「添! おかえ、り……」

 部屋のドアが開くとほぼ同時、主人を出迎える犬のような勢いで発せられた練牙の声は、しかし、添の顔を見るにつれ勢いをなくして床に落ちていった。

 手元でくつろいでいるしゅうまい──日中にトリミングに行き、すこし毛も短くなってさっぱりしている──に目をやり、再び添を見、「……添もサマーカットか?」と呟いた。

 練牙が驚いたのも無理はない。添の前髪がばっさりと短くなり、普段は見え隠れしているどこか気だるそうな目元がはっきり見えていたのだから。

「いやー、横の毛が焦げちゃったんですよねー」

「焦げ……!?」

「バイトで。ぶわっと」

「バイトで!?」

「そのままにしとくのもなーって。ずっと焦げ臭いし」

「それはそうだな……」

 練牙の慌てぶりなど意に介さず、添はクッションに座ってのんきに水を飲んでいる。先ほどは角度となによりも衝撃で気づかなかったが、前髪を切ったのに合わせて襟足も刈り上げ、長めのツーブロックになっていた。コップを煽ることで浮き出る首の筋がよく見える。飲み込むごとに動く喉仏が、妙に目についた。

 しゅうまいも練牙の元から離れないままに、添を珍しそうに見ていた。伸びることを見越して短めに切る人はいるが(それで主任なんかはよく「切りすぎちゃった〜」と笑っている)、添はそうではないので新鮮だ。

「つーか添のバイト先ってそんな危ないのか? 燃えるってどういうことだ?」

「料理してて炎が上がることあるでしょ。あれの加減ミスったみたいな感じですね」

 練牙の脳裏に、以前出た番組で料理人が鍋に酒を投入し、派手に火柱を上げていた光景が浮かんだ。つまりはああいう感じでいいのだろうか。

 添が料理屋で──しかも実家の寿司屋とは違う系統の店で──働いていると初めて知った。本当にいろんなことができるんだなあと改めて感心しながら、思わず襟足に手を伸ばす。切りたての短い毛は、練牙の肌をチクチクと刺した。

「なに? くすぐったいんですけどー」

「ご、ごめん! つい。珍しくて……」

 慌てて手を引っ込めるが、添は笑いながら頭をすこし向こう側に傾けたから、お触りの許可が出たのだと判断して再び手を伸ばす。しゅうまいのお触りOKサインがわかってきたみたいに、添のそれもすこしずつわかり始めている。練牙はそれが嬉しかった。

「こんなに短いの新鮮だな」

「ねー。でもまあ涼しいし案外いいかも。女の子ウケは長い方がいいんだけどね」

「そういうもんなのか。でも似合ってるぞ!」

 刈り上げた襟足が物珍しくて触っていたが、どんどん上の髪も梳くようになり、耳や首にも手が触れるようになっていた。

「……練牙さんさあ」

「ん? なんだ?」

 見ると、添は恨めしそうな、けれどなにかを企んでいる目をしていた。髪の毛で隠れていない分、瞳がよく見える。

「そういう気なのかなーって思ったけど全然だし、ヤキモチも妬かないし」

「あえ?」

「もうじゅうぶん触ったよね? 今度はオレが練牙さんを触るってことでいい?」

 返事をする間もなく、添の左手が練牙に伸びてくる。襟足なんか無視して、髪を耳にかけ、そのまま何度もなんどもかけ直すように触られて。

「っくすぐったい!」

「えー、練牙さんもやったじゃないですか」

「オレはこんな触り方じゃなかっただろ!」

「こんなってどんなですか?」

 喋りながらも添の手は止まらず、耳の輪郭を指先でゆっくり撫でたかと思えば首にも触れ、どんどん距離を縮めた末にわざと耳たぶに息を吹きかけたりしていた。

「もう、っほんと、だめだってっ」

 自分の顔が赤くなっていると、練牙は鏡を見ずともわかった。息もすこし上がり、これ以上は良くないと手で耳を隠して添から距離を取る。

「練牙さんやらしいなー、ただ触ってるだけなのに」

「ただ触ってるっていう触り方じゃなかっただろ!」

 とにかくダメだ! と威嚇する様は小型犬のようだったのだが、それを指摘する人間はここにはいなかった。ただ甘ったるい空気が流れているだけだ。

 唯一吠えることで空気を変えてくれそうなしゅうまいも、とっくに自分の寝床に戻っていた。