忘れ草

 重い身体を引きずり、どうにか自分の部屋の扉を開けた月島は、一応後ろを確認してから扉を閉める。廊下から洩れていた明かりが扉によって完全に閉じられた時、一寸先も見えないほどの闇に部屋が包まれた。しかし慣れた自分の部屋なので気にせず足を進める。まっすぐ進んだ先には窓枠から見える星が綺麗に瞬いていた。

「はぁぁ……」

 先ほどまでの出来事で溜まりに溜まったため息を付く。自室に着くとどうしても我慢が出来なくなってしまった。月島はどうにも一息付きたくなり、窓枠を開け放った。ヒュウ、と風鳴りがして思わず息を詰まらせる。しかしそれは一瞬のみだった。

 月島はポケットをまさぐり、目的の物を探す。上官からは“癖になるから止めておけ”とは言われたが、それでも止められずこのどうにもならない胸の淀みを吐き出すための道具を取り出した。そして1本取り出し口に挟める。少しだけ横を向きつつ。

「おが……、 」

 とそこまで口に出して月島は動きが止まった。目を見開き、ただ驚いた表情になる。月島は“いつも通り”部下に火をつけて貰おうとしていたのだ。その習慣めいた行動に、月島が1番驚いていた。

「……あー、くそっ」

 その自らの行動に嫌悪を感じながら再びため息を付いた時。

「お呼びですか」

 と窓の外から低い声が聞こえ、月島は再び動きを止める。声のした方に目を向け、煙草を1度口から離し、目の前に広がる闇夜を見渡しながら睨みつけていると。

「こちらです、軍曹殿」

 黒い影が兵舎の壁に沿って現れる。目を凝らしていると、そこにはかさりと音を立てる、何かしらの箱を手に持ち上げ見覚えのある男が立っていた。

「貴様……何故」

 驚嘆と、困惑。月島は軍帽の鍔を持ち上げ、目の前にいる男、もとい部下を目を丸くして見た。

「月島軍曹がお呼びしたのでは?」

 そこに居たのは、何も読み取れない真っ暗な瞳と薄ら笑いを浮かべた尾形上等兵だった。

「呼んでいない。自室に帰れ」

 ばつの悪い顔を浮かべつつも、上官として尾形を睨みつける。しかし尾形は「はて、 」と首を傾げただけだった。

「煙草の火が欲しくて俺を呼んだのかと思ったのですが」

 月島は図星を刺され、思わず眉間を抑える。頭痛がしてきた、と内心ごちた。

「……気のせいだ」

「煙草を咥えていたのに、ですか?」

 くつくつと笑う尾形は一度下げていた手を再び持ち上げ、それを横に振る。ちらりと見た月島の目にはそれがさっきまで自分が欲しかったものだと言うのが言われずとも分かっていた。

「……聞き間違えだろう」

 苦し紛れだと言うことは重々承知だったが、それでも尾形の一言を肯定する気にはならなかった。月島が眉間から手を離し、自室にある燐寸へ手を伸ばそうとした瞬間、シュ、と軽い音と共に淡い小さな光が月島の視界に入った。

「どうぞ」

 風除けをしつつ、差し出される燐寸の火。尾形の顔と暗い瞳がその小さな淡い光に照らされていた。いつもは何も読み取れないその瞳が、少しだけ。

(少しだけ、なんだと言うんだ)

 そこまで思考が流れた時、月島は苦虫を潰したような顔をした。燐寸に伸ばした手を止め、心底嫌そうに見える顔の上官に尾形は思わず苦笑する。

「消えてしまいますが」

「……はぁ」

 何度目かも分からないため息をついて月島は尾形の差し出していた火に顔を近付け、煙草に火を触れさせる。そしてゆっくりと息を吸った。草が焼ける匂いと共に美味いとも言えない煙が月島の肺を満たしていった。煙草は火から離れ、ゆらりと紫煙をくゆらせた。

 尾形は満足気に口角を上げ、燐寸の火を消す。そして煙を吐き出す月島のことを見つめているだけだった。

「……ご苦労」

 その見つめる視線に居心地の悪さを感じながら月島は呟く。

「……」

 沈黙が訪れる。その少しの時間にまるで逢瀬をしているかの様な、なんてそんな変な感覚を月島は頭で否定しつつ煙を吐き出す。軍帽を外し、空を見上げた。星は何も言わず、ただそこにあるだけだった。

「……戻れ、尾形。このことは黙っててやる」

 尾形はちらりと視線を上に上げ、月島の目を見やる。そして敬礼をした。

「では、また何かあったらお呼びください」

 そう一言残し、尾形は暗闇に姿を消していった。

「……しくじったな」

 月島はそう一言呟き、手元の煙草に視線を落とす。煙草の火はただ静かに紫煙をくゆらせながら燻ぶるだけだ。

 再び煙草を吸い、暗闇に煙を吐きつつ。そして灰皿へ煙草を押し付けた。

 

 火が消えるのと共に、淡い光に映し出された記憶を消すように。