雨の日は、湿度を含んだ壁の木がその色を濃くする。あちこちに置かれたり吊るされたりしている植物も、草や土の匂いをふんだんに漂わせ、建物の中にいながらまるで庭にいるような香りに包まれる。練牙はそれが好きだった。

 店主が描いてくれたラテアートをなるべく崩さぬよう、一枚写真を撮ってから、カップにそっと口をつける。練牙が鞄につけていたワンワンパラダイスのキーホルダーを見たのか、何回か通ううちに、カフェラテの水面にかわいい犬が描かれるようになった。そういう気遣いも練牙がこのカフェを好む理由だった。

 撮影スタジオの近くにある、隠れ家的なちいさなカフェ。そこで練牙は添を待っていた。一本路地を入るだけで人通りが少なくなり、このカフェも都心とは思えぬほどひっそりとしている。時間帯もあるのか、店内には練牙のほかに一名の客がいるのみだった。窓が少なくて、端の席に座ると外からは練牙の姿が見えないところがお気に入りだ。

「先に飲んでたら練牙さんべろんべろんになっちゃうしさ、ここで待っててよ」

 と添に言われて以来、ふたりで飲みに行く際に練牙の方が早く仕事が終わったときは、このカフェで添を待っている。

『今日はハスキーだった!』

 ラテアートの写真を添に送る。かわいいを共有しながら、カフェにいることも伝えられる、いいコミュニケーション方法だった。

 心配されているのだと思う。練牙は確かに、ほんの少しのアルコールで酔っ払ってしまうから。以前、先に店で飲んで待っていた練牙が遅れてきた添に抱きついてしまったことがあり、それ以来この方法になった。なので練牙は、添が練牙の醜態に巻き込まれる心配をもうしなくていいよう、大人しくここで待つことにしている。

『あと十分くらいで着く』

 どれだけ慎重に飲んでも崩れていくラテアートに心を痛めていたら、添から返信が来た。用件のみの簡素な連絡も、いつものことだ。

 添も練牙も仕事の終わり時間が不定期なので、添の方が早く終わるときは直接店で落ち合う。けれど、添もここで待てばいいのに、と内心では思っていた。添もきっと、ここで過ごす時間を気に入るだろうから。

 しばらくして、ドアベルの音と共に添が入ってきた。流れるように練牙の向かいに着席する。

「お待たせー」

「ごめん、まだ飲んでて」

「いいですよー。オレもなんか頼もうかな」

 添がメニューをめくる。落ち合ってそのまま店を出るときの方が多いから、珍しいことだった。

「芳醇だね」

 注文を済ませた添が、ぽつりとこぼした。コーヒーを頼んでいたが、それはまだ来ていないし、練牙のカフェラテも残り半分を切っていて、芳醇と言えるほどの香りは漂わせていない。どういうことかと首をかしげると、「店内がさ」と続けられる。

「木とか土とか、植物の匂いが満ちてて、自然のなかにいるみたいでさ。雨の日のここ、結構好きなんですよね」

「っ、だよな!」

「練牙さんも?」

「ああ!」

 添が練牙と同じことを感じ、練牙の想像通りこの店を好いているものだから、練牙は嬉しくなってつい前のめりになってしまう。

「添もこれからここで待ったらどうだ?」

「うーん、でもオレは練牙さんみたいに危なっかしくないからなあ」

「……それどういうことだ?」

「そのままでいてねってことですよ」

 うまくはぐらかされた気がして(悔しいが添との会話ではよくある)、追求しようと口を開いたところで添のコーヒーが運ばれてくる。

「いい香りだ」

 思わずそちらに意識が持っていかれる。コーヒーの豊かな香りと湿った土の甘い匂いや植物の青い匂いなんかが混ざり合って、贅沢だと思った。

「ね。いただきまーす」

 添も、言葉にはせずとも満足そうだった。

 カップに口をつける添の髪の毛も、湿気を含んですこしだけ広がっていて、それがかわいかった。