コロナ禍で、SNSの利用時間が増えた人が多くいると指摘される。途切れなく流れてくる膨大な量の情報に、どう向き合うべきか。メディア史を専門とする佐藤卓己・京都大学大学院教授に聞いた。(聞き手=石岡昭仁、萩本秀樹)
遅延化する利益
――SNSは今、新聞やテレビと並び、日常に欠かせない情報収集手段です。こうした「SNS時代」に、私たちが身に付けるべきリテラシー(情報を読み解く力)とは何でしょうか。
新聞や雑誌、テレビなどが中心だったこれまでの「マスコミ時代」は、情報の「受け手」と「送り手」が明確に分かれていた時代です。送り手の役割を担うマスコミからの情報は、「正しいか間違っているか」が決定的に重要でした。
例えば新聞では、取材で得た情報や意見が記事になる過程で、複数人の目を通ります。情報の「裏付けがあるのか」「表現は適切か」といったチェックが入ることで、発信される情報にはある程度の“品質”が保たれてきました。
一方の「SNS時代」では、誰もが受け手にも、送り手にもなることができます。これが意味するのは、情報をチェックする「ゲートキーパー(門番)」がいないということです。
個人が直接、思い付いたことを、つぶやくように、“情報”として発信します。それは他人の目を経ていないので、そもそも信頼度は低いわけです。
しかし元来、SNSは人と人とが“つながる”ことに価値を置く「接続依存型のコミュニケーション」ですから、情報が真実であるかどうかは重視されません。コミュニケーション(つながっていること)それ自体に満足をするので、内容が矛盾していたり、意味をなしていなかったりしても、当事者は心地良ければ、それでいいのです。
つまり、SNSの情報は「あいまい」であることをまず認識することが大切です。また、SNSに限らず、デマや流言は社会にあふれているという現実を受け止めることです。それらが一つもない社会とは、言論統制された社会ですから。
今、特にSNSには真偽不明な情報があふれている中で、それらを「正しく」読み取ろうとするのは不可能なことです。では可能なことは何かというと、そうしたあいまいな情報の中で「拙速に判断をしない」ことであり、「その状況に耐える」ことです。真実か、正解かを、ぎりぎりまで決断しないといった「耐える力」が、現代に求められるリテラシーの本質であるといえます。
人間は、未知の事柄に直面すると、早く理解し、安心したいという欲求に駆られます。でも私たちは、耐えることや待つことで、得るものがあることも知っています。「即時的な快楽」に対する、「遅延化する利益」のことです。
教育を例に挙げると、漢字の書き取りや計算演習は、おおむね面白くはありませんが、やり続けることで効果が表れます。遅延化することで利益があると分かっているから、教育は成り立っているのです。同様に「あいまい情報」に対しても、遅延的な効果を信じることが大切です。即断しようとする欲求に耐え続けることで、やがて誤った情報は淘汰され、自分自身の考えもまとまっていきます。
「耐える」というのは本来、将来への見通しが明るいからこそできるのですが、近年の社会は必ずしもそうではなく、コロナ禍で不安も増しています。だからこそ早く判断して、手にした情報を使い切ろうとする「即時的な快楽」に流されてしまう傾向があるといえます。
「SNS時代」の現代は、膨大な量の情報が途切れなく流れる(アフロ)
――「耐える力」を養うために、心掛けるべき点は何でしょうか。
私の専門であるメディア史では、ジャーナリズム論が扱う「情報の真偽」ではなく、「情報の効果」を研究します。情報の真偽を見極めることは個人には至難ですが、情報の「効果」を知ることで発信者の意図がくみ取れます。この視点が、SNS時代の情報を読み取り、利用する上で役立つと思います。
私はもともとドイツ現代史を専攻し、特にナチス・ドイツの「プロパガンダ」に興味を持って研究しました。プロパガンダというと、ネガティブな印象を持つかもしれませんが、かつてはカトリック教会で「布教」や「宣教」の意味で使われた言葉です。広く捉えれば「説得」、あるいは商業的にいえば「広告」になります。
このプロパガンダの視点から見えてくる枠組みがあります。プロパガンダの目的は「合意を形成する」「支持を得る」ことであり、もちろん、正しい情報を基にしたほうが効果はありますが、正しいかどうかはあくまで二次的で、一番大切なのは効果を「最大化する」ことです。
効果を最大化するには、説得力が必要です。この説得という行為には、自分と違う考えを持つ「他者」が、常に念頭にあるのです。同じ考えの人は、説得する必要はないですから。
他者がいることを、コミュニケーションの中でどこまで意識できるかに、「あいまい情報」に耐えるカギがあります。
自分の好きな情報だけを集めてくるのは簡単ですが、他者と会話し、合意を取り付けようと考え、説得できるだけの情報を集めるのは大変です。しかし、時間をかけて情報と向き合うことになるので、おのずと「遅延化された効果」も表れます。
つまり、“他者を説得する自分”を思い描いて、情報を発信していくことが重要です。良き「プロパガンディスト」「宣伝者」とは本来、そうなのです。反対する人をどう巻き込み、自分が理想とする未来をつくりあげるかを、絶えず考えていたわけです。
SNS時代では、「他者」を想定しない言説が多いと感じます。どれだけ早く、多くの人に情報を拡散できるかばかりを思考しているようです。また、SNSは「エコーチェンバー」といわれるように、自分と似た意見だけが集まるシステムになっているため、余計に他者が見えにくい。互いに「いいね」と認め合っているだけでは、まさしく「他者不在」の状態になりかねません。
世論と輿論
――誰もが情報の送り手になりうる時代だからこそ、他者を想定し、“説得”できるくらいに正確な情報を発信する責任が求められます。
私は「せろん」と「よろん」の違いを訴えてきました。「せろん=世論」は世間の雰囲気や大衆感情であり、今で言えばSNSなどによって醸成されやすいものです。これに対して「よろん=輿論」は、公的意見、つまり、公に対して責任を担う意見を指します。
「輿論」は、反対意見も突き合わせて討論を重ね、その上で形成された合意のことであり、その過程には他者がいます。そこでは「説得コミュニケーション」が盛んに行われているわけです。しかし、SNSの世界では反対意見が見えてきません。
マスコミが中心だった「情報社会」とは異なり、SNSの普及の背景にあるのは、感情型の「情動社会」です。快か不快か、ウケるかウケないかで受容され、情報の真偽はあまり問題にされません。
それでも考えてみれば、SNSの流通以前から、世の中は情報の真偽によって合意を得るよりも、“好き嫌い”や“共感”によって動いてきた部分が大きい。現実的には「情動社会」であり続けてきたわけです。クラス対抗の学校行事で団結を図ったりすることも、人が感情に従って動くことの例です。
しかし、行き過ぎた情動社会は暴走する危険性をはらんでいます。そこにブレーキをかけるためにも、正しい情報で他者を説得しようとするのは避けては通れない努力であり、「輿論」の担い手であるジャーナリズムの役割も大切になります。
「敵」の設定
――コロナ禍のさまざまな問題を、「感染抑止か、経済優先か」といった「二項対立」に当てはめてしまうのも、情動社会の特徴です。
そうした二項対立になってしまうのは、他者が見えていない典型的な例だといえます。自分以外は「敵」とする考え方ですから。第三者の意見に耳を傾けないことで、多角的な視点が欠落してしまうのです。
確かに人間は、得てして自分の利益や欲望に向かいがちです。その極端な傾向を否定するものとして、自分ではない他者を立てるわけです。自分は善で、相手は敵といった見方にならないことが重要です。
その点、情動社会が暴走する危険性をはらむのは、説得ではなく“好き嫌い”や“共感”で動くからです。「仲間だよね」という共感を得るための、一番手っ取り早い方法は、敵を設定することなのです。ナチス・ドイツにとってのユダヤ人がそうでした。敵が設定されると、他者がますます見えなくなり、説得の必要もなくなります。そうして、嫌悪や憎悪といった感情の、増幅的なプロセスに陥る可能性があるわけです。
そして、共感を得るために設定するこの「敵」は、誰か別の人ではなく、自分の暗い闇の部分を投影していることが多くあります。自分では否定したいと思っている感情や欲求を、覆いかぶせる適当な存在を見つけると、それを敵として設定するのです。敵とは自己の分身なのですから、「友か敵か」といった対立に、安易に乗せられないよう注意すべきです。
ではなぜ、私たちはこの二項対立の思考にはまってしまうかといえば、「あいまい情報」に耐えるのが苦しいからです。
このあいまいさに耐える力を指す言葉として、精神科医で作家の帚木蓬生さんは「ネガティブ・ケイパビリティ」を挙げ、言葉をこう定義しています。「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」と。
まさしく、あいまいな状況の中で耐える力を医学の立場から表現しており、複雑な問題を、単純化して捉えないための心構えであると思います。
佐藤教授の著書
意見の異なる他者との対話が 感情で動く社会の過激化防ぐ
――意見の異なる他者とあえて関わり、意見を交わし合おうとする努力の積み重ねが、SNS時代に失われがちな他者への視線や思いやりを育むのではないでしょうか。
そう思います。市民の立場でいうと、例えばSNSで自分とは興味や関心が合わないような人ともつながり、決して「快」とはいえない情報が入る状況をつくることです。そして、そこで出あう他者と、どういう会話が成り立つかを考えることがリテラシーを養う第一歩になると思います。
自分とは全く違う世界に生きる人と知り合う機会は、実際の生活ではなかなかありませんが、SNSでは簡単です。そう考えると、SNSも有害なことばかりではなく、他者とのコミュニケーションの敷居を、低くしている側面もあるのですね。
異なる意見や考えを持っている人と触れ合い、議論を重ねることは、情動社会の過激化にブレーキをかけるということでもあります。他者を“説得”することを意識して、情報を伝えたり、共有したりするからです。
もちろん、合意を形成することを目指していけば、反対意見を認めてもらえない人も一定数は出てきます。しかし、議論のプロセスに参加すること自体に価値があります。
また一方で、一つの“正解”に導くのではなく、ただ分かち合うことだけを目的にする時もあるでしょう。そこでの議論は、いわば“平行線”なわけですが、対話が継続しているということであり、とてもいい関係性だと思いますね。
平行線の対話は、交わらないという意味では“対立”しているようですが、その状態のままで安定しているということでもあります。「あいまいな状況に耐えている」といえますね。時には“面倒”だったり、“不快”だったりしますが、だからこそSNS時代には大切です。
現代のスピード社会にあっては、適度な時間感覚を守りながら情報と向き合い、他者とのコミュニケーションを続けられるかが問われています。それは、一時の快楽を求めて刹那的に生きないということでもあり、そこに宗教は大きな力を発揮できるのではないでしょうか。
物事を性急に見極めようとしたり、答えを見つけようとしたりするのではなく、あいまいな状況にあっても思考停止せず、常に対話していられるような人間関係の構築が求められていると思います。
<プロフィル>さとう・たくみ 1960年、広島県生まれ。京都大学大学院教授。博士(文学)。専門はメディア史。同志社大学助教授、国際日本文化研究センター助教授などを経て2015年から現職。『「キング」の時代』(岩波書店)でサントリー学芸賞、『ファシスト的公共性』(同)で毎日出版文化賞を受賞。ほかにも『流言のメディア史』(岩波新書)、『メディア論の名著30』(ちくま新書)など著書多数。昨年、メディア史研究者として初となる紫綬褒章を受章した。