【終了報告】どうしてこうなった山本桜子

2020.7.28sun上映研究特別篇#1 IRA 「アイルランド的」映画とは何か (担当・山本桜子)

『沈黙のテロリスト』2001, アメリカ, アルバート・ピュン


M.コノリー “IRA on Film and Television”(2012, McFarland Publishing) によれば、IRA(アイリッシュ・リパブリカン・アーミー)はハリウッド映画をはじめとする映像作品に登場することが他の「テロ」組織より多い。理由としてコノリーは以下の「制作側の事情」を挙げる。 1)IRAは英語話者であり配役が容易。 2)アメリカをはじめ各国のアイルランド系移民の動員が見込める。「IRAもの映画」の多さに関し、コノリーは現実のIRAの組織的性格やイデオロギー的正否の問題を捨象する。当研究所の山本と吉岡は、上記2点のほか現実のIRAが歴史的に多用した「爆発」とも何らかの関係があると暫定的に考えるが引き続き検討が必要だ。また担当・山本は前掲書を読み切っておらず、コノリーの議論を見落としている可能性があり、本書通読と試訳は今後の課題だ。
本上映研究に向けて山本は「IRAもの映画をその物語上の時代設定順の年表にする」作業をやってみた。前掲書のほか、B.マッキロイ “Shooting to Kill- Filmmaking and the Troubles in Northern Ireland” (1998, Flicks Books)、岩見寿子他『映画で語るアイルランド』(2018, 論創社)、英語WikiとIMDbで様々な検索ワードを試して出てきた諸作品のあらすじから判断し、計200本弱を扱った。極めて不完全ではあるが、同様の年表が(山本の知るかぎり)先にないためこれを作成・配布した。これの改訂も今後の課題である。この原始的な作業(紙とハサミでやった)を通してわかったことはおおよそ以下だ。 1)「IRAもの映画」の多くは米または英で作られ、半分以上は日本未公開で、物語上の年代は ①1916~23年(イースター蜂起~独立戦争~内戦)と ②1969~98年(北アイルランド紛争勃発~激化~国際問題化~和平合意)、次いで ③第二次大戦 に集中する。 2)『沈黙のテロリスト』2001 はおそらく②を舞台とするアクション映画の体裁をとる「IRAもの映画」だが、前掲のいずれの資料にもでてこない。 3)作品においてIRAは様々なフィクショナルな役を担わされており、「表象のIRA」といった何らかが生じている。
3)に関しては、おそらく「アイルランド文学」論で扱われる「作品」と「現実」の複雑な相互関係が参考になる。たとえばT.イーグルトン『表象のアイルランド』(鈴木聡訳, 1997, 紀伊國屋書店)はアイルランド文学を社会背景との関わりで検証する。イーグルトンは、アイルランド文学の読み手はおおよそアイルランド外の市場にあったという事情を論じている。文学と若干異なり「アイルランド映画」(「アイルランドもの映画」ではナイ)は90年代までほぼなかった(『映画で語るアイルランド』所収岩見寿子による「アイルランド映画史概観」参照)ことには注意が必要だろう。アイルランド外の人がアイルランド外の人に向けてアイルランドの人を描くのが、長年の「アイルランドもの映画」、ひいては「IRAもの映画」だった(※1)(※2)。
とにかく問題は、他人が他人をどうにか(表象とか消費とか)するときの暴力性、加害性、問われる当事者性、欺瞞、嘘八百、なけなしの誠実、その無理さ、要はやけっぱちだ。次いで、では本人が語る本人というのも果たして「ほんもの」か、という問題がくる。「どうしてこうなった」の自己開示は、上手い下手は別として、まずフィクションだろう。本上映研究は担当・山本が『情況』誌に連載したG.アダムズ(1948- )の短編紹介「シン・フェイン文学」の連動企画でもある(※3)。アダムズはIRAのかつての関連組織シン・フェイン党を率い、和平合意に尽力する傍ら自伝的短編小説を書いた。その小説は(山本の知る限り)文学としてはほぼ黙殺されている。しかし、本来政治活動していればいい政治活動家が政治活動以外の何らか(文学とか)に手を出すとき、その何らか(文学とか)とは政治活動に救い得ない独自領域なのだから、アダムズの短編は文学として大真面目に扱われていいはずだ。ところで研究者でも紛争当事者でもない山本が大真面目にそれをやるとき生じるやけっぱちな滑稽さはもちろんのこと、他人(山本)が他人(アダムズ)をどうにか(紹介とか表象とか消費とか)するとき上記の一連のやけっぱちが生じる。そこへ別の他人(吉岡)が『沈黙のテロリスト』を提示し本企画を振ってきた。やけっぱちな企画だった。映画は、史実はほぼ関係ないしIRAという組織もほぼ関係ないし爆発がやたらと続いた。やけっぱちな映画だった。上映後の討議において吉岡は、山本が上記『情況』誌で史実の説明の足しに使用した「IRAもの映画」S.マックイーン『HUNGER』(2008, 英)とS.バーク『メイズ大脱走』(2017, 愛・英・独・スウェーデン)の使用の仕方を「自分が紹介とか表象とか消費している問題に関して行なわれた他人による表象を扱う際はその他人の表象の論理をみるべきだ」と批判した(要約山本)。もっともなのでどこかでやる。
討議のあと、参加者のアナキスト氏が「内面を表すくらいなら爆発する、というスタンスの映画だった」と言った(要約山本)。上映研究の直前に参考として見たN.ジョーダン『クライング・ゲーム』(1992, 英)は、90年代アイルランド国産映画=「アイルランド映画」ブームのきっかけとなり、「アイルランド映画」史上重要な作品とされ、有名な「IRAもの映画」でもあるが、綴られるのはこれが人間であるならば人間は全員死んだほうがいいと思わせる人間内面感傷のドラマだ。90分間爆発を映すほうが何億倍かマシだ。ここで、他人が他人をどうにか(仮定とか)するときの一連のやけっぱちさに基づいて、アイルランド国産映画=「アイルランド映画」でも「アイルランドもの映画」でもない「アイルランド的」映画というものを「やけっぱちさ」だと仮定する。それは爆発シーンと無関係ではない。人為的爆発は他人が他人をどうにかするとき生じる一種のやけっぱちだし、それを扱う作品も、それとは別のやけっぱちさをもってそれを扱うのだろう。そこには更に別の他人(監督、制作者、俳優、彼らが参考にしたかもしれない過去の作品の監督、制作者、俳優etc.)がいるだろう。山本は彼らを扱いきれなかったしこのあたりの話は極めて雑だ。おそらくやけっぱちの精緻化が必要だ。上映中は度々笑い声が起こった。活動家の末端の末端として、人間が喜ぶのは単純に嬉しいことだ。来た人に多少元気になってほしいので、自分がその「表象」を「消費」してきた「IRAもの映画」とテキストから抜粋して「表象のIRA」の語録を配布した。1個だけ実際に会った(自称)IRAメンバーの発言を混ぜたが、これもまた他の諸々と同じく語り手と受け手のフィクションの錯綜の産物だろう。しかし、この無根拠でやけっぱちの明るさに与したい。「大丈夫、我々には世界中の時間がある」。

※1 米、英の映画関係者にアイルランド系移民が多いことはまた別の問題だが山本の手に負えない。※2 IRA出身の文学者はB.ビーハン(1923-1964)をはじめ存在する。IRA出身の映画関係者を山本は今のところ『ホテル・ルワンダ』(2004, 英・伊・南ア・米)のT.ジョージ(1952- 厳密にはIRAの派生組織INLA)しか知らない。※3 『情況』編集部は関知しない。

2020年8月27日異端審問: フィルム=ノワール研究所


◼︎添付画像IRA関連語録(選: 山本)