「証言」とは、 当事者の言葉という点ですべてが価値あるものです。ただ同時に、証言者の心象と心証、二つがあって証言は成り立っていると考えています。
証言を歴史的な史料や現場百遍で裏付けること。証言のなかからファクトとして踏めるもの、底抜けしないものであることを確かめ、取材者として心証を追体験することは、時間の経過を経ている場合には物理的な困難さがあります。他方で、証言者が何をもって、なぜそのように考えて判断したのかという、当時の心象を確認する作業にも難しさがありえます。
だからこそ、その当事者に「訊くのではなく聴こえる瞬間を待つ」 作業が大切になります。具体的には 、歴史の当事者となった方々の人柄や物の考え方など、相手の呼吸にこちらの呼吸を寄り添わせていく作業ではないでしょうか。
とくに、あえて語りたいという強い意欲や動機のない相手からお話を伺うときには 、相手が構えずに、素直な心持ちで本音を明かしてくださるものでなければ、歴史の証言としてはやはり偏りが生じてしまう怖さがあります。そこに意図がありうるからです。
かつ、何十年も前の素直な心象風景を共有するためには、ときに同じ場所を歩き、同じ空気を吸い、時間を共有することが何よりも大切だと思っています。
「訊くのではなく聴こえる瞬間」に語られる言葉、それこそが歴史の証言と考えてきました。素直な心象風景からの言葉だけが、歴史的な事実、実相、情景というものを「踏める話」、すなわち歴史の証言たりえると考えてきました。
証言者の心象(素直な言葉)と心証(客観的な状況)との両方が、聞き手であり、書き手である私自身のなかで矛盾なく重なりえたもの、それこそが「ひとつの史実」であり、そこを確かめることこそが、活字として残す者にとっての最低限の作法ではないでしょうか。
すると、私の書き物はいつも、読み物としては派手さの乏しいものとなってしまいます。面白くないものになってしまいます。それを面白く仕立てるのが物書きの才能であり、努力だろうと指弾されれば、私は恥を偲んで、自身の非才さと、無能さと、努力不足をここに懺悔せざるをえません。
ただ、悔いはありません。決してストーリーテリングでエンターテイメントな 、泣かせる、あるいは歓喜を呼ぶ物語ではなくとも、「訊くのではなく聴こえる瞬間を待った」言葉こそ、それこそが伝えるべき、遺すべき、歴史に対する真摯さであるはずではと、今なお信じています。
私の書き物はその意味で、語って下さった方々との伴走の物語、ただ伴走したという、それだけであったのかもしれません。そこをご理解下さった上で、七尾和晃の物語を受け止めていただければ、あなたというたったひとりの読者に巡り会えたことを私はただ感謝致すばかりです。
無名の人間が歴史を創る。
懸命に生きた一人一人の言葉と姿を刻む。
私が紡いだ物語と、私が費やした半生は、ただそのためだけにありました。
それが、私が追求し、自身に課してきた「学芸の作法」のすべてです。
ありがとうございます。
© 2023 Kazuaki Nanao