彼は知らない
「お前、なんかそのシャツびろびろになったな」
坊主頭の彼は俺の首元を指差した。家着として愛用している白シャツは、襟元が伸びに伸びきって、鎖骨の辺りにエアコンの風が容赦なく当たる。潮時かとは思っていたが、指摘されるまでになればいよいよだ。
「そうですね。切って雑巾にでもしておきます」
「まだ買ってそんなに経ってないだろ、変な脱ぎ方してるんじゃないのか?」
さあ、と少し大袈裟に首を傾げてみせる。わざとらしく見えたかもしれない。実際、いい加減気づかないのかと内心呆れているので、それが出てしまった嫌いもある。しかし、生来鈍感な彼はそんな俺の思いなど露知らず。
「次買うやつは大事にしろよ」
「はいはい。でも部屋着ですからねぇ...雑に着れるのが一番でしょ」
「...それもそうか」
お互い、着るものにそこまで頓着しない方である。彼は特に、身長にそぐわない体格の良さからサイズが自ずと限られるため、持っている服のほとんどが白か黒だ。
らしくない発言だったと得心したのか、月島さんは「今日の晩飯どうする?」と、話題を変えた。
***
俺たちの週末の過ごし方はルーティン化されている。2年も経てば息をするように、金曜の仕事終わりからどちらかの部屋に泊まり、月曜の朝、互いの会社へ出勤していく。
付き合ってしばらくの間は、月曜の朝が来るまで睦みあうこともあったが、ここ最近の日曜日は至極平和だ。晩飯を食べてから近所の銭湯に一緒に行き、サンダルの音をペタペタ鳴らして帰路に着く。アルコールと湯気とで火照らされた月島さんは、帰り道からウトウトするのがデフォルトだ。うっかり車道側を歩かせるとそのままこけるので、歩道に寄せて腕を引く。月島さんが抵抗せずに外で手を繋がせてくれる唯一の時間だ。
銭湯からうちへは5分程度で着く道のりだが、月島さんがふらつくので基本15分程度かけて帰る。
「月島さーん、着きましたよ」
「ん〜、まだ...」
噛み合わない返事で応答するあたり、今日もおねむのよう。手を繋ぐ前から片手に持っていた鍵でドアを開け、前後不覚な彼を招き入れる。歯はいつも磨いてから風呂に行くため、後はベッドに入るだけ。タオルケットを引っぺがし、筋肉密度の高い体を横たえた。
「ん...ひゃく...」
「はいはい、いますよー」
月島さんとは転職前の職場で出会った。鬼軍曹なんてあだ名がつけられるほど、昼間の表情は険しい。その彼が、ベッドの上ではまるで子供のようだ。警戒心がなさすぎることを喜ぶべきか、怒るべきか。あやすように額を撫でれば、ものの3秒で寝息が聞こえてきた。
「おやすみ月島さん」
軽く唇に触れると、彼の眉間に皺が寄る。俺に子供はいないが、似たようなものかもしれない。
彼と共に、そのままベッドに入る時もあれば、明日の予定を確認するために一旦退出する場合もある。今日は後者のため、しゃがんでいた足を踏ん張って立ちあがろうとした。そのとき、
ぐいっ
「またか...」
寝落ちた月島さんの癖が出た。俺の気配が遠のくのを察知するかのように、立ち上がる瞬間にシャツの襟元を引っ張る。大人の男2人が首と手で引っ張るものだから、当然襟は伸びやすい。本人全く自覚がないため、午後のようなツッコミが入るのだ。もちろん手を解くこと自体は造作もないのだが、「ここにいろ」と懇願されているようで、毎度引き止められるとしばらく動けないでいてしまう。
「ひゃく...」
(夢の中でも俺といてくれてるんですか?)
寝顔を覗き込みながら、来週末の予定を考える。この人に襟を伸ばされる前提で、新しいシャツを一緒に買いに行くか。
明日の予定表を見ることは諦めて枕元の明かりを消す。隣に寝転ぶと、安心したのか襟元の手は勝手に綻んだ。愛しい人の寝顔を見ながら、俺は瞼をゆっくり閉じた。