惚れて欲しい

 尾形は傘を持たない。何でだろうなぁ、と月島はタオルを渡してやりながら思った。この男と週末一緒にいるようになって、もう三ヶ月ほどが経つ。お互い仕事が忙しくてなかなか時間の都合もつかないが、だからこそ金曜か土曜の夜はどちらかの家に行くのが習慣になっていた。

「先風呂入るか?」

 夕立というには長すぎる夏の雨に打たれて、尾形の服はぺったりと身体に張り付いている。意外といい筋肉だな、と以前言ったら、それなりに肉体労働なんですよと何故か呆れたように返されたことを思い出した。

「いいですか、借りても」

「うん、お湯も張ってあるから浸かっていいぞ。こないだの服出しといてやるから、このまま行ってくれ」

 傘ぐらい持てよ、いつか風邪引くぞ。小言のように言うと、尾形は拗ねたような不満げな表情で月島をじっと見た。

「何だ?」

「……別に」

 そう言って濡れた前髪をかきあげる。その目は、何かを期待するかのように細められた。求めているものがわからず月島が首を傾げると、ふんと鼻を鳴らして目を逸らす。ずくずくの靴下を脱いで、生白い足の裏を申し訳程度にタオルで拭ってから洗面所へ向かう。その後ろ姿に月島はもう一度首を捻ってから、尾形の水滴を追って床を拭き、靴の中に新聞紙を詰めてやる。

 翌朝も雨は降り続いていた。早くに起き出して身支度を整えた尾形が玄関に座って靴を履こうとしている。肩越しに折りたたみ傘を差し出してやると、また撫然とした顔で月島を見上げた。

「……ありがたくお借りいたします」

「何だ、風邪引いたら困るだろお前も」

「……はい。返すの来週でいいですか」

「いいよ、いいけど」

 明らかに何か含みのあるじっとりした物言いに、月島は微かな苛立ちを覚えた。

「昨日からなんだお前、思ってることあるならはっきり言え」

 尾形は靴から濡れた新聞紙を引っ張り出しながら、月島を見ずにボソボソと言った。

「情緒がない。デリカシーもない」

「はあ?」

「いえ。お借りします。ありがとうございます。行ってきます」

「おい!」

 月島は声を荒げたが、尾形は聞こえないふりで出ていった。なんだよ、とぶちぶち呟いて窓から道路を見下ろせば、貸してやったばかりの折りたたみ傘を差した後ろ姿がある。よくわからんやつだ、と濡れた新聞紙を捨てて、月島はもう一度布団に潜り込んだ。


 次の週末、明日はちょっとゆっくりなんです、と尾形が言った。せっかくなら一杯どうですか。言いながらジョッキを傾ける。その仕草がいかにもおっさんくさくて、月島は苦笑してから頷いた。嫌なこと、喧嘩をした後に、あえて砕けた調子で振る舞うことで無かったことにしようとする。そんな大人の物分かりのいい関係の作り方を、二人ともわかっている。

 酒の回った頭で帰り道を辿る。珍しく三杯も飲んでいた尾形はそれなりに酔っているらしく、機嫌良く辺りをキョロキョロと見回しながら歩いた。お互い無言だが先週の諍いは流れて居心地は悪くない。月島は、いい夜だな、と思った。いい夜だ。月がきれいで輪郭もくっきりしている。しばらくは雨も降らないだろう。

「お前何で傘持たないんだ?」

 言葉が思考のフィルターを通さないままに口からこぼれた。言ってから、まずかったかな、とちらりと尾形を伺った。近頃の昼間は真夏日になることもあるが、まだ夜はわずかな涼しさを残している。さらさらと風が吹いて、月島と尾形の間を抜けていく。

 尾形は先週のような拗ねた表情になって、月島をじんわりと睨んだ。

「あんたほんとに悪い男だな」

「すまん。でも気になって」

「弄ばれる俺の気持ちも汲んで欲しいもんですなぁ」

 非難めいた口調の中に、甘えが滲んでいる。月島は調子を合わせ、甘やかす声音で言えよ、と促した。尾形は少し勿体ぶって目を逸らせ、どうしようかなぁ、と呟いた。

「月島さんが言ったんですよ」

「んん?何を」

「本当に覚えてないんですか?あの、俺があんたを家に残して買い物行った日のこと」

「あー、あったなそんなことも」

「あの日の帰り雨に降られて、俺濡れて帰ってきたでしょう」

「うん」

「その時あなたが言ったんですよ、水も滴るいい男だなあって」

 そこで言葉を区切った尾形は、月島をじっと見たまま何度も髪を撫で付けた。