増えるにつれ、俺が口内炎を理由にキスを拒むことが少なくなる未来も案外近いのかもしれない。