星々が瞬く空の下、兵営はひっそりと静まり返っていた。
明治三十九年、まだ火鉢が欠かせぬ時季。
馬を厩舎に戻し、鶴見中尉の指示通り浴場へ向かう。本来この時間に入浴することはできないが、衛生の見地からと、炊事当番の前山に命じて尾形のためだけに湯を張り直させたらしい。
無論、今夜のことは悉く機密事項だ。
板敷きの脱衣所の奥、湯気が立ち上る浴槽には、傾慕する上官が居た。
「遅かったな尾形」
「月島軍曹殿」
月島は手拭を頭に乗せ首まで湯に浸かっていた。浴槽の縁に並ぶ二つの提灯が辺りを仄明るく照らしている。
「厩当番なもんで、『馬匹の世話』を」
今週は鶴見の小隊が押し並べて週番に充てられている。秘密裡に事を進めるため、淀川中佐に「ご協力いただいた」のだ。
「軍曹殿も週番下士官でしょう。油売ってていいんです? 宇佐美は不寝番に戻りましたよ」
脱衣しつつ苦言を呈する。浴場の始末は自分で行えと言われていたから、月島がいる必要はない。しかし言葉とは裏腹に、気持ちは昂っていた。
「『丁度』俺らの巡回時間だから、問題ない」
今頃宇佐美一人で巡回してるだろ、と何処吹く風だ。隙有らば糞真面目にロシア語の練習をしている割に、不良なのだ。
「本来の任務はこっちだからな」
月島が立ち上がると、鍛え上げられた下腹の際疾い所、奉天の傷が顕わになる。
「そこに座れ」
洗い場を指す月島の手の、張り詰めた指先。
厳格な月島らしく、無骨な指がまっすぐに伸びている。出征や演習時は元より、平時でも指先まで神経を張り巡らせているのだ。
特に静止や拒絶の際の、まるで一分の隙も許さぬと指が揃えられた手は心根の現れのようで、つい目が奪われる。
簀子に胡坐を組むと、月島が頭の手拭を腰に巻き正面に座った。傍にある湯桶の一つには手拭と石鹸が入っている。
「三助の真似事ですか」
「『痕跡は残らず洗い清めろ』とのことだ」
「お得意の汚れ仕事ですな」
「汚れ仕事はお前の方だろう?」
月島は桶に掬った湯を、尾形の脳天にぶち撒けた。
「ぶッ……、軍曹殿、洗礼じゃねえんですから」
「水の方がよかったか?」
指の腹で尾形の額や頬を擦り血痕を落としていく。顔でも容赦がない。
尾形が先程まで対峙していた男の顔は、尾形といやに似ていた。己が男の血筋なのは明らかだ。師団長になる頃には生き写しと言われるだろうか。
「手を出せ」
言われるままに両手を差し出すと、指の皺や爪先に入り込んだ血が薄明かりの下に浮かび上がる。月島は濡手拭に石鹸を擦り付け尾形の汚れた手を包み込んだ。
「甲斐甲斐しいことで」
「戦友、だからな」
「戦友……で、ありますか」
「クソ親父の血なんか自分で触りたくないだろ」
尾形は鶴見から父である花沢中将殺しを引き受けた。
凱旋し復命してからまだ間もない。「二〇三高地の責任を負い自刃」。皆そう信じて疑わない筈だ。
「同様の経験がお有りで?」
「……さあな」
指の力強さが作用し、こびり付いていた血はすっかり落ちた。
「背中も流してやる。後ろ向け」
──あんたは「満鉄」のこと、知っとりますか?
月島に背を向け、そのまま上体を後ろに倒す。
「おい」
「軍曹殿の体……湯たんぽみたいですな」
「俺で暖を取るな」
背中から月島の熱が移り、冷えた体に染み渡る。
後頭に当たる月島の胸筋に、似ても似つかぬ母の胸を重ねる。此岸では殺した甲斐がなかったが、彼岸では会えただろうか。
「女旱か」
「開新楼でも奢っていただけます?」
「一等座敷は鶴見中尉殿に頼め」
「はは」
旅順攻囲軍の中に在る弟を嘆くどころか撃ち殺した己には、祝福された道などなかったのか。
「猫みたいに戯れ付きやがって」
首を仰け反らせて見上げると、慈愛に満ちた眼差しがあった。
「ニャア」
鳴いてみせれば無骨な指先は尾形の顎をぐりぐり擦った。
この手が、指が、気を許すのは、如何なる時か。
気づけば月島を引き寄せて、唇を重ねていた。
「──尾形上等兵」
唇を離した途端、鼓膜に響くドスの効いた声。
ああ、調子に乗り過ぎたな。
「不敬だ。奥歯を噛み締めろ」
「ぶふッ!?」
平手の音が響き渡るのと同時に、簀子に倒れ込む。
「余す所無く片付けてから出て来い」
月島は提灯を一つ引っ掴むと、襦袢と軍跨だけを着て浴場から出て行った。
軍衣と褌は握り締めたまま。
「ははあ」
遠ざかる足音を聞き、顔がにやける。拳ではない上に、あの慌て様。脈はあるかもしれん。
月島の熱が移されたように左頬がじりじりと痛む。
左頬を撲たれたら、次は右頬を差し出すべきか。次も甲ではなく手のひらで撲ってくれるだろうか。
「それとも拳か……月島のことだから蹴りかな?」
指先まではっきりと写された手の形に、己の手を重ね合わせた。