赤と白

 子供の頃、小川のむこう岸までつづく飛び石を蹴って、跳ぶようにすすむのが好きだった。

 宵闇の中、石灯籠からこぼれるひかりを頼りに花の咲かない木々が植わった庭の中を歩く。

 草と苔の中に浮かぶ背の低い飛び石の道を下駄でたどる。待合へとむかう短い道の間、まるで違う状況なのに、子供の時の記憶がよみがえるのが不思議だった。

「こんばんは、月島さん」

「お招きいただき、ありがとうございます」

 かしこまった挨拶をかえして一礼をすると、手燭をもった尾形さんがふっと口許をゆるめる。

「こちらこそ、本日はわざわざ浴衣でありがとうございます。―――今夜もふたりだけの茶会ですから、肩の力をぬいてお過ごしてください」

 前をゆく尾形さんの、袴の下にのぞく白足袋に包まれた踵を追う。茶室へとつづく家屋のあがりかまちで下駄をぬぎ、足袋を履いた。

 宿をでた夕方五時あたりには昼の色を残していた空が、いまはもう夜に染まりかけている。

 古い庵を思わせる茶室は、無音というわけではないのにいつも静謐な空気が流れている。

 茅葺きの屋根がさわさわと風に揺れ、耳に届く虫の声や草木の音色。庭先の手水が石の鉢へ流れ落ちる細い水音も鼓膜の奥深くへと響く。

 宇宙にたとえられることもある茶室という空間に自分が足を踏み入れたのはまだほんの数回だが、それでも、この場所に日々の喧噪とはかけ離れた時間が流れていることは理解できた。

「夏のこちらは蒸しますけれど、桜と紅葉の季節とはまた違ったお客さんもいらっしゃるんですよ。なので、普段着や浴衣で参加する気どらない茶席をもうける機会も多くて」

 東京からふた月に一度ばかり、茶道家であるこの人に招かれて京都を訪れるようになってやがて一年になる。

 人に教える立場の茶道家ということで、茶の湯に関する取材で東京を訪れていたこの人がトラブルに巻き込まれていたのを偶然助けたのがきっかけで交流がはじまった。

 着物や袴姿が似合う、どこか浮世ばなれした年下の青年から「茶飲みともだちになってください」の言葉をかけられ、つきあいがつづいている。思えば、不可思議な縁だ。

 行灯に照らされた影がゆらりと障子にうつる。柄杓や碗を手にとり、一連の動作でよどみなくお茶を点てる男のしぐさを見つめる。

「こちらとごいっしょに、どうぞ――」

「わあぁ」

 おそらく、「めしあがってください」とつづけようとしたであろう尾形さんの言葉がとまる。

 薄明かりの中、黒い目が驚きに見開かれているのがわかる。なんだか猫だましをくらった猫のようだな、とどうでもいいことが頭をよぎった。

「・・・・・・とりみだして申し訳ありません」

「いえ。菓子が、どうかされましたか」

 声は落ちついていたが、畳の上、小皿に盛られた和菓子と俺を交互に見る尾形さんの顔は怪訝なものを前にした時のそれだ。

「なんというか・・・・・・ものすごく、可愛らしかったので」

 青磁色の皿の上、寒天の中に赤い金魚、紅白まだらの金魚と水草とが浮かぶ透きとおった冷菓が作りだす世界に知らずため息がこぼれる。金魚のふわりとした尾がまるで水の中で揺らめいているかのような造形はとても優美で、目にも涼やかだ。

「錦玉羹という夏のお菓子です。月島さん、存外可愛らしいものがお好きなんですね」

「そういうわけでは・・・。こうしたものに、あまり縁がなくて」

 もごもごと口にした言い訳は、われながら説得力にかけていた。気をとりなおし、畳の上で背筋を伸ばす。

「お点前ちょうだいいたします」

 いちばん最初に教えてもらった茶の湯の言葉を口にして、茶碗へ指を伸ばした。



「次は秋頃、初釜の頃にお会いできれば嬉しいです。ただ、九月に一週間ばかり東京に行く用事がありますから、どこかで食事でもご一緒できればいいですね」

「そうなのか。九月は商店街の秋祭りの手伝いがあるから、早めに予定を教えてもらえると助かる」

「秋祭り。にぎやかそうでいいですね」

 わかりました。とうなずき、茶人は静かに席を立った。

 あたりはすっかり夜の帳がおり、明かりの助けなしには飛び石の輪郭すらも危うい露地を歩く。浴衣の袂をぬける夜の風が七月の終わりをおしえる。

 庭からつづく門の前まで、言葉もなく、ただ歩いた。

 闇の中、手燭を腰のあたりにかかげた尾形さんが今日の再会の時とおなじようにかすかに口許をゆるめる。

「それでは、また、この茶室で」


終わり