最近、「人生100年」というフレーズを耳にするようになりました。
医学の発展に伴う近頃のトレンドと思いきや、江戸時代の初期に著された養生訓にも「人の身は100年を期とす。」とあり、古くから人生を100年程度と捉える知見があったことが窺い知れます。
一般に養生といえば、どうしても古臭い節制を重んじた肩苦しいイメージが付き纏いますよね。正に、この書に出会うまでの私がそうでした。
私も以前は、養生訓を時代遅れの健康本程度にしか思っていませんでした。
しかし読み進めるうちに、それが“人生哲学書”とも呼べるほど深い内容であることに驚かされました。
生活の知恵だけでなく、心と体の整え方、そして人生をどう考え、どう生きるかが説かれていたことに、私は大きな衝撃を受けました。
実は、私と養生訓との出会いは、還暦前の私が第2の人生を目指して中国の大学の日本語教師をしている時に、その大学の広闊たる図書館の片隅の書架に始まります。
「私はまるで人生の答えを探すように、毎日そのページをめくり続けました。」
心も体も弱っていた私が、中国の静かな図書館で、ふと手にした古びた一冊。読み始めると、まるで私に語りかけてくるように、一行一行が心に染み渡りました。」
今日は、この養生訓のことをお話したいと思います。
貝原益軒の人となり
貝原益軒は、江戸時代初期、福岡藩(旧黒田藩)の下級武士の家に生まれました。生まれ年は寛永7年、西暦でいうと1630年。関ヶ原の戦いからちょうど30年後、まさに江戸時代が始まって間もない頃のことです。
父・利貞(号は寛斎)は、藩の記録係を務める文官で、家禄は150石。決して裕福でもなく、いわゆる武士階級の中でも中ほどの家に育ちました。
益軒は幼い頃から病弱だったといいます。実母は短命で、彼がわずか6歳のときに亡くなっています。どうやら長寿の家系ではなかったようです。
10代後半には黒田藩に仕官するも、ほどなくして藩主の怒りに触れ、職を失ってしまいます。その後、6年以上もの浪人生活。しかもその間、目の病気と体調不良に悩まされ、1年間は大好きな読書すらできない日々を送っていたそうです。
食べていくために、独学で漢方などを学び、再び藩に復職したのは数年後。そこからは70歳まで現役で仕え、実に83歳で『養生訓』を完成させました。そして、最期は84歳でこの世を去ります。当時としては驚くべき長寿ですね。
益軒のすごいところは、「学んだことは必ず実生活に活かす」という実践主義にあります。ただの知識人ではなく、自らの体と心で学び、試し、納得して書いたからこそ、多くの人の共感を呼んでいるのでしょう。