誰もいない朝の駅で待っていた。電車を、人を、あるいは遠い昔に捨ててしまったはずの希望なんかを。

 空はうす青く、水平線のすぐ下まで来ている朝日をしずかに待っていた。深く息を吸う。肺が清涼な空気で満たされる。添には、すぐそこまで来ている何かなどなかった。

 シゴトで訪れた町は都心から電車で二時間ほどの距離にあり(もちろんリニアは延伸していない)、同じ海の近くでも、HAMAとは何もかもが違った。朝は明るく、夜は暗い。ビルは低いし、その合間に倒れている人間もいない。混ざり気のない磯の匂いが鼻腔に届く。そんな正しさのなかにも「裏」の気配はあるのだからお笑い種だ。

 高いところに上がれない腹いせのように、ホームのベンチに低くもたれてたばこを吸う。都心でこんなことをしようものなら文字通り周りに煙たがられ、運が悪ければ警備ロボットに怒られるが、ここには添を注意する存在はいなかった。

 シゴト後の一服は数少ないルーティンだった。シゴト道具の一環として吸い始めたものが体に馴染んだのはいつのことだったのか、添にはもう思い出せなかったし、思い出す必要性も感じなかった。

 早く帰って寝たい。煙を吸って脳が冴えると、今の添を満たす欲求がくっきりとした輪郭を伴って浮かび上がってくる。

 タクシーを配車するにも微妙な距離だ。こんな時間に動いているタクシーを呼んで待っているより、始発電車を待った方が早い。

「まったく人使いが荒いったらないね、まあ人じゃないらしいけど」

 添のひとりごとを聞く人も鴉もここにはいなかった。

 じっとりとした嫌気が足元から這い上がってくる。こんなのどかな場所にも裏はあり、二曲輪のお得意先は葉脈のように、電車なんかよりもすみずみまで線を走らせていて、添はずっとその上で踊っている。葉っぱに降り注いだ雨露のように、降り立った虫のように。

 吸い殻を携帯灰皿に入れ、やにわに明るくなった空をぼーっと見ていた時だった。ポケットに入れていたスマートフォンが短く鳴る。

 女か何かと当たりをつけながら見ると、ロック画面に表示されていたのは犬のアイコン──本物の犬ではなく、西園練牙が設定しているPeChatの──だった。

『今日の朝は蒸しパンパーチーらしい!』

『雪風と潮の』

『しょっぱいのも甘いのもある』

 ぽこぽこと重なっていく通知に、両手でスマートフォンを持って必死にメッセージを打つ練牙の姿が容易に想像できた。

『練牙さんおはよー』

 気まぐれに、通知をタップして返信してやる。まさかこの時間に返事が来ると思わなかったのか、次のメッセージはすこしだけ時間が空いた。

『添! おはよう』

『みんなもう起きてんの? 早すぎない?』

『皆はまだ』

 ということは、昨晩ノリで蒸しパンパーティーなるものが決まり、休日で学校のない潮もなんだかんだで──きっといつものようにうまく乗せられたのだろう──参戦し、皆が起き出した頃に始める、といったところだろう。いつもしゅうまいや肉まんを蒸しているから、パンを大量に蒸してもせいろの数は余りある。練牙は楽しみで早く起きたか、モーニングルーティンのために起きたかのどちらだ。

『あさめしたべるか?』

 急いで打ったのだろう、変換もされていない文章が届く。帰ったらちょうどかち合いそうだしどうしようかなーと迷っていると、数秒置いて、練牙から追加でメッセージが来た。

『絶対にうまいから、間に合わなかったら添のぶんも取っておくな!』

 なにそれ。食べてもないのに。何を食べてもうまいと喜ぶ姿を思い出し、鼻でちいさく笑う。

 けれど、一緒に食べたいから待ってるとか言われないのがいまの添には心地良かった。

『ありがとうございまーす』

 適当にスタンプも送り、スマホを再びポケットにしまう。始発電車がホームに入り込んでくる。

 朝日はもう完全に昇っていた。