| 寄稿 |幻想でも、無意味でもなく ────スロラン・D・ペシチ『ハルムスの幻想』沖隼斗(ロシア文学研究者)
memo
一体何が楽しくて映画なんて作ってるんだろう」と聞こえなくもない「スタッフ軽視発言」で炎上したある女優のことを、「ジャズを語る人間はそのことだけですでにジャズと敵対している」と規定した山下洋輔と重ねて思い出す。ジャズを「X」と置き換える。ある女優の炎上はあらゆる「X」との不可視の敵対関係に可憫に光を当てたのであって、ブツと人間の馴れ合いを串刺しにする永遠の問いなわけだが、ところで「詩」と「映画」敵対関係についてはどうか。パゾリーニから中川龍太郎まで「詩」と「映画」に取り組む人間は少なくない。
執筆者の沖斗氏は若きロシア文学研究者であり、「映画」に対して基本的には苛立っている。我々が昨年の研究にソ連映画『ミスター・デザイナー』を取り上げた際に手を組んだ。終了報告にある発言者O氏とは彼のことです。研究で問題になったのは、ブロークと「詩」etc、ブリューソフと「象徴主義」etc、マリネッティと「未来派」etc、マレーヴィチと「ロシア・アヴァンギャルド」etc、ロバート・ミッチャムと「ダンディズム」etc、クリョーヒンと「ペレストロイカ」etc、COVID-19と「映画 (館)」、シネフィルと「愛」etc。
『ハルムスの幻想』をこれから日本語圏で見るためには、VHSを手に入れるか (今回の上映素材はこれ)、日本語字幕なしの違法配信動画を見るかの二択しかおそらくない。『No.1・肉挽き機』(1928) なるハルムスら「オベリウ」グループの「映画」については知る由もない。日本公開時には次のような識者がパンフレットに執筆した (ハルムス研究者の小澤裕之もこのパンフレットについて言及している) 。一瞥して沖氏は「懐かしい名前がありますね」とコメントしている。歴史の冷酷さに思いを馳せたい。
村山匡一郎井桁貞義桜井郁子高橋康也 (聞き手・鴻英良) 、田畑敏恵沼野充義貝澤哉
異端審問 (A:F=NL)



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『ハルムスの幻想』 Случай Хармс The Harms Case 1987年 ユーゴスラヴィア カラー&モノクロ 92分 Radiotelevizija Beograd
監督 : スロボタン・D・ペシチ 製作 : ヨバン・マルコビチ 脚本 : アレクサンドル・チリチ スロボタン・D・ペシチ 撮影 : ミロシュ・スパソイエビチ 音楽 : アレクサンドル・ハビチ 編集 : ネバ・バビチ 出演 : フラノ・ラスチ (Harrms) ダミヤナ・ルトハル (Angel) ミリツァ・トミチ (Irina) ブランコ・ツベイチ (Maria) ムラデン・アンドレイエビチ (Zabolotsky) ステボ・ジゴン (Professor)
第41回カンヌ国際映画祭ある視点部門出品作品
日本配給ケーブルホーグ (シブヤ西武シードホール公開)
奇想天外映画祭 vol.2 Bizarre Film Festival Freak and Geek アンダーグラウンドコレクション2020上映作品
幻想でも、無意味でもなく

 東西冷戦が終結して三十年余り経ち、ソ連文学を体制反体制といった類型の仕方で消費する流行も去ったようだ。その消費形態が去ったことで、あんなにあったソ連文学関係の雑誌や翻訳書も姿を消してしまったi。ペレストロイカ後に急速に冷めたロシア文学熱の更地にあって、一九二〇年代後半にレニングラードで結成された芸術家集団「オベリウ」の中心人物である、ダニイル・ハルムス(一九〇五 - 四二)は、日本でいまだに根強い人気を誇る詩人だろう。この三十年でなされた翻訳の数も多いii。三〇年代のソ連の空気を取り込んだナンセンスな事柄を書きつつも、あくまで徹底して言語的なハルムスの作品には、「スターリン期の非公式作家」などの括り方から外れる魅力があるようだ。
 去る九月十七日、新宿K'sシネマの特集上映「奇想天外映画祭vol.2にて、ユーゴスラヴィアのスロボラン・D・ペシチ監督作品『ハルムスの幻想』(原題Случай Хармс一九八七年製作iii、一九八九年日本初公開)を観た。題名から分かる通り、詩人ハルムスを主人公に据えたこの作品は、芸術家の「脳髄洗浄」を語る科学者と、一九一七年のロシア十月革命を思わせる街の描写を冒頭部として、十九年後(設定では一九三六年頃かiv)のハルムスの不意の帰宅から、突如彼の部屋に窓をぶち破って舞い込んだ「天使」との奇妙な「梁探し」を描く中間部と、銃殺されたハルムスの遺灰を受け取った恋人のイリーナが、「梁」を持った「天使」達と天を舞うハルムスを窓外に見る終結部の三部構成だ。中間部は、いかにもソ連らしく作られた情景(共同住宅 [コムナルカ] やその隣人の老婆、ロシア内戦時の有名なポスター、粗末な酒場での議論と乱闘など)と、劇中人物の語りや朗読、劇中劇などで様々に引用されるハルムス作品とが混ざり合い、一種独特な祝祭感を現出させている。だが、通行人の不意の発砲、なによりも、同じ「オベリウ」の詩人ニコライ・ザボロツキー(一九〇三 - 五八)の逮捕と、ハルムス自身の逮捕・銃殺が作品を不穏な雰囲気で覆ってもいる。なんてことはない。この作品は、ハルムス自身とその作品をモチーフとして、「権力に抑圧された詩人」の悲劇の物語を変奏しているのだ。ひとまずは、そう理解して作品を鑑賞できるだろう。
 しかし、悲劇の物語としてこの作品を観るには、あまりに「紛い物」が多すぎはしないだろうか。映画製作当時にどれほど情報が開示されていたか不明だが、ザボロツキーの逮捕が一九三八年、ハルムスが精神病院で死ぬのは一九四二年であり、劇中を一九三六年頃とするならば、劇中の詩人の銃殺とはかなりズレがある。また、ザボロツキーは眼鏡をかけた朴訥とした写真をよく見かけるが、劇中の彼は口髭を生やした洒落者だし、恋人のイリーナも彼女との会話も、ハルムスの短編「邪魔」(一九四〇年)が元になった架空の存在だ。中盤、ハルムスと「天使」が郊外で釣りをする場面で、「原稿は燃えない」vと言った「天使」は、それは誰からの引用かとハルムスに訊ねられ、「ザボロツキーだ」と答える。けれどもこの引用が、ミハイル・ブルガーコフの長編小説『巨匠とマルガリータ』(一九二九 - 四〇年執筆)からであることは、ソ連文学を少しでも読んだことのある観客からすれば自明のことではないか。死んだハルムスが「天使」と天を舞うクライマックスにしても、天は映画のスタジオの一セットであることが露出させられて、「死んだ詩人が天使と天を舞う」という陳腐な演出が、あくまで虚構であることが観客に明示される(その「天使」にしてから、それを証し立てる翼は着脱可能なものであった)。そして、ソ連らしさの象徴であった共同住宅の老婆を演じていたのが男性であったことも判明し、映画は幕を閉じる。冒頭で「この映画はフィクションです」と述べられるように、この映画は歴史的な事実でさえも曖昧のまま、多くの「紛い物」ともに装飾の一部になってしまうかのようだ。ここでは現実と幻想、権力と詩人といった二項対立や「悲劇の物語」などはぐらかされて、紛い物の出来事となる。(余談だが、邦題は『ハルムスの幻想』と分かり易く意訳するのではなく、『ハルムスの出来事』と直訳するべきだろう。字幕で「Случай」という言葉は「出来事 [ケース] 」となっていたが)。
 そう書くと本作が、ハルムスという記号とただ戯れる映画のようにも思えるが、それに淫している面はあるものの、そこから危うく逃れていく主題もあるようだ。「天使」である。ハルムスが無精髭を剃っているところへ窓から舞い込んできた「天使」は、握手を求めても手を差し出さない詩人の手から剃刀を奪い取り、「貴方の短編や詩を読みました」と語りはじめ、それから一篇の詩を朗読する。「私は楽譜を見/闇を見/百合の花を見る 馬鹿だ(дурак [ドゥラーク] )」と。すると「天使」を遮ってハルムスは、「『農夫 [バトラーク] 』だ」と訂正する。それから「天使」はまた残りの四行の朗読を続ける。ここでは、詩人とそのファンの間で現実に起こりそうな情景が描かれているが、映画後半の釣りの場面でも、「天使」はまた同じ詩を朗読してハルムスに訂正される。ただ前の場面と異なり、詩人は「『馬鹿』の方がいいな」と「天使」の誤りを受け入れ、詩を手直しする。朗読される詩は、一九三三年頃カリグラフィックに書かれたハルムスの手稿の一つで、実は、「天使」が朗読した「馬鹿」の方が正しい。この場面を、「天使」からインスピレーションを受けて詩を改作するといった風に、創作の舞台裏をフィクショナルに演出しただけと考えることもできそうだが、事は単純ではない。終盤、恋人のイリーナの目の前で「梁」とともにハルムスが連行される場面が終わると、タイプライターの打鍵音をバックに、顔中汗まみれで前方を呆然と見つめる詩人のアップが三十五秒ほど続く。その視線の先でタイプライターを打っていたのは、秘密警察の長官であり、それを演じているのは「天使」と同じ俳優なのだ(この俳優はその他に、冒頭部で軍人を、終結部でハルムスの遺灰の配達人を演じている)。そもそも、非公式であるはずのハルムスの作品を読んでいると語る「天使」は尋常ならざる読者であり、登場の時点で、様々な文学者の作品を自己検閲したと言われるスターリン=権力者を暗示していたのかもしれない。いずれにせよ、俳優の使い回しによってこの映画は、権力とそれに抑圧される芸術家という単純な二項対立ではなく、むしろ、その両者の危うい共犯関係を描き出しているのではないだろうか。
 この映画の製作された一九八〇年代後半は、ソ連でペレストロイカが行われたことで、非公式とされていた文学作品などが一挙に解禁された時期viであり、ハルムスもまた、その流行の中で再発見され、また消費された作家の一人だった。けれども、その流行は、彼や「オベリウ」の詩人たちの「悲劇的な結末」が、その他の作家たちとともに、体制批判の手段に容易に変わり得ることも意味していた。『ハルムスの幻想』は、一九三〇年代の詩人を扱う上で外すことのできない、権力の引き起こした悲劇と、その物語にだけ還元し得ない権力と詩人の関係を描き、その歴史意識を露わにしている。その意識が、詩人がふたたび生きるための場所を我々に示してくれるだろう。「終わりはない、なぜなら別の場所で生は続くのだから」vii(2020年10月執筆)

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i例えば、『ソヴェート文学』(終刊一九八八年)、『ロシア手帖』(終刊一九九五年)、『えうゐ』(終刊一九九七年)など。またイリヤ・エレンブルク(一八九一 - 一九六七)やアレクサンドル・ソルジェニーツィン(一九一八 - 二〇〇八)などは一時期盛んに翻訳されていたが、もう久しく新訳がでていない。
iiハルムス以外の「オベリウ」の詩人、例えばアレクサンドル・ヴヴジェンスキー(一九〇四 - 四一)や映画にも出てくるザボロツキーの作品が、雑誌の特集やアンソロジー等でしか翻訳されていないのに比べ、ハルムスは、彼一人の作品で何冊も翻訳書がある。数例を挙げると、『ハルムスの小さな船』(井桁貞義訳、長崎出版、二〇〇七年)、短編集『ハルムスの世界』(増本浩子/ヴァレリーグレチェコ訳、ヴィレッジブックス、二〇一〇年)、また出版社未知谷からは翻訳数冊だけでなく、ハルムスを扱った論文集も刊行されている(小澤裕之『理知の向こう:ダニイル・ハルムスの手法と詩学』、二〇一九年)。
iii製作スタジオはRadiotelevizija Beogradである。この時期にロシアではなくユーゴスラヴィアでハルムスを題材にした映画が製作されたのは、注ⅵで言及される出版状況なども関係しているだろうが、確かなことはわからなかった。
ivK'sシネマのHP冒頭部や日本上映時のパンフレットでは「一九三八年の夏」が舞台と書かれているが、映画内に具体的な年月を示すものは「十九年後」というテロップしかない。ここでは、冒頭部の都市の描写を十月革命勃発時の一九一七年と仮定し、中間部を一九三六年として筆を進めることにする。
v映画やその他作品からの引用の訳はすべて評者による。
viあくまで「公式に」出版が解禁されたのであり、それ以前からも「地下出版 Самиздат [サムイズダート] 」やソ連邦外での「国外出版 Тамиздат [タムイズダート] 」などで非公式作家は読み継がれていた。ユーゴスラヴィアでの出版状況は不明だが、ペシチ監督はアメリカとカナダで映画製作を学んでから『ハルムスの幻想』を製作しており、国外でそういった出版形態でこの詩人を読んでいた可能性は大いにありえる。
vii映画本編末尾より。