こんにちは。1/7担当のまこっちゃんです。
読みに来てくださってありがとうございます。
当たり前に感じる方も中にはいらっしゃるかもしれませんが、考えるきっかけにしていただけると幸いです。
「お金は大事。」
そんな言葉を耳にすることも多いのではないでしょうか。
今回は何故そう言われるのか、本当にそうなのかを考察しながら、我々はどう生きていくのが良いか思案してみます。
人類は生存する上で生産活動を行っています。さらに言えば、人間でなくても生産は行っていますし、生存していなくても生産活動は行えるかもしれません。
そして、同時におよそ万物は消費活動も行っています。
生産され、消費されていく物体や概念は様々な形態を取るため、ぴたりと形容する単語を充てるのが非常に難しいですが、この記事では便宜的に『価値』と呼ぶことにします。
この様々な形態となってやり取りされる『価値』は、本来比較することは疎か、計量することも儘ならない対象だったのですが、(貨幣経済圏で暮らす)人類はお金を以て計量するということを行えるようになりました(*1)。これを貨幣の「価値尺度」という機能と呼んでいます。
またお金が価値を測るものであるのでトートロジー的ですが、時空を超えて"等価値"であることを扱うことが出来るようになりました。これらは貨幣の持つ別の機能として「交換・流通手段」「価値貯蔵手段」と表現されます。
さて、ここで重要な原理が2つあります。
『価値』は系全体で見ると生産総量と消費総量が等しく存在する
当然誰も生産しなければ消費するものは手に入りませんが、逆に、消費したいと考える人(自身を含む)がいなければ何か生み出したと感じたとしても生産とは呼べないということを意味しています。
『価値』は各人で見ると必ずしも生産量と消費量が釣り合わない
この点は非常に見落としがちですが、よく考えると当然ですし、現実にも起こっていることです。具体例は後ほど紹介します。
まずは原理1.に関して掘り下げてみましょう。
(*1) お金の起源に関しては諸説ありますが、近年の研究では物々交換の尺度としてでなく債権が由来であるというのが最近の定説のようです。なので、計量を行うようになった結果、お金が生み出されたという表現の方が適切かもしれません。
こんな喩え話を考えてみましょう。
喩え話①
山の民Aさんと海の民Bさんがいたとする。
Aさんは鳥を1日2羽、Bさんは魚を1日2匹、それぞれ狩って1は自分が食べ、1は相手に渡して相手が食べて暮らしていた。
ある日、Aさんは魚を食べることを我慢することにした。Bさんには変わらず鳥1羽を渡し続ける。
逆にBさんは、魚を釣っても余らせるだけなので魚の収獲を1に減らします。
片方が消費を我慢ことで相手はポテンシャルを出し切らないで生産することになります。
そして、鳥と魚が同じ『価値』だとすると、AさんはBさんに毎日1ずつ『価値』を渡していることになります。
これをBさんがAさんに貸しを作っている状態と呼ぶことにします。
では今度はこんな状況を考えてみましょう。
喩え話②
山の民Aさんと海の民Bさんがいたとする。
Aさんは鳥を1日2羽、Bさんは魚を1日2匹、それぞれ狩って1は自分が食べ、1は相手に渡して相手が食べて暮らしていた。
ある日、Aさんは鳥を効率よく狩る方法を編み出した。そして浮いた時間で美味しい木の実を拾うことが出来るようになった。
Bさんもその実を欲しがったのでAさんはお裾分けすることにした。
今度は相手が消費したいと思うものを追加で生産することで貸しを作っています。
木の実が如何に美味しいかをBさんにアピールしたのかもしれません。
どの暮らしが幸せかという話は一旦置いておいて、消費と生産のバランスを崩すことで貸し借りという概念が発生することが分かりました。
この貸し借りの多寡を表現(=記録)するためにお金を使用することが一般的です(*2)。この場合だとBさんがAさんにお金を払うことになりますね。
お金があるとどうなるかを考えていく前に、先に原理2.の方も考えておきましょう。
(*2) お金と表現しましたが、(*1)でも触れた通り、本質的には債権でも同義です。
誤解を恐れずに言うと、善意または脅迫のいづれかに依って生産者は自身が生産した『価値』と同量の消費をすることが出来なくなると考えられます(*3)。
先程の喩え話②で、Aさんは善意でBさんに木の実を渡すことが出来ます。
また、Bさんが圧倒的に喧嘩が強く、木の実を寄越さないとボコボコにするぞと脅されれば、Aさんは無償で渡さざるを得ないでしょう。
もう少し現実的な話で行くと、税金がそれに当たると考えられます。
税金を納めてそれが自身の望まない消費に当たられるとすると、自身の生産の一部が別の人の消費になっているということになります。
中には社会福祉のために喜んで税金を納めている聖人の様な方もいるかもしれませんが、大多数の人は義務感で収めていることでしょう(*4)。
収めなかった場合に社会的に迫害を受けるという同調圧力や罰則を与えるだけの政府の持つ権限と武力に基づいた一種の脅迫ですね。
また、搾取もこれに該当します。搾取と言っても詐欺などの違法行為に限りません(*5)。
例えばこんな状況に見覚えがありませんか。
喩え話③
Aさん、Bさん、Cさんの3人のエンジニアのお話。
元々BさんとCさんだけで『価値』が6の商品Xを作れるとする。それを2人で分け合えば3ずつになっていた。
しかし、そこにAさんがやってきて、BさんのタスクとCさんのタスクを分割した上で、2人をそれぞれ『価値』2に相当する賃金で雇うことにした。
Aさんは出来上がった商品Xを売って『価値』6を回収できるので、Aさん自身は2を得ることができる。
AさんはBさんとCさんが反乱を起こさないように、やりがいを与えたり、自身を介してBさんとCさんに情報共有を行わせたりする必要があるかもしれない。
そして、お金を使ったより巧妙かつより手軽な搾取のやり口も存在しています。
ということで愈々、お金があると何が出来るのかを考えていきましょう。
(*3) 言い換えると、生産した『価値』の基準と消費する『価値』の基準にズレがあると捉えることも出来ます。
(*4) 勿論納めなくていいならそれに越したことはないかもしれませんが、本質的には、税金が自身の望まない使い道に使われていることに不満があるという気持ちなはずです。
(*5) 言ってしまえば、合法か違法かは政府が偶々設定したルールを満たしたか満たしていないか、それを政府の持つ武力で守ってくれるかどうかでしかなく、根源的な正当性がある訳ではありません。
まず前提として、貸しは返されるものというルールが根付いているコミュニティを想定しています(*6)。
更に言うと、お金を払えば対価として同等の『価値』を受け取ることが出来るというコミュニティになります(*7)。
ただしこれは決して稀有な設定などではなく、日本を始め、多くのコミュニティで採用されているルールですので、特に疑問無く受け入れられることかと思います。
そして早速、お金が大事と言われる理由が出てきましたね。
お金が大事な理由①
お金を払えば対価として同等の『価値』を受け取ることが出来る前提があるから
いざ何か欲しいとなった時に、相応のお金があれば手に入れられる(ことが多い)からですね。また、家族などに簡単に渡すこともできます。
しかし、どうも別の文脈でも用いられているように感じます。それが上でも触れたお金を使った搾取のお話です。
実際にはどのような経緯で手に入れたお金かに関わらず、前述の喩え話②のように新たな『価値』を生み出した功績であるとして、お金を持っていることが必要以上に立派なことであるという考え方を長い年月をかけて社会常識として浸透させてきました。
これを根拠として、『価値』を提供するより先にお金を受け取る場合、お金を貸してくれた人に色を付けて返すということが当然になっているコミュニティが数多くあります。金利がそれに当たります。本質的には『価値』を受け取る順序の問題でしかないのにです。
これによってお金を持っているだけで、自身が生産を行わなくてもお金を増やすことが出来るので、お金が大事と言われるのでしょう。
お金が大事な理由②
お金を持っているだけで、お金を増やすことが出来るから
さて、かなりお金とは何かが分かってきましたね。
以上を踏まえて改めてどう生きていくのがよいか思案してみましょう。
(*6) よく考えると実はこれは何も理屈がないルールで、コミュニティ内の信頼関係(と武力)によって担保されているにすぎません。
(*7) 債権は本来当事者間で発行されるものですが、これをコミュニティ内で共通に使えるとしたものがお金と考えるとよいでしょう。ビットコインがお金と見做されないのは、ビットコインを渡すことで直接『価値』を受け取れる場が希少だからですね。
人間は幸せに生きたいと思っているはずです。
では何で幸せを感じるのか考えてみましょう。
まず、生命として根源的な部分が保証されるのは欲しいですね。生死の選択権、健康、衣食住などです。
次に欲しいのは、生命として根源的な部分以外の『価値』の消費でしょうか。
ある程度までは自前の『価値』の生産と均衡がとれるでしょう。
しかし、より多くの『価値』を消費するほどにログスケールで満足度が落ちていくことが予想されます。
となると、これまでの議論から、生産を増やすか搾取するか(もしくは脅迫するか)が青天井に必要になってしまいます。
アルフレッドノーベルのように生産力を飛躍的に向上させる技術を発明するのか、Apple社のように万人が欲しがる圧倒的な『価値』を産むのか、ジムシモンズのように株で稼ぐのか、新しい搾取ビジネスを編み出すのか、どれも夢があっていいと思います。
ただここで、筆者からもう一つの可能性を提示したいと思います。
『価値』の生産の方にも幸せを感じるという人生です。
アドラー心理学に於いては人間は根本ではコミュニティに貢献しているということで最も幸福感を得るとも言われています。
また、デヴィッド・グレーバーは著書『ブルシットジョブ』で、搾取している側の人間は対価が高い代わりに退屈で、搾取されている側の人間は対価が低い代わりに社会的意義を感じることができると指摘しています。搾取するということは、退屈な仕事を引き受ける補償金として高い賃金をもらっているとも見ることが出来るかもしれません。
見返りを求めることなく、自分ならどう世の中に貢献できるだろうか、人類の進歩に爪痕を残せるだろうか、そういう価値観で生きていけたら素晴らしいなと個人的には思います(*8)。
これは技術的なことに留まらず、こういった記事を書いて考えを発信することもそうですし、誰かに親切にするといった感情的な部分でもいいと思います。
以上です。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
皆様がより良い人生について考え、実際に何か行動を変えるきっかけになってくだされば幸いです。
(*8) 章頭でも触れたように最低限の生活は確保したいので、その分の見返りを求める生産活動は必要ですね。ベーシックインカムが導入出来ればその心配がなくなるので、理想的には全員が貢献したいことで貢献して生きていけるようになるのかもしれません。