「尾形一等卒。こちらの席が空いている」

 良く通る声が食堂内に響き渡り、ざわめいていた者達が皆、一斉に口を噤んだ。ピンと張り詰めた糸のようなその声は、腹の底へと届き、自然と背筋を伸ばしてしまう。

「所在無げに立っている暇は無いだろう。昼食の時間は限られている。座れ」

 尚も言葉を重ねる月島を一瞥し、尾形は「失礼します」と大人しくその隣に腰を下ろした。

 上役と隣り合っての食事など初めてのことだが、他に席が空いておらず、ましてや当の上役から呼ばれたのだからこれは不可抗力というものだろう。居心地は良くないが、食べ終わるまでの辛抱だ。尾形は隣に座る月島に気付かれないようそっと溜息をついた後、盆の上の食事に向き合った。

 濃紺の軍服に坊主頭。皆々が似通った姿をした群れの中に居ると、《尾形百之助》という個が無くなっていくような気持ちになる。特にこの、食事の際は。

いつもの通りに手を合わせ、静かに飯を口に運ぶ。しばらく食べ進めたところで、ふと横からの視線が気になった。

「......私の顔に何か付いていますか、月島伍長殿」

 じっと尾形が食す姿を見詰めている月島に、堪らず声を掛けた。

「ああ、いや、そうではないが」

 部下の間で鉄面皮と称されるほど冷静で表情を崩さない月島が、珍しく慌てている。その意外な様子に、ほんの少し嗜虐心が頭をもたげた。

「見た所、既に伍長殿は食べ終えたご様子ですが、まだ足りませんでしたか」

 つい口に出してから、しまったと思う。いつもの癖であからさまな皮肉を吐いてしまったが、いくら相手が不躾な態度だったとは言え、腐っても上役だ。ここは軍隊。怒鳴られるか、殴られるか。既にどちらも慣れたものではあるが、一等卒の間で月島の拳は大層重く痛いという専らの噂だった。憂鬱な気持ちになりながら、続く月島の言葉を待った。

「無礼だったことは謝る。ただ、凛とした美しい所作だと思っただけだ」

 尾形は眉を顰める。

 ───美しい?

 いま、美しいと言ったか?

 男たちばかりが集まるむさ苦しい食堂において、これほど似付かわしくない言葉もないだろう。しかも言い出したのが、そのむさ苦しさの筆頭とも言える鍛え上げた身体の男である。

 尾形は鼻で笑いそうになったが、その一瞬前に月島が口を開いた。

「俺は箸の持ち方、汁椀の上げ方ひとつ知らなかった。無理やり矯正されたようなもんだ」

誰に、と思ったがそんなことは聞けるわけもない。

「でもお前のその立ち居振る舞いは幼い頃から身についているものに見えた。誰に教えてもらったんだ?」

「……田舎の、祖父母に」

「そうか。感謝するんだな。おじいさんおばあさんに。そういう所作は、一生の宝だ」

 では先に、と告げて月島は席を立つ。言われた言葉を咀嚼しきれないまま、尾形はしばらく呆と月島の後ろ姿を目で追っていた。



「ほらこれ、尾形の分だ」

 目の前に湯気が立ちのぼった。飯盒の蓋に入れられた汁からは食欲を刺激する旨そうなにおいがしている。

「今日は鮭と根菜のオハウだ。具だくさんで美味いぞぉ~。ヒンナヒンナだ」

 アシㇼパは嬉しそうに自分の椀にも汁をよそい、食べ始める。

 心底、美味しそうに。楽しそうに。

 食べ物なんて単なる栄養源だと思っていたが、このアイヌの子供にとってはそうではないらしい。

「アシㇼパさんは美味しそうに食べるよねえ。いつもヒンナヒンナって。食事を楽しんでるね」

 隣に座る杉元がふと漏らした一言に、アシㇼパは不思議そうな顔をする。

「そうか?日々の食事に感謝して美味しく食べることは、当たり前だと思うが」

 当たり前。

 あの兵舎での出来事から幾年も過ぎたが、今でもふとした時に耳に甦る。

 ───凛として、美しい所作だと思っただけだ。

 己にとって当たり前となったものに自覚は無い。しかしそれを月島はわざわざ言葉にして尾形へ告げた。

 いま、初めて思い知る。


 ああ、そうか。

 俺は、嬉しかったのか。


 自分でも知らなかったことを、見て、気付いてくれたこと。


 ───おっ母。見て。


 本当に見て欲しかった人は、最期までこちらを見てはくれなかったが。


 背筋を伸ばしたまま、尾形は根菜を口に運んだ。