■□田園の憂鬱 佐藤春夫著□■
小説(浪漫派文学)
新潮文庫 初版 昭和26年8月15日発行
作者 佐藤春夫(1892-1964)
生まれは和歌山県新宮市。詩人であり小説家。本作品「田園の憂鬱」(1919年刊)は代表作。続編に「都会の憂鬱」(1923年刊)がある。
■「田園の憂鬱 或いは 病める薔薇(そうび)」が、この小説の正式な題名である。
本書、後書き「改作、田園の憂鬱の後に」で作者、佐藤春夫はこの作品の創作の経過について記している。作品の冒頭以下五節四十枚(おそらく本書冒頭から46ページまで。この作品の約四分の一に相当する部分)は「病める薔薇」の題名で雑誌「黒潮」に掲載された。(1916年5月)その後、「続病める薔薇」原稿用紙50枚を書き上げたが、雑誌編集者から採録を拒絶された故を持って、自ら遺棄してしまったとのこと。
また、その後、本作品の大部分にあたる箇所を「田園の憂鬱」として書き上げる。(1918年2月)そして、それは雑誌「中外」に掲載されるのだが、(同年9月、題名は「病める薔薇 或いは 田園の憂鬱 」)それは不充分な作品であるとの自覚があった事情で、推敲に推敲を、校正に校正を重ねた後、ようやく1919年3月に定稿となるが、尚、今更、これをどうすることもできない箇所も多々ある有様で、深慮の末か、あえて、そのままとしてしまったとのこと。それが、本作品「田園の憂鬱 或いは 病める薔薇」である。
■ 主人公の青年(その名は最後まで記されない)は当時の佐藤春夫自身と重なるところも多いはず。
その意味で、(それは、そのままではないにしろ、あるいは当然、佐藤自身の生活経験にならったデフォルメがあるにせよ)青年作家、佐藤春夫の心境……それは憂鬱と倦怠に象徴されるような……と実際の彼の田園生活を綴った作品ともいえるはずであり、それは、それ故、リアリティーのある作品として仕上がっているといえるだろう。そして、それは、また、佐藤自らが語るように「自ら親しく体験し、かつ比較的親しく心にあった作品……暫く私が住まなければならなかったところの或る世界のアトモスフィア(環境)……」の言葉でも裏付けられている。
■ この物語の中の情景について。
佐藤は詩人でもあるので、その文体はそれ故、観察的であり写実的な印象を受けるものがあるかもしれない。その写実的な文体は作者自身が所有しているところの深い感情によって修飾されていて、抒情的な文体へと巧みに昇華されているといえるようだ。それは、この作品を長く人々の関心のうちに保存させる力にもなってくれているだろう。
そして、その抒情的情景には、やはり私たち日本人が各々の記憶でイメージできるところの古き良き時代への郷愁や思い慕う感情をも誘い出してくれるものがあるようで、それは、それ故、わたしたち読み手が今、抱くことのできている心の中の情景にも、新たな色彩を加えてくれるだろう。その色彩とは主人公の青年の心が奏でる情緒世界(それは、まさにそう呼ぶにふさわしいだけの抒情的深みがあるのではあるが、時には、幻覚や幻想がレンズのフィルターのように作用しているようだ)の明暗と田園の環境の彩度を直接に表現したものといえる。
■ ユートピア……その別の名を田園と呼んでいたのかもしれない。
青年はそこを自己蘇生の場(それは、それ故ユートピアとも呼んで良いのでは)として選んだのだろう。
この物語は「その家が、今、彼の目の前へ現れて来た。……」で始まる。この田園の素朴な民家にたどり着くまでの経緯(いきさつ)については、あまり触れられていないが、この先も自分の頼りない神経を余計頼りなくされてしまうだけに終わりそうな都会生活から離れることと、その後遺症を癒すための場として、青年が選んだのが、この田園であったのだろう。
再び佐藤の言葉を引用すれば、「私のAnatomy of Hypochondria(憂鬱の解剖)は到底ものにはなっていない。」(当時、佐藤自身が実際、神経衰弱を患っていた)でも理解できるところだ。この言葉には作者、佐藤春夫、自らが、この物語の創作を機会に、自己蘇生を期待していたことが、かえって、うかがえるようにさえ思えてくる。
■ 病める薔薇(そうび)は青年に何を喚起させたのか?
「さて、ここに幾株かの薔薇がこの庭の隅にあった。」で始まる主人公の青年とこの薔薇との関係は、物語が進むうちに青年が自らの蘇生をその薔薇に託しているように思わせてくれる。
この物語には青年自身の命と、この病める薔薇だけでなく、他の命との交流が痛々しいほどまでに描かれていて、それは思わず感情移入させられてしまうほどなので、いっそう痛々しくて仕方がない。しかし、その痛みこそは、自己蘇生への陣痛でもあるに違いない。そして、その交流の深みでは、最早、この物語の中の世界と、私たちの命が存する、この現実世界とを超え出ていて、両者に共通する普遍的なものが示唆されているようにさえ思えてくる。
はたして、その田園での生活は青年にとっても佐藤にとっても、ユートピア(自己蘇生の場)でありえたのか?(なりうる経験があったのか?)……それとも、そこは都会とは違う別の現実世界に過ぎなかったのだろうか?……それはこの作品の読み手である私たち自身が青年の心境を自らの生活経験に重ねて問いかけてみることで分かってくることなのかもしれないし、それが、この作品の魅力でもあるのだろう。
■ 作品の舞台やその背景について。
この作品の舞台は武蔵国と相模国の国境(くにざかい)に沿って横たわる丘陵地にあった。そこは武蔵野台地の南端に位置し、現在も多摩丘陵と呼ばれている、緩やかな起伏が連なる気候温暖な土地である。丘陵の植生はコナラ(ブナ科)などの、落葉樹を主にして形成され、武蔵野の植生の特徴を良く現していた。新緑や紅葉の季節には、まさに田園の名にふさわしい景色が展開されていたことだろう。その植生のお陰で地下水にも恵まれ、谷戸と呼ばれる小川が流れる谷地には現在でも湧水池が残っているようだ。丘陵部では野菜畑や果実畑が、谷戸では水田が広がり、炭焼きや養蚕も盛んであったようで、その時代を偲ばせる素朴で質実な、人々の生活の営みがうかがわれる。
神奈川県都築郡中里村鉄(くろがね)[現在の地名、横浜市青葉区鉄町(くろがねちょう)]
大正五年四月(1916年)佐藤春夫は内縁の妻と二匹の犬と一匹の猫をつれて、この地に移り住み、大正九年まで生活していた。現在、その地の街道沿いに文学碑「田園の憂鬱由縁の地」が建っている。
参考:物語の中に出てくる鉄道は鉄道院横浜線(八王子~東神奈川、中央線と東海道線を接続し、信州や八王子で生産された生糸を横浜港に輸送する目的で1908年、横浜鉄道により開業された。1917年国有化)