アルペジオ

「さすが月島さん、今日もばっちり」

 チューニングのチェックを行った尾形が、満足気に目を細めた。ギターの弦を爪弾く白い指先に目をやる。その繊細な動きに、性懲りも無く胸が締め付けられた。

 尾形のライブにつくようになってどれくらい経つだろうか。完璧主義の彼の要望に応えられるローディーがおらずすぐ辞めてしまうと、舞台監督に泣きつかれたのがきっかけだった。

 頼むから一度見に来てくれと懇願され、舞台袖から覗き見たライブでの事。急遽間に合わせられたであろう若いスタッフからギターを受け取り、尾形が小さくハーモニクス音を響かせた。

 気持ちの悪い不協和音に思わず顔を顰める。舞台に視線を戻すと、尾形は凍てつくような冷たい視線でスタッフを睨みつけていた。彼の口元が微かに動いたかと思うと、スタッフは顔を強張らせて俺の前を通り過ぎていった。

「月島ちゃん大変!スタッフまた辞めちゃった。ライブ中なのに…」

 舞台監督の泣きそうな顔に負け、チューニングだけならと引き受けたのが始まりだった。

 慌てて、しかし慎重にチューニングしたギターを手渡した時の冷めた目が、音を聴いた瞬間ハッと見開かれた。気持ちの良さそうな表情でギターを奏でる姿に、自分の苦労して手に入れた技術を正しく評価された気がして嬉しかった。

 それ以来、尾形のライブには必ず同行している。完璧主義の尾形に認められているという事が、自分の自尊心を大いにくすぐっているという事は自覚していた。自分が完璧に調整した楽器で尾形が奏でる甘美な音色を聴くと、たまらない気持ちになる。

 同時にこの立場を他の者に奪われてたまるものかという、胸がチリチリと焦げるような感情にはほとほと参っていた。

「はぁ…」

「大きなため息ついちゃって、何かお悩みですか?月島さん」

 顔を覗き込むようにして話しかけてきたのは、悩みの元凶である尾形だった。

「ああ、お疲れ様。別になんでもない」

「今日もありがとうございました。さ、打ち上げ行きますよ」

「え、今日は無いって聞いたが」

 聞き間違いじゃないですか?そう言いながらご機嫌な様子で歩く尾形に、これでも耳はいいんだがなぁと思いながら着いて行く。

 果たして到着したライブレストランには、他のスタッフは誰もいなかった。

「二人だけの打ち上げです」

 ふふんと得意気な顔で尾形が椅子を引き、給仕のような仕草で俺を座らせる。

 ステージでは次のパフォーマンスの準備が行われているようで、控えめな音量でマイクテストが行われていた。

「いい店でしょう?俺がまだ全然売れてなかった頃、たまに出させてもらってたんです。自分だけの居場所だから、誰も連れてきた事無かったんですよ」

 その言葉にドキリとした。俺が特別って事か?駄目だ、期待するな。

「ねえ、月島さん。俺の事好きでしょ?」

 その瞬間、ステージ上で演奏が始まりにわかに騒がしくなった。心臓が痛い位に胸の内側を叩いている。

 会話するのに苦労する程度には、店内に大音量が鳴り響いていた。とりあえず聞こえなかった事にしよう、そう決めてグラスを持ち上げる。

「月島さん、俺はアンタの事好きですよ」

 ボソリと言った尾形の言葉に、思わず顔を上げた。

「やっぱり聞こえてた。耳がいいのはよく知ってます」

 ニタリと尾形が笑い、そして俺の耳元に口を寄せて囁いた。

「ギター弾いてる時の俺の指、アンタの視線が熱くて溶けそうでしたよ」

 グラスを持つ手が震えた。

「お前の…アルペジオを弾く指が、綺麗だから」

「ふーん、アルペジオか…。まぁいいでしょう。今晩はまだまだ付き合って下さいね。飲みたい気分なんです」

 不敵な笑みを浮かべる尾形が、カチンとグラスを合わせてきた。不安と期待に胸がざわつき、味のしないビールを一気に飲み干した。