梅に鶯 尾形に蕎麦

 尾形の節の太い指が器用に箸を操り、丼から蕎麦を掬い上げる。軍には箸の握りもままならない輩が少なくはないと言うのに、この男は存外綺麗な箸使いをする。腹違いの弟が生まれるまでは父親から目をかけられていたようだから、幼少の頃は厳しく躾けられていたのかもしれない。

 普段はほとんど唇を動かさず気怠そうに喋るばかりのくせに、ぱかりと開いた口は思いの外でかい。尾形は蕎麦を頬張ると片頬を膨らませるようにしながら数回咀嚼し、含みきれずに口から垂らしたままの残りを箸で押し込む。無言で麺を噛む尾形を、月島も黙って見つめていた。

 昼時で活気溢れる店内は、そこかしこから蕎麦をすする音や楽しげな会話が漏れ聞こえていたが、二人の席だけは静まり返ったままだった。ぽっちゃりとした体型に愛嬌のあるおかめ顔をのせた女将が蕎麦を提供する声が響く。常連なのか、月島の真後ろの席の男は「今日も美味そうだなぁ」と女将に気安く声をかけると、さっそくずるずると豪快な音をたて始めた。


「……軍曹殿」

 尾形の箸が止まり、黒々とした瞳が月島を捉えた。普段は感情の読めないその真っ暗な瞳に、今はほんの少し困惑の色がのっていた。

「どうした」

 尾形はそれきり口をつぐみ、じっと訴えるようにこちらを見つめている。月島は腕を組んだまま、続きを促すように顎をしゃくった。

「……そんなに見られていると、食べづらいんですが」

「そうか、だが俺はもう食べ終わってしまったからな」

 そう言って、月島は自分の目の前にある丼に一度目を落とした。早々に蕎麦をすすり終え、汁まで飲み切った月島の椀は底までつるりと白い陶器の肌を見せていた。

「暇なんだ。お前を見るくらいしかやることがない」

 いいから早く食え、と促すとひとつため息をついた尾形が渋々と箸の動きを再開する。もそもそと口に蕎麦を詰め込む様はお世辞にも見ている者の食欲を刺激するような美味そうな食べ方ではない。

「……お前、麺の食べ方下手だよなぁ。すすれんのか」

 すすってしまえば早いだろうに。子どもの頃、麺のすすり方は教えてもらわなかったのかもしれない。本当に、何度見てもぎこちない食べ方をするものだ。けれど、月島はこの姿を見るのがなんだか癖になってしまって、ここのところ尾形との任務の食事はたいてい蕎麦屋を選んでしまう。

「はぁ」

 それが何か、と言いたげな視線をこちらに向ける尾形の口はもたもたと咀嚼を続けては蕎麦を飲み込んでゆく。大抵のことはそつなくこなすくせに、蕎麦はすすれない。月島は、知ったところで何の意味もない尾形のこの不器用な一面が好きだった。ふと、昔近所に居た野良猫のことを思い出す。


 薄汚れて灰だか茶だかに近い色になっていたが、もとは白地だったのだと思う。そこに、黒の斑が点々とついた老猫だった。島の子どもたちはそいつにすこしばかり身のついた魚の骨だとかの残飯を分け与えては、はぐはぐと不器用に食いつく様をかわいいかわいいと撫でていた。当時の月島にはその気持ちはこれっぽっちも理解出来なかった。糞のような父親のもと、自らが飢えずに生きるのに必死で、そんな余裕などあるはずもなかった。けれど今になって、少しだけ彼らの気持ちが分かる気がしている。

 軍の任務ではそれこそ死ぬ思いをすることなどいくらでもあったし、尾形に命を預けることも預けられることだってあった。けれどなぜか、命懸けの戦場よりもこうして蕎麦のひとつもすすれない不器用な尾形を見ている方が、この男も自分と同じように生きているんだなぁと月島に実感させてくれる。くすぐったいような、面はゆいような不思議な気持ちになる。……まぁこんなことは、間違っても尾形には言えないけれど。

 もそもそと蕎麦を完食した尾形が、表情のひとつも変えずに「美味かったですね」と言うのに、またあの猫を重ねてしまった。たしか、餌を食い終わったあとは子どもたちに見向きもせず、そっぽを向いてせっせと前足で顔をこすっていた。そんなつれない態度のくせにゴロゴロと喉を鳴らしていて、子ども心に猫とはなんとも面倒な生き物だと思ったのだ。


 月島が二人分の勘定を終えて店の外へ出ると、「そういえば」と尾形が口を開いた。

「あなたそんなに蕎麦好きでしたっけ。最近蕎麦ばかり奢ってもらってる気がしますが」

 まさか、お前が蕎麦を食べてる姿が見たいんだ、なんて言うわけにもいかない。「まぁな」なんて言葉を濁した後、少々決まりが悪くなり、月島は思いきり尾形の背を叩いた。「いてぇ」と大声をあげて背中を折りたたむ尾形が珍しくて、月島は声をあげて笑った。

 今しがた食べ終えたばかりの出汁の香りが鼻をくすぐった。