潜む獣


 一瞬だけ視界を掠めるそのひとの表情に、尾形は口元を歪める。だが次の瞬間には既に、その人の貌には感情の一片すらも伺えず、鉄面皮とはまさにこれか、といわんばかりの無の表情で、眼差しばかりがまっすぐに前に向けられている。

 日清の戦争を潜り抜けてきたその人は常に冷静で、険しい表情のうちに、感情の色を見せることはない。

 いや、人であるのだから、兵卒たちの軽口に笑うこともあるし、怠惰を見とがめれば鬼の形相で怒鳴ることもある。だが、彼が観るのは、そういうものではない。

 そうでは、ない───

「どうした?」

 じっと自分に向けられる視線に、離れていても気付いたのだろうか。そのひとは、尾形に顔を向け、そう問いかけた。「何か言いたいことでもあるのか」と。それに答える。

「いいえ、別に、なにも」

 そう、何も。ただその時に浮かべた表情は、どうやらその人の神経に、ほんの僅かに障ったらしい。少しばかり眉間の皺を深くして、しかし何を言うでもなく顔を背ける。その横顔は不機嫌そうだと言えばそうなのだが、しかし、そうではない。不機嫌というよりは、無関心のほうが色濃い横顔を尾形は未だ、見つめている。

 見つめながら、先の一瞬のそのひとの表情を、思い起こしている。

 別の小隊の将校からの叱責を受けて、形ばかりは恐縮していたその人を、相手は取るに足らぬと侮ったものか。所詮は下士官、陸士出の将校とは身分が違うと、その初めから見下していたものか。ふん、と尊大に鼻を鳴らし、「これだから鶴見の隊の連中は、」と吐き捨てた。

 その刹那、くっと顎をひいたその人の、軍帽の庇の陰に見た眼(まなこ)。ぎらりと光り、上目遣いにその相手を睨(ね)めつけた、その目。そして、食いしばった歯の力の強さに、色を失いへの字に曲がった、その唇。

 だが既に踵を返した将校には、その眼光は気づかれぬ。つと軍帽の目庇(ひさし)を指先に摘まんで目深に下ろす、陰になっても消されぬ、むしろそのゆえに獣のように光って、金と緑のあいだのような色をして、とんでもなく剣呑で物騒で、ああ、そう、酷く、うつくしい────

 誰よりも小隊長である鶴見に心酔する、その右腕である人の見せる、一瞬の憤怒。それこそがかのひとの本質だと、尾形は思う。いつも従容と軍規に従い、個人の感情などというものとは無縁の顔をして、有能ではあっても、ただ岩のように謹厳なばかりの面白味のない男だと思われている、その人の本質。

 自分だけが知っている本質。

 そして、それを殊更に隠そうとする、その仕草。軍帽のつくる影に全てを覆い隠してしまおうと、目庇(つば)を押さえる指先と、くっと引かれる顎と、そこばかりは隠しおおせぬ引き結ばれた唇。

 自分の父親を殴り殺したという、その人の本質。ただ大人しく飼いならされているばかりの犬ではない、その、本性。それが垣間見えてしまう瞬間が、たまらなく好きなのだと尾形は思う。

 思いながら、つい己の口許に浮かぶ笑みを、掌の下に匿(かく)して、未だその人を見ていれば───

「!」

 つかつかと尾形に歩み寄ったそのひとは、ぎろりと尾形を睨み上げ、そしてぼそりと呟いた。

「不敬」

 何が嬉しい、と低く問う声に、尾形は視線を逸らし、しれっと答える。

「いいえ、何も」

 口元から下ろした掌の下に、既に笑みはない。だが、どきりと一瞬だけ跳ねた鼓動を感じつつ、胸の奥で悪態を吐く。

 ───悪童。この、偽善者。ひとごろし。

 その言葉をまるで耳で聞いたかのように、その人は尾形に向かって、吐き捨てた。「この、くそ餓鬼が」と。

 きょとんと尾形は眼を丸くして、それから今度こそ、ははっとあからさまに声を立てて笑う。それに口元だけを歪めて、その人は彼の前から去っていった。ほんの一瞬の、彼だけが知っている、悪童の眼差しを残して。


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