1,はじめに
瑞光寺の地は、平安時代に関白藤原基経の発願により創建された極楽寺の薬師堂があったところで、応仁の乱で著しく荒廃していた。江戸時代初期の明暦元年(1655)、妙顕寺で修行した元政上人が薬師堂跡地に草庵を建てたのが起こり。寛文元間(1661)に堂舎を建立、法華道場とされた。
2,元政上人出生
京都深草瑞光寺開山、法華律唱導。京都深草に住んだところから、深草(草山)の元政、艸(草)山和尚とよばれている。日蓮宗の宗学者、教育者として大きな功績を遺しているが、当代一流の詩人・文人としても著名である。
元和9年2月、元毛利輝元の家臣石井元好の五男として生れ、幼名を源八郎という。長兄元秀は彦根の城主井伊直孝に仕え、長姉春光院は直孝の側室であった。元政は13歳でこの井伊直孝に仕え近侍をつとめる。生来読書を好み、文を習い、和漢の学に天稟の才を発揮して、その聡明さを衆人から称えられている。
3,元政上人出家の動機と修行生活
19歳で主君に従い江戸に出たが病を得て京に帰り、母と共に泉州和気の妙泉寺に詣で、祖師の像を拝して3願を立てた。
(一)出家せん。
(二)父母に孝養をつくさん。
(三)天台三大部を読了せん。
この年、泉涌寺の如周律師の法華経講義を聴聞し、出家の決意を固めた。その後数年井伊家に仕えたが、26歳の時致仕して、妙顕寺14世僧那日豊の門に投じて髪を剃った。日豊は心性日遠の高弟で重・乾・遠亡きあと、受不施一致派の最高の指導者であった。日豊によって重乾遠三師の教学を通して日蓮聖人の思想に参入し、深く信心に徹して清浄な僧儀を堅持し、数年でその才名と道誉は洛中に響きわたり、教えを請う者が次々と門をたたいた。
4,称心庵を結んで僧堂生活を始められる
明暦元年(1655)33歳の時、師日豊が池上本門寺に晋山し、これを機に洛南深草に称心庵を結んで隠棲した。元政を慕って集う求道者は続き、深草に唱題読経の声があふれた。そこで元政は門下の子弟のために『草山要路』一巻を著して、行学の指針、出世の要旨を述べ、草山の求道者の道標とした。ここに草山派とよばれる独特な一門の流れが生じ、後に「草山教学」と呼称される教風が起ったのである。元政はこの草山で自ら信行に励むと共に、著作、詩文を多くものにし、著名な文人墨客と交遊し、宗内外の碩学と道交を結んだ。
5,身延道の記
36歳の時父を送り、翌年母と共に父の遺骨を奉じて身延に詣で池上を訪れた。この旅行記が『身延道の記』で元和上皇から嘉賞せられた名文の書である。またこの旅で明の文人陳元贇と知り合い、生涯の知己を得たのである。
『身延道の記』
元政上人が、79歳になる母の願望で万治2年(1659)8月13日に出発し、身延山へ参詣し、更に日蓮聖人ゆかりの霊場たる鎌倉から江戸を回り、帰途の関が原に至るまでを記した紀行目記である。80才に近い老母との遠路は想像以上の難儀であったと書よりも感じられる。詩文に秀れた元政だけに、文中随所に漢詩や和歌を交えての紀行文であり、身延詣を扱ったこの種の文章では、最も優れたものと称される。
その文章の一節には、
25日身延へ着き清水坊へ宿をとった。
翌日久遠寺祖師堂、御真骨堂を拝す。
「一たび延山に上れば心いよいよ悲し、倶に末法に生まれて師に逢わず、手香頂礼す影堂の下、涙、尼壇を湿して起たんと欲するも遅し」
と、詩に託している。
お開帳を受けたあと、ご真骨堂に参拝して日蓮聖人の御舎利を目の当たりにして感極まり熱い涙が込み上げて詠まれた歌である。
『何ゆえに くだきし骨のなごりぞと 思えば袖に 玉ぞ散りける』
この詩こそ、日蓮聖人を尊敬し慕われた元政上人の心情そのものであろう。翌日、元政上人親子は奥の院への50丁の坂道を登って行った。年老いた母には難儀な山道であったが休み休み到着することが出来た。元政上人も決して丈夫ではなかったが母をかばいながら頂上にようやく到達された。元政上人は日記にこう記されている。
『八間四面の堂に、ここにも御影ありて、いと尊く、拝みたてまつる。うしろに大きなる木あり。そのもとを掘りて父の遺骨をおさめ、己が剃り髪も埋めぬ。いたづらに身をばやぶらで法のため、我くろかみを、捨てし嬉しさ』
この度の旅行の大きな目的である父の遺骨を納め、そのあと、自身の髪も下ろして埋めたことを、嬉しく思うとある。今日、身延山の頂上奥の院の本殿の左側にある埋髪塚がそれである。
“孝と申すは高なり 天高けれども 孝よりも高からず。 また孝とは厚なり 地厚けれども孝よりは厚からず。聖賢の二類は 孝の家より出でたり” ―日蓮聖人―
奥の院には、この教えを刻んだ碑が建っている。“法華経の教えは孝養の二文字におさまれり”と。元政上人こそ日蓮聖人の教え、親への報恩を生涯にわたって実行された方であろう。
6,称心庵を瑞光寺と改名される
寛文元年(1661)称心庵の仏堂が完成し、中正院日護上人作の釈尊像を安置して瑞光寺と改めた。同年、瑞光寺のそばに養寿庵を設け、母をここに住まわして孝養を尽した。元政の孝心は世上有名なもので、古人の句にも「元政の母のあんまやきりぎりす」とうたわれるほどである。その母妙種は寛文七7年87歳の長命をもち逝去した。父母共に87歳の長寿で、孝養を尽し、元政の青年時の3願すべて成就している。元政は生涯多病であった。深草にあっても度々療養に出かけている。
7,元政上人遺言
母を送った年また病を発し翌寛文8年正月末、自らの寿命を悟って帰山、2月15日、弟子慧明日燈に大法付嘱の曼荼羅を授け後事を託し、18日世寿46歳をもって遷化した。遺命により称心庵の南方に葬り竹三竿みさおをもって墓標とした。3本の竹の意味は、1本は法華経が世界中に広まるように、1本は、衆生救済のために、1本は上人の両親の為に。そして、もし後世の上人が食べられなくなったら、お墓を耕して下さいと言い残してもおられます。とにかく、上人は親孝行の人生を送られ、周りの人の事を思われ、菩薩として生涯を送られた人生であった。
8,元政教学
遺命により称心庵の南方に葬り竹三竿をもって墓標とした。元政は深草に法華律の法灯を掲げ、三学(戒・定・慧)分修を実践して僧道の復興を計り、近世に至って堕落しだした宗門に信行重視の警笛をならして清浄な教風を樹立した。法華律とは元政の堅持した菩薩戒であるが、草山律とよばれるように元政とその一門の独自な行儀であり、一方、本化律ともよばれるように、戒律のための戒律ではなく、本化の門下の清規をめざしているのである。この元政の法華葎の理念は前の『草山要路』に、具体的な規律は弟子日燈和尚のまとめた『草山清規』に詳述されている。元政の人格と思想は以後の宗門に大きな影響を与え、日蓮宗の倫理的軌範として常に語りつがれてきたが、近世初頭の日蓮法華宗の宗風転換の時代が生んだ象徴的人物といえるのではないだろうか。