合図
幼い頃から利便性を追求した結果、俺はずっと坊主頭だ。風呂も楽でいい。短すぎる故に汗が時折目に入るのが難点だが、止める理由にはならなかった。
そんな俺と対照的なのが今俺の隣に座って落ち着きをなくしている尾形だ。小洒落た髪型の尾形は、長さのある部分の髪を後ろに撫でつけて整髪剤で固めている。時折髪の束が顔に落ちては手で戻して撫で付ける、それがあいつの癖だ。
尾形を知る人間ならば誰しもが知っている癖。
だが髪を触る所作がこれだけでないことに気付いたのは、この男と何の因果かお付き合いとやらを始めてからだった。
ぱらりと落ちた髪束を指で摘んで僅かに引っ張り、弄りながらちらちらと俺の顔を伺っている目の前の尾形。
「なんだ?」
「いえ、別に」
視線が俺の方に向けられるがすぐに逸らされた。普段なら鬱陶しそうにさっさと後に撫で付けるそれをひたすらに弄っている。爪で毛先を弾いたり、指に巻きつけたり。既視感のある動き、髪の長い女性が行うようなそれは無意識なのだろうか。
その間もひたすらに俺と視線は合わない。
僅かに頬が染まっているのが見えて口元が緩みそうになる。
「今、手が空いてるんだが」
ぴくん、と身体が揺れる。錆びたブリキのように鈍い動きで視線だけが向けられる。それは俺の胸元あたりで止まった。
「だが、お前は忙しいか」
髪を弄る手が止まる。やっと落ちていた視線が上がった。
子供が許しを請うような、躊躇う怯えた伺う視線。
母性本能はこういうものなんだろうか。胸の奥にくすぐったいような感覚が芽生える。こんなに甘えたの癖に、夜はこいつに抱かれてるんだから世の中わからないものだと我ながら思う。
緩く手を広げて視線を合わせると尾形はやっと重い腰を上げる。俺に身体を寄せ、両手を背中に回して抱き締めてきた。
垂れたままの髪の毛が頬に当たり擽ったい。
そっと尾形の後頭部に手を伸ばす。緩やかに撫でると尾形の力が緩やかに抜けていくのがわかった。
髪の毛を緩く弄るのが尾形の甘えたい意思表明だと気付いたのは、交際から一年程経った雨の日だった。
肌がじっとり濡れる程の湿気が部屋に立ち込め、不快感しかない。外に出る気も起きず、室内で時間を浪費していた。
「雨っていうのは」
水滴を纏ったガラスのコップに指先で無駄な線を描きテーブルに水溜りを広げる尾形は、俺の方など見ずにぼやく。約束もしていないのに勝手に上がり込んで来ていた。合鍵を持つ間柄でも礼儀があるだろうに。それを指摘しないで受け入れる俺も俺か。
「髪の毛を整える際の敵でして。坊主のあんたにはわからんでしょうが」
麦茶を傾けて世界の坊主頭に喧嘩を売り投げる尾形の髪は、普段より湿気でうねって広がっている。
「そうだな、わからんな」
俺が適当に流すと恨みがましい目で尾形が睨んでくる。その指先が、汗に濡れて垂れ落ちている髪の毛を弄っていた。
それ以上の会話が続かない。特にそれを不快に思うような浅い関係ではなく、そのまま話を終えようとした俺に尾形の視線が刺さってくる。物言いたげに、けれどそれを口にできないような絡みつく視線だった。
ややあって俺の足元に、正確には俺の太ももあたりに視線が落ちる。駆け引きにもならないそれの何が楽しいのかはわからないが、言いたいことはわかる。この言わなくても察してほしいと全身で叫んでいる尾形の様子が可愛くてたまらないと思う頭のイかれた俺は、言葉を飲み込んで自分の膝を軽く叩いた。
ぴく、とそれに反応した尾形は伺うように俺を見てくる。再度太ももを手のひらで軽く叩く。そろりとこちらに膝立ちで近寄ってから、俺のそこへ頭を乗せてきた。
「……かてぇ。コンクリートですか」
「文句があるなら降りろ」
「月島さんだって俺にここに寝てほしいはずでしょ、そうあるべきなんですよ」
文句を言いながら頰を擦り寄せ、足の間を撫でてくるその手を軽く叩いた。大して痛くも無いだろうその手をひらりと振りつつも、尾形は俺の膝の上から動こうとしない。そして俺も雑に落としたりしない。
あばたもえくぼ、だったか。こんなところも好きで包み込めてしまうのだから、不思議だ。
何より、俺だけに見せる姿、俺だけがわかる仕草があるのが堪らないと思うのは、やはり脳みそが膿んでいるのだろうか。暑いし、湿気もひどい。人だって腐りもするだろう。
「暑いだろうに」
尾形が先程まで自分で弄っていた後れ毛を後ろに流し、そのまま頭を撫でながら俺が言うと、尾形は大きな目を瞼の中に閉じ込めて呟く。
「汗ばんでますがね。優先順位に従ったまでです」
面倒臭い物言いしか言わんやつだなと改めて思う。
まあいい。どうせ誰に見せるわけでもない。
膝の上でごろごろと喉を鳴らしている錯覚に口元を緩める。
そのまま尾形へ身を屈め、少し低い温度へ唇を落とす。
僅かに開いた目は弧に緩む。触れたそこはすぐに同じ温度へと変わった。