論理思想史に関する研究集会

以下の内容は順次更新されます。2/12 会場情報を更新

日時・場所

2020年2月16日 (日) 13:00 - 18:00

〒1070052 東京都港区赤坂3-12-7 ストークビル(旧:花岡ビル) 3階 みんなの会議室

プログラム

13:00 - 14:00 浅野将秀(首都大学東京)「論理学の概念論をどう見るか:ロッツェの場合」

現代の論理学とそれ以前の論理学を比べたとき,一見してわかる違いのひとつは,概念に関する教説,すなわち概念論の存在であろう.よく知られるように,近世以降の多くの著作において,概念論は判断および推論に関する教説と並んで論理学の構成要素とみなされ,とりわけ他二つの教説の根幹をなすものとしての役割を担っている.この意味で,論理学の概念論にはそれを与えた哲学者の論理観が少なからず反映されていると言ってよいだろう.本発表では,このような理解から,ヘルマン・ロッツェ(1817-1881)の『論理学(1874)』の概念論を検討する.

ロッツェの概念論は,同時代ないしそれ以前の多くの哲学者同様,経験論的な枠組みにのっとり概念の形成を一種の心理学的プロセスとして描く一方で,とりわけ抽象や概念の構造について,他に類をみない先駆的で独創的な考察を与えている.そしてこれらの考察の背後には,現代においてもなお十分に通用しうるような,探求や分類といった我々の知的活動において概念が果たすべき役割についての洞察を認めることができる.この点を考慮すると,彼の概念論は(既にさまざまな困難が指摘されている)経験論的アプローチとは違った仕方で理解されるべきであるように思われる.本発表では,以上の点について検討することを通じて,ロッツェの論理学観について考察を与えることを試みることにしたい.

--------------------------------------

14:15 - 15:15 Miikael Lotman (京都大学)「On Nishida’s definition of “place”: nothingness and self-identity」

It is well known amongst scholars of the Kyoto School that Nishida’s 1926 essay “Basho” (“Place”) marks a major turning point in his philosophical career. Nishida described this development as a logicization (ronrika) of his earlier ideas on the self-conscious structure of the world. In the essay he rebels against Aristotle’s Categories, which constructs a hierarchy of beings from primary substances: i.e. ultimate subjects of predication. In contradistinction, Nishida attempts to ground all beings in what he calls “the place (of true nothingness),” defining it as the predicate that can never become a subject. Although some scholarly attention has been given to problems with Nishida’s reading of Aristotle (Nakahata: 2011), the definition itself has received surprisingly little scrutiny. All the more so because the definition is seemingly contradictory: the definiendum “place” is a subject of which it is predicated that it can never become a subject. Thus, Nishida’s “place” both is and is not a subject.

In order to tackle this issue, I will first explain Nishida’s metaphysical motivations for adopting such a problematic definition. Secondly, I will make the case that the definition can be read consistently if Nishida were to reject the law of identity, arguing that the law of non-contradiction applies exclusively to self-identical objects. Thirdly, I will give textual evidence to support the claim that Nishida did, in fact, reject the law of identity.

--------------------------------------

15:45 - 16:45 木本周平(首都大学東京) 「超越論哲学はなぜ論理形式を問題とするのか」

ヘーゲルは『大論理学』の冒頭で、超越論哲学の核心は意識ではなく、論理学にあると主張した。ここで言われる論理学とは、形式論理とは区別される、いわゆる超越論的論理学である。しかしヘーゲル論理学を超越論哲学の企てとして見たとき、そこには『純粋理性批判』において争点となったいくつかの論点が丸ごと欠けていることに気づかされる。そのうちの一つが、カテゴリー適用の基準に関する議論、すなわち図式論である。本発表では超越論哲学をめぐる現代の議論を参照しつつ、この図式論の欠如の背後にある批判的含意を明らかにすることを試みる。

H. シュヴァイツァーはThe Unity of Understanding において、「図式化されないカテゴリーunschematized Categories」という問題を提示した。これはカントの超越論哲学がカテゴリーの導出とその適用の基準の提示において埋めがたいギャップを孕むことを指摘するものである。一般に、ある人が概念をもちつつ、しかし同時にその概念の適用を欠くのだとしたら、我々はその人を概念的主体と言えるだろうか、とシュバイツァーは問う(これは「犬は4本足である」と理解しているがいかなる犬についても犬と同定できない人を想像すればよい)。「図式化されないカテゴリー」とはこのような適用を欠いたカテゴリーの可能性を問題とする議論である。争点とされるのは、判断表に基礎を置くカテゴリー導出の方法が、その本性において適用から切り離されている点である。これに対して、シュヴァイツァーは現に行われている諸々の概念的実践を前提とすることを提案する。すなわち、シュヴァイツァーは図式論の困難から、実践の只中でその実践を可能にする概念の特定を試みよと言うのである。

では概念的実践を基礎におくカテゴリーの導出にはどのような手続きがありえるのであろうか。M. トンプソンは生命をカテゴリーとするヘーゲル的立場を擁護しようとするが、彼の自然誌的判断論はこのような導出の試みの一つとして考えることができる。トンプソンは生命を語る我々の日常的な現場を想起させつつ(野外での自然観察や、テレビの動物番組)、そこに現れる還元不能な論理形式を特定する。この論理形式は「自然誌的判断natural historical judgments」と呼ばれる。トンプソンの議論は、この自然誌的判断の論理的ふるまいの解明から我々の生命に関する経験可能性を境界づけることを試みる点で、まさに超越論的と言える。

興味深いのは、概念的実践のうちでカテゴリーを特定する試みもまた論理形式の特定を主要なステップにもつ、という点である。本発表は以上のような態度は概ねヘーゲルも同意する哲学的立場を特徴づけていると考え、ヘーゲル論理学の中に実践主義的側面を指摘する。

--------------------------------------

17:00 - 18:00 伊藤遼(慶應大学) 「可能性を解放する論理と事実の形式を解明する論理−1910年代のラッセルにおける二つの論理観」

ラッセルの論理に関する諸々の業績は哲学者や論理学者の「論理」なるものの理解の変化にとって一つの重要な役割を果たした。本発表では、その役割を、Principia Mathematica (1st edn. 1910-1913) 刊行後の彼の論理観、とくに、 Our Knowledge of the External World (1st edn., 1914) におけるそれを題材に論じる。この著作において彼は、フレーゲやペアノによってもたらされた新たな論理、述語論理によって、これまでの形而上学の試みを下支えしてきた論理観、すなわち、「否定を通じて構築を行う」ものとして論理という考えを退けた上で、論理学の考究の対象は諸々の事実の形式であると論じる。本発表では、この主張には二つの相異なる論理観が含まれていることを指摘した上で、それらの論理観が、彼に先行する哲学者の論理観と彼に続く哲学者、論理学者の論理観とどのように結びついていたのかを明らかにする。


※ 以上のプログラムは暫定的なものであり、発表順および発表時間は変更される可能性があります。

アクセス

連絡先

五十嵐涼介

Email: igarashi[dot]r0922[at]gmail[dot]com