ジャケットを脱ぐと、体にじっとりと纏わりついた夜ごと捨て去れるような心地がした。春になりかけの時期は風が気持ちいい。
夜とも朝とも言いがたい時間に、適当な路地で着替える添を気にかける人などひとりもいなかった。地面で転がる酔っ払いを横目に、〝普通の大学生〟の叢雲添は帰路に就く。
金払いの良さで引き受けたものの、無駄に時間のかかる面倒な仕事だった。煙草を吸おうとポケットを探り、箱の軽さに舌打ちが出た。後日振り込まれる金額と預金残高を思い浮かべ、なんとか溜飲を下げる。
今日は何の予定もないから午後までたっぷり寝て、美味しいオシゴトがあれば受けて、なかったら犬でも誘って飲みに行こうかな。年上ぶって奢ってくれるし。
この後の算段をなんとなく付けながら帰る。もちろん途中コンビニで煙草を買うのは忘れずに。海に反射した朝日が目に痛かった。
帰宅が朝になるときは、エントランスをくぐる前に寮内の気配を探る。ただでさえ疲れているなか、玄関やキッチンでお人好しに会って、心配されたり小言を言われたりするのは勘弁してほしいから。
早朝だからか、今日は面倒ごとは起こらなそうだった。玄関から入り、誰にも会わないまま二階へ。物音を立てずに移動するのは、添にとっては朝飯前だった。
部屋にたどり着いたところで、ドアノブにかけた手が止まる。
「……最悪」
この後起こることが容易に想像できて、腹の底からちいさく唸るような声が出た。
室内からは人ひとりの気配がした。早くから起きてモデルとしての自己研鑽に励んでいる犬──練牙の、忙しない気配が。
どこかで時間を潰そうか迷い、けれどここから犬がかけるであろう時間を概算し、添は睡眠欲を取ることにした。
鍵を差し、静かにドアを開ける。就寝中の同室者を起こさないように気を遣っていますよー、という人間の挙動で。
「あえっ!? 添! おかえり!」
予想通り、ドアを開けてすぐに、主人が帰ってきてはしゃぐ犬のような、寝起きとは思えない完璧な笑顔が添を出迎える。おおかた起床後の着替えとスキンケアを済ませたところで、この後入念なストレッチと日焼け対策をした上でランニングにでも行くのだろう。
「……練牙さん。ただいまでーす」
だから嫌だったのに。胸中で独り言ちる。
忙しいのか? お酒飲みすぎてないか? また何か危険なことに巻き込まれていないか? そういう様々をぐっと飲み込んで、しかし添から視線を逸らすことはできないのか、ちらちらとこちらを見ている。
「朝早いね。お仕事?」
「いや、仕事は昼前からだ。でもランニングに行こうと思って」
「えらいねー、さすが練牙さん」
「この時間だとHAMAの海に反射する日の出が見れるんだ! 最近はすこし暖かくなって、風も気持ちいいしな」
知ってるよ、ぜんぶ。定型文のような会話をこなすのは、仕事の一環みたいなものだった。
「じゃあオレは寝るんで」
視線を背中に受けながら梯子を登る。
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさーい」
カーテンをしめて目を閉じても、瞼の裏がチカチカと光って仕方がなかった。
だから朝に帰るのは嫌なんだ。何もかもが眩しいから。添は深く息を吐き、微睡に落ちていった。