バルコニーは、雪が降る前の匂いがしていた。幼い練牙──レンにとっては天候は己の生を左右する大事な一要素で、だからなんとなく匂いで天気がわかるようになっていた。それが練牙の生存戦略だった。

 ブランケットを持ってきて正解だった。ソファに腰掛け、すこし迷った後、隣に座る添とまとめて肩にブランケットをかけた。

「え、なに? 近くない?」

 添が手に持っていたお猪口をテーブルに置く。けれど、ただ肩にかけられただけのブランケットを落とすことはなかった。

「寒いだろ。それに多分、そろそろ雪降るし」

「練牙さんわかるんだ? すごー」

「なんとなくだけどな」

 テーブルに置いてあったマグカップを両手で手に取る。温められた指先がじんと痺れて、深く息を吸ったらホットワインのシナモンの香りが鼻腔を満たし、それがまた練牙を温めた。

 キッチンでホットワインを作る夜鷹を見たのはたまたまだった。水を飲もうと一階に降り、数人がキッチンに集まっていたから何事かと見てみれば、フルーツやスパイスと一緒に鍋で赤ワインを煮込んでいるところだった。

 何かの料理だろうか、と考えていたところで、「練牙も飲むかい?」と声をかけられる。

「これって料理の仕込みじゃないのか?」

「グリューワインだよ。温かいワインだ」

「寒い日に飲むホットワインはまた格別なんだよな〜」

「白も美味いが、グリューワインといえばの赤も最高だな」

 口々に説明してくれて、練牙の興味は完全に振り切れた。飲んでみたい! 考えていたことがそのまま口から飛び出たみたいに、反射的に答えていた。

「寒い中飲むのがまたいいんだよな。練牙もテラス出るか?」

 ダニエルからの誘いに乗ろうとして、けれど脳裏に添の姿が浮かんだ。

「ごめん、オレは部屋に戻る」

「暖かいところで飲むのもうめえからな〜」

「じゃあこれ、練牙の分」

 よそったばかりのホットワイン──仕上げにシナモンスティックまで挿してくれた──が入ったマグカップを手渡され、練牙はとても嬉しくなった。こうして誘ってくれる心遣いも、飲んだことのないものを飲んでみるのも、手から伝わる温かさも、何もかも。

「ありがとう!」

 きちんと礼を言い、部屋に戻る。そしてすぐにひとり熱燗を楽しんでいた添を誘い、バルコニーにやってきたのだった。

「美味しい?」

 ちびちびと舐めるように酒を飲む添が聞く。練牙と触れ合っている方で猪口を持つので(きっと反対の手を動かしてブランケットが落ちるのを防いでいるのだろう)、体の右半分がとても暖かかった。

「うん、うまい。なんか、つおくないけど、その代わりにふくざつになってる、気がすゆ」

「はは、もう酔っちゃってんじゃん」

「酔ってない」

 カップを握ったまま、ソファにもたれかかる。案の定練牙の肩からはブランケットが落ちたけれど、そこまで寒さは感じなかった。体がぽかぽかとしている。

 ほっと息を吐くと、それは白い蒸気となって昇っていった。目で追うと、消えた息の向こう側で、眩しい街明かりにも負けない光量を持つ星たちがぽつぽつと光っていた。都会で見える星の数は少ない。それは街が明るいから。HAMAツアーズに入って各地に研修旅行に行ったことで知った、この世の理だった。けれど、少ないから悪いわけではないと練牙は思っている。

「ほし、きれいだな」

 思ったことがそのまま口をついて出る。

「星? あー。でも、上高地とか、それこそ練牙さんならモンゴルで見た空の方が綺麗だったんじゃ?」

「うん。でも、いまもきれいだ」

 ぼーっと空を見続ける練牙をちらりと見、添は徳利から酒をよそった。

「まあ、HAMAの空もそれはそれでいいのかも?」

「うん」

 再びワインを口に運ぶ。そういえば、鍋に入れられていたスパイスたちが無数の星のようだったな、と思った。