「信長記」は,織田信長の家臣であった太田牛一による,信長の伝記.15巻.永禄11年(1568)前後の信長上洛の経緯から,本能寺の変で亡くなる天正10年(1582)まで1年1巻で記述されている.池田家文庫本の「信長記」は,太田牛一本人の筆による(巻12のみ写本)ものであり,かつ現在に伝わる信長記諸本のうち最も古いものと考えられる一本である,池田輝政が信長記を求めたとされており、輝政自身の登場部分に一文付け加えさせている(巻13),著者自筆かつ池田家仕様という他に例のない信長記である,国指定重要文化財.
岡山大学古文献ギャラリー 「信長記」14巻(天正9年)5−6頁に「キリシタン国の黒坊主参り候・・」と記述されている.
岡山大学古文献ギャラリー 信長記14巻5頁 左3行
岡山大学古文献ギャラリー 信長記14巻6頁 右5行
国立国会図書館デジタルコレクションでは,明治時代に活字化されたものを閲覧できる.
(天正9年)2月23日 きりしたん国より 黒坊主参り候
年之齢廿六七と見えたり
惣之身の黒き事牛之如し 彼男健(すく)や
かに器量也 爾(しか)も強力十之人に勝タリ
伴天連召列参,御禮申上,誠以
御威光古今不及承 三国之名物か様に
希有之物共細々拝見雖有御事也
2月23日,切支丹国より黒人坊主が参上してきた.年の頃は二十六,七と見え,その身の黒きこと牛のごとくであった.また壮健な身体を持ち,しかも腕力は十人力に勝っていた.伴天連が信長公の所に参上した折,召し連れてきたものであった.信長公の御威光により,古今見及びもせぬ珍しい物や稀有なるもの共を細々と拝見できるのは,まことに有難きことであった.
また, 「家忠日記」にも類似の記載があるというので, 古文書の勉強を兼ねて原本(あるいは写本)の所在を調べてみた. 結果的には, 駒澤大学図書館電子貴重書庫に原本に近い史料と文字だけの写本が公開されていることがわかった. なお, 駒沢大学図書館所蔵の『松平家忠日記』は国の重要文化財に指定されている.
日記は7巻公開されている.何処に記載されているか探すのに苦労した.明治時代になって出版された史誌叢書本の存在を知っていたので,その本の内容と比較しながら記載されている箇所を探し当てた.日付自体分かりにくいが,日記にはところどころに挿絵のような絵図が描かれていて,明治30年に出版された史誌叢書本にも絵図が挿入されているので,記載箇所の特定にたいへん参考になる.
3巻の22頁(見開き)
右頁の天正10年4月19日,20日の3行部分
素人には,読めないところもあるので,明治30年に活字化(手書き風の刊本)され史誌叢書として出版されたものを,国会図書館デジタルコレクションからダウンロードさせてもらった.
家忠日記 二
文科大学史誌叢書
著者 松平, 家忠, 1555-1600
坪井, 九馬三, 1858-1936
日下, 寛, 1852-1926
東京帝国大学蔵版
上様御ふち候
大うす進上申候
くろ男御つれ候
身ハすミノコトク
タケハ六尺二分
名ハ弥介ト云
原本と刊本?の違いを解説した記事
原本の内容と明治30年に出た史誌叢書本及びそれをもとにした本の内容は相違があると東大の岩沢愿彦は指摘しているとWikipediaには書かれている.
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/02/syoho0002-iwazawa.pdf
また,家忠日記中のイラストや文章についても,日記の日付とは関係ない部分も見られると書かれている.黒人サムライの記述もその一つであり,天正10年4月20日の出来事ではなく,当時見聞したことを記したものと見るべきとのことである.秘蔵原本の調査にあたった岩沢感彦氏のコメントの一部を以下に示した.
論說 秘蔵原本の調査に参加した岩沢感彦氏のコメントの一部 (折りたたみ文書) 文書開閉 ⇒
家忠日記は彼の日次記であって、現在、天正五年十月から文禄三年 (註四) 九月頃に至る十八年間の部分が残されてある。この期間は彼の二十三 才から四十六才に及ぶ、深溝・忍・上代・小美川在城の時代に当り、 武将としての活躍時代がほぼ尽されてゐると考へてよい。そしてこの 時代はまた、徳川家康が織田信長と連繋しつっ三河・遠江に拠り、武 田・北条両氏と対抗してゐた時代から、豊臣秀吉に服属し・遠・参 ・甲四か国、やがて関東八か国の支配者となり、また中央においては秀 吉につぐ実力者として、その地歩を次第に固めるに至った時代にあた る。したがってこの日記は、家忠及び家康のみならず、広く織田・豊 (註五) 臣時代に関する根本的な史料であり、また『上井覚兼日記』・『駒井日 記』・『大和田重清日記』・『梅津政景日記』等数少い武家日記の一つとして貴重な文化史的価値を持ってゐる。しかも収載年次が、他の武家 日記よりは古い時代にまで遡り、また武士の日常生活に触れる記事も 多い上に、料紙の余白に略画を残してゐる点など、他の武家日記には 類のないすぐれた特色を持ってゐる。 この日記が家忠の死後散失を免れたのは、肥前島原藩主で学問に深 (註六) い理解のあった 松平忠房(家忠の孫)の努力によるが、爾来その史料的価 値は高く評価され、庶子家の松平忠冬がこれに基いて「家忠日記増補 追加」を選述したのをはじめ、徳川義直も「神君御年譜」の編纂に資 (註七) したといふ。明治時代以降も早くから学界の注目を受け、明治二十三 (註八) 年には史学雑誌に其史料的価値が紹介され、同三十年文科大学史誌叢 書の一として覆刻刊行された。 日記の原本は家忠の後裔肥前島原藩主 (註九) 松平家の秘蔵にかかり、文化元年二月、徳川家斉の上覧に供せられ た。この時、複本が府庫に納まり、原本は「珍數品ニ候間大切にいた (註10) し可差置」との内意をもって藩主松平忠馮に返却されたが、爾来この 内意に随ひ一層秘蔵されたことであらう。史誌叢書刊行当時、原本は (註一) 全く門外不出であって、人目に触れる機会はなかったといはれてゐる。 したがって史誌叢書本の刊行後は、専らこの覆刻本が用ひられ、原本 に遡って検討し利用することはなかった。
しかるに今回史料編纂所で は、現蔵者松平千代子氏から原本の借用を許され、保本について親しく調査検討する機会に恵まれた(註一二) 。筆者は幸いにもその調査に参加する ことができ、二・三の知見を加へえたので、ここにその概要を報告することとする(註一三) 。
以下略
数行の記述が五百数十年後に,話題になり,その原本が重要文化財になるには,保存してきた人達の見識があってのことである.肥前島原藩主であった松平秀房(家忠の孫)が学究肌で見識があり,その子孫がその考えを引き継いだとのことである.弥助のその後に関する史料は見つかっていないため,いろいろな説がインターネット上で話題になっている.
参考資料
岡山大学付属図書館「信長記」
国会図書館デジタルコレクション (信長公記巻14,史籍集覧,近藤瓶城 編)コマ番号162
別巻 信長公記 巻之下 太田牛一 著 コマ番号27
国会図書館デジタルコレクション(家忠日記 二,文科大学史誌叢書)コマ番号54
(2023.7.11)