2020.6.28sun 17:30-23:00上映研究#2【黒、マテリアル、資本、白】by 異端審問: フィルム=ノワール研究所(担当・吉岡雅樹)
『罠』The Set-Up 1949年/72分/アメリカ/RKO監督:ロバート・ワイズ
『コラテラル』Collateral 2004年/120分/アメリカ/パラマウント+ドリームワークス監督:マイケル・マン



◉概要◉
第1回終了報告で予告した通り、困難を承知の上で映画における「黒」のマテリアルについて考えます。
批評集団「大失敗」のしげのかいり氏は、「資本主義の光 ――マイケル・マンの光」(2019.3)において「『コラテラル』や『ヒート』で映し出されたのっぺりとした郊外の世界の-夜の風景は、根無し草たる男たちを過剰な労働によって抑圧するものである」と書いています。しげの氏に「抑圧」と名指された『コラテラル』(2004)の「夜の風景」は、フィルム撮影では可視化不可能な被写体であるためにデジタルカメラで撮影されました。資本によって開発競争を義務付けられた映像のリアリズムは、ゲリラの鉄則(敵の武器を利用しろ)の如く20世紀初頭を生きるM.マン(1943-)によって、最新形態のデジタル映像としてこの映画の80%が表象され、残り20%がフィルムによって表象される事態を引き起こします。
この事態を利用することによって完成された『コラテラル』に対して、蓮實重彦氏は「演出家としての知能指数の異様な高さ」を嗅ぎ取ります。そして「個々の画面がショットとして成立しているかぎり、リュミエールのシネマトグラフで撮られようが、デジタル・ヴィデオ・キャメラで撮られようが、スクリーンに投影される画面は映画以外の何ものでもない」と事態は「映画」の肯定へと収束する。
他方『罠』(1949)は、おそらくは別の映画から再利用したのだと思いますが、どこかで見かけたことがあるような安っぽいセットを利用して、商業映画のごく当然の振る舞いとして35mmフィルムで撮影されたであろう映画ですが、すでにハリウッド映画産業は下降を開始(1947〜)しており、大型映画/大作主義(『これがシネラマだ』1952〜)前夜に位置付けられる映画です。のちに自ら『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)を70mmフィルムで製作することになる本作の監督R.ワイズ(1914-2005)は、この映画の変貌期に何を思っていたか。
『罠』と『コラテラル』に様々な類似点があるのは誰の目にも明らかです。しかし、ボクサーを主人公とした『罠』の舞台であるリング空間と『コラテラル』のタクシー空間における密室性や視線の類似性だとか、両映画の主人公が人生を賭けて下克上する物語であり女性が重要な役割を担っていることの共通性だとか、一夜の出来事として描かれることから想起される映画における時間の問題だとか、あるいはジャズが暴力の契機として表象されることからつい平岡正明を想起してしまうだとか、そういった類の比較論は今や問題ではなく、結局はデジタルだろうとフィルムだろうと、闇を切り裂く自動車の閃光だったり、闇の中で照らされる三匹のコヨーテだったり、「黒」と「白」の運動=ゲバルトこそが我々を揺さぶりにやってくる事実こそが問題なのではないでしょうか。映画はこの時、資本のことなど忘れたかのように誇らしげに胸を張っている。その白(光)なるものは、時にヘイズ・コードによる死の隠蔽を代行したり、資本の権化たるテクノロジーの産物であったりするのにも関わらず、です。
例えば『罠』がボクシング映画であるのならば、人類が21世紀に突入したと同時にM.マンが監督した同じく「ボクシング映画」である『ALI アリ』(2001)と比較して、半世紀にわたって「映画」がどのように「世界」を対象としてきたか、その進化ないし退化を語ってもそれはそれで世界史の学習にはいいだろうし、『コラテラル』がタクシー運転手を主人公としているのならば、1972年に「フィルム・ノワール」論を書き上げたP.シュレイダー(1946-)が自覚的に映画史と向き合って脚本を執筆したのであろう『タクシー・ドライバー』(1976, M.スコセッシ)と比較することで、「ネオ・ノワール」とは一体何かと問うこともできるだろう。しかし、既存の世界史に映画を当て嵌めて「映画」を考えることは、正しいが同時に間違っている。また、既存の映画史に映画を当て嵌めて「映画」を考えることは、謙虚だが同時に無礼である。そのような類の「映画」に対する「戦略」は、たとえ映画が資本を忘れる身振りをしようとも、「映画」は資本を忘れては存在することができないというごく当たり前の事態が露骨に表面化した現在においては、ただの反動でしかない。
蓮實重彦氏が『タクシードライバー』に対して、公開当時に「単純につまらない」やら「一言で言えば下手くそ」やらとボヤきながら年間ワーストに挙げていたのをいつだったか読んだ記憶がありますが、一言で「つまらん」と吐き捨てることの「戦略」的批評の力は、いつの時代も絶大なような気がします。蓮實氏が『コラテラル』を「知能指数」という名の「映画的感性」の豊かさにおいて賞賛することと同時に「映画」を肯定する身振りを行うのは、それもまた一つの「戦略」でしょう。蓮實氏が実践する「戦略」を、自らの身体で、自らの「映画的感性」そのものにおいて、真正面から受け止める必要性はいまもなお、絶対的に存在すると思います。しかし、「戦略」ということでいうならば、我々はしげのかいり氏の論考のような、自らの身体、自らの「映画的感性」が、資本の「内部」でズブズブにまみれた身体を基盤としたものでしかないことへの自覚を促す「戦略」をも、より加速的に映画に対して打ち出していく必要がある。良い悪いをつぶやく以前に、「映画」が文字通り消滅する。その瞬間を、我々は確かに目撃してしまったのだと思います。それは、人類の映画への欲望が、あっけなく資本に敗北した瞬間でもあるはずだろう。映画は、常に我々の欲望を見殺しにして資本に寝返る。しかし同時に、「映画」は我々が見ることを怠ってきた何かをそのマテリアルの内に秘めている。資本の鏡であるかのようなこのマテリアルとは、かつてブームとまで言われたらしい「ミニシアター」の増加現象とも当然無関係ではいられないような性質であって、この現象は映画という光と影の戯れが見せる「黒」、劇場という暗闇の「黒」、映画と劇場に変容を強い続ける資本と観客の「黒」への欲望を総括するものであり、このような総括的事態のまさに渦中において、1980年代なるものを「闘争の時代」と呼び得た「蓮實重彦」という人間の言葉を、この現在に呼び起こす必要性を我々に強いるものでもあるでしょう。
資本と共に変容を重ねてきた「映画」を振り返る時、映画のマテリアルの歴史を並走させること、その歴史を「黒」(あるいは「白」)に還元することで、可視(見える)/不可視(見えない)、想起/忘却の史的運動を、未だ誇らしげであり続ける映画はささやかにも告知しているような気がする。第1回終了報告で触れた七里圭氏がいう「祈り」とはこの史的運動の謂いである、と私は考えています。

■『罠』The Set-Up 1949/アメリカ/72min/モノクロ/1.37:1/RKO製作:リチャード・ゴールストーン『高い標的』『軍曹』監督:ロバート・ワイズ『キャット・ピープルの呪い』『拳銃の報酬』『ウエスト・サイド物語』原作:ジョーゼフ・モンキュア・マーチ『地獄の天使』脚色:アート・コーン『ストロンボリ』『高い標的』撮影:ミルトン・クラスナー『飾窓の女』『黒の誘拐』『聖バレンタインの虐殺』編集:ローランド・グロス『遊星よりの物体X』『孤独な心』音楽:コンスタンティン・バカレイニコフ『黒い足音』『過去を逃れて』出演:ロバート・ライアン, オードリー・トッター, ジョージ・トピアス, アラン・バクスター
□八百長が仕組まれているとも知らず、人生最後となる試合に臨む落ちぶれた中年ボクサーの姿を息詰まるタッチで綴った、ボクシング映画の小佳作。全編タイトな演出を披露し、カンヌ映画祭の国際批評家連盟賞に輝いたのは、ロバート・ワイズ監督。72分という限られた作品の時間枠を、物語の進行時間とシンクロさせるという本作の粋な試みは、『市民ケーン』(41)などで映画の編集者を務め、ヴァル・ルートン製作によるRKOの低予算ホラー映画で監督修行を積んだ彼ならではのもの。人生の悲哀と侘しさを全身に湛えながら主人公を好演するのは、かつてボクシングの学生チャンピオンでもあったロバート・ライアン。物語の基になったのは散文詩で、それを元スポーツ記者のアート・コーンが脚色した。(『フィルム・ノワールの光と影』1999から引用)
■『コラテラル』Collateral 2004/アメリカ/120min/カラー/16:9/パラマウント+ドリームワークス製作、UIP配給製作総指揮:フランク・ダラボン『フランケンシュタイン』(脚本)『悪女の構図』『ショーシャンクの空に』(いずれも監督)、ロブ・フライト『ルディ』, チャック・ラッセル『マスク』(監督), ピーター・ジュリアーノ製作:マイケル・マン, ジュリー・リチャードソン『ワナオトコ』『パーフェクト・トラップ』監督:マイケル・マン『ザ・クラッカー』『パブリック・エネミーズ』『ブラック・ハット』脚本:スチュアート・ビーティー『G.I.ジョー』『アイ・フランケンシュタイン』撮影:ディオン・ビープ『SAYURI』『L.A.ギャング ストーリー』, ポール・キャメロン『デジャヴ』編集:ジム・ミラー、ポール・ハーベル『ザ・セル』『トランスフォーマー』音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード『シックスセンス』『ブラッド・ダイヤモンド』出演:トム・クルーズ, ジェイミー・フォックス, ジェイダ・ピンケット=スミス, マーク・ラファロ, ピーター・バーグ, ブルース・マッギル, イルマ・P・ホール, バリー・S・ヘンリー, ハビエル・バルデム
□ 『ラスト サムライ』から一転、現代のLAに降り立つトム・クルーズ。それも、冷酷なプロの殺し屋として。誰もが見たトム・クルーズは、もう、そこにはいない。危険な男の魅力を全開にした新境地を披露するトム・クルーズ最高傑作『コラテラル』。クールな振るまいの内側に、激しいエモーションを燃えたぎらせる冷酷な殺し屋ヴィンセントを演じるトムの演技は、「悪役」という枠を超えたミステリアスな人物像を創り上げ、全米批評家から大絶賛で迎えられた。監督は、『ヒート』『インサイダー』『アリ』と、安易な特撮技術に頼ることなく、生身の人間同士が織りなすドラマに焦点を当て、独特のスタイリッシュな映像美学を追求し続ける巨匠マイケル・マン。“世界最強のスーパースター”トム・クルーズと、“現代最高の映画作家”マイケル・マンによる待望のコラボレーション――完璧なプロ同士だけが成しうる究極のハードボイルド・サスペンスの傑作が遂に誕生した!トム・クルーズの迫真の演技はオスカー確実! -ABC NEWS極度の緊張感 -VARIETYエッジの利いた恐怖 -NEWYORK TIMESこんな危険なトム・クルーズ見たことはない! -TORONTO STAR究極の映画 -WASHINGTON POST本年度最高傑作 -USA TODAY闇を切り取る詩人マイケル・マンの最高傑作 -ROLLING STONE新たな映画の公式だ -TIME MAGAZINE(『コラテラル』チラシ2004から引用)

◉主催◉
異端審問: フィルム=ノワール研究所(吉岡雅樹[日本映画大学・瀆神]、山本桜子[ファシスト党〈我々団〉])

◉日程◉
2020年6月28日(日) 17:30-23:0017:00 開場17:30 上映『罠』(72分)19:15 上映『コラテラル』(120分)21:30 基調報告&解説&自由討議「黒、マテリアル、資本、白」23:00 閉場

◉場所◉
BAKENEKOBOOKsふるほんどらねこ堂(犬派の君には狂狷舎)1600004東京都新宿区四谷4-28-7吉岡ビル7F「珈琲と本 あひる社 絵本の国支部」最寄駅: 四谷三丁目駅[丸ノ内線]~徒歩7分新宿御苑前駅[丸ノ内線]~徒歩6分新宿駅[JR]~徒歩19分

◉協力◉
あひる社
※どなたでも参加可能です※資料代のみ頂戴いたします