日立合気修練会 開祖植芝盛平翁から齋藤守弘師範〜斎藤仁平塾長へと受け継がれた伝統岩間流を継承
6月27日に行われた、合氣道部OB・OG会は、台風の中盛会裡に終えることがてきました。
その中で、日高先輩発案の『思い出の記』(仮称)の冊子を作ることが、参加者全員の拍手総意で決まりました。
皆様には、それぞれの想いや、あれば任意の写真(1枚程度)を、下記の連絡先メールアドレスにWordやテキスト、画像を送ってください。
期限は、9月末とします。
必須事項は、
年号〇〇年度卒 氏名 〇〇 〇〇
文章は、最大40字✕36行、1440字A4サイズくらいまでとなります。もちろん、短くてもかまいません。
なお、印刷についてはAmazon出版とし、購入時しか費用はかかりません。
より良い、部誌となりますよう、皆様ご協力、ご拡散くださいませ。
連絡先メールアドレス ibadai.aiki.ob@gmail.com
2026年6月27日 茨城大学合気道部OB会 懇談会(茨城県立武道館 会議室にて)
2026年6月27日 茨城大学合気道部OB会 懇談会(茨城県立武道館 会議室にて)
2026年6月27日 茨城大学合気道部OB会 懇親会(水戸市 西濃にて)
初めは友人の誘いからでした。令和6年4月、晴れて茨城大学に入学した私を待っていた最初の大学イベントは新歓祭。たまたま同じ高校から進学していた友人と一緒にいろんな部を見て回り、いくつもの未来を想像してはこれからの大学生活に胸を躍らせていました。
そんな中、生協前で見つけた一つの看板に書いてあったのは”合氣道部”。合氣道に関する知識は皆無、イメージは胡散臭い、そして興味はあまりそそられない。ここは見なくてもいいかなと思っていましたが、友人がどうしても行きたいというので試しに行ってみることにしました。当時柔道場で体験したことは今でも忘れません。基本の技はもとより土田先輩が見せてくださった無足之法。「なにこれ?!」と衝撃を受けてから現在で3年目になりますがいまだに分からないまま。ですがその時の衝撃のおかげで心を打たれ即日入部し、私の茨城大学合氣道部員としての生活が始まりました。
大学生活初めての夏、集中稽古でそれはもう合氣道漬けの毎日でした。特に私は5月に左腕を骨折してから2か月ほど稽古ができなかったので同期よりもさらに力を入れなければいけませんでした。型の細かい動きを先輩から何度も教わり、家に帰るころにはいつも頭がパンクしそうになっていました。しかし稽古を重ねるごとにできる技がどんどん増えていくあの楽しさ、同期と一緒に同じ目標に向かって切磋琢磨していた日々は私にとってかけがえのない宝物です。審査では緊張のあまり稽古の成果をすべて出すことはできませんでしたがその代わり、次の審査では絶対にもっとうまくなってやるという目標ができました。
振り返れば、入部してから間もないころは先輩方に教わりながらひたすら自分の技を磨くことに精一杯でした。それから2年が経ち、現在は主将として合氣道部をまとめる立場になりました。かつては先輩方に教えていただいた私が、今度は後輩たちに教える側になったことを考えると時間の流れの速さを痛感します。
主将になってからは、自分の稽古だけを考えていればよかった頃とは違い、どうすれば部員が楽しく稽古できるか、どうすれば合氣道を楽しんでもらえるかでいつも頭を悩ませています。それでも稽古を重ねる中で後輩たちの技が少しずつ上達していく姿を見ることは主将として、また先輩として、これ以上にない喜びです。私が先輩方から教わった合氣道の楽しさを後輩たちに伝え、後輩たちがその下の後輩に教えるというサイクルがいつまでも続いて、今後たくさんの人たちが合氣道という素晴らしい武道の魅力に気づいてくれることを私は心から願っています。そして私もまた、この60年の歴史を次の世代へとつないでいく一人でありたいと思います。
最後に、創部60周年という記念すべき年に主将を務めさせていただいたことを心より光栄に思うとともに、これまで部を支えてくださった多くの方々に深く感謝いたします。
もともと地元京都で中学生のころに始めた合気道。しかし、流れるような技が難解で、自分がくるくる回ってもなかなか相手はついてこない。受験で忙しくなったこともあり、次第に稽古から遠のいてしまった。しかし、稽古自体は楽しく、何とか再開したいと思って茨大合気道部の門を叩いた。結果として、最高の出会いになったと思う。
岩間の合気道は固い稽古から始まるので、形がきちっと決まっている。最初はそれほどうまくはできないが、とにかく分かりやすく、覚えやすかった。力いっぱい持っても投げられ、抑えられたことで、武術としての有効性も感じた。初段を取ってからは楽しさに拍車がかかり、卒業後も自然と合気道を続けていた。
部活の思い出話は同世代の皆にお任せして、私は現在の岩間の様子についてご紹介したい。卒業から5年半稽古を続け、私は合気会の段位を取得し、茨城支部道場に3週間の内弟子に入った。今後合気道を続けていくうえでは、どうしても師匠たちが稽古した道場で修業したい思いがあったためだ。岩間には毎年多くの内弟子が来るが、ほとんどは外国人で、日本人は年に数名もいないらしい。私の時期はアルゼンチン、スウェーデン、カタルーニャの3名が一緒だった。
道場の生活は経験豊富なアルゼンチン人内弟子より教わった。5:15の起床後と、朝食後の2回の作務があり、神社や道場敷地の庭仕事をする。稽古は朝6時(武器)と夜7時(体術)の2回で、午後には内弟子同士の稽古がある。朝のご指導は稲垣師範が担当されている。師範のお出迎えとお見送りは内弟子の仕事だが、早朝の道場外で、氷点下2度の中師範をお待ちするのは大変寒くつらいものだった。道場の畳もとても冷たく、どうにかヒーターに当たれないかと、姑息にも稽古の位置を工夫していた。
東北の震災の被害があり、道場は修復されている。昔の様子は映像や写真でしか知らないが、基本的な部分は変わっていないようだ。内弟子は基本的に「赤い部屋」で寝泊まりするが、大先生の過ごされた居間や囲炉裏の部屋で過ごすこともある(内弟子の一人に、いびきがうるさいと別の部屋へ叩き出された)。大先生の使われた五右衛門風呂も拝見でき、大先生の木剣にも触った(ただし振ってはいけない)。食堂もそのままのようで、開祖存命時からある石臼が現存している。開祖、斉藤先生が写ったお写真もあった。
修行中は様々な経験をすることができた。以下に記録として箇条書きする。
・他の内弟子が国へ帰り、一人で寝ていると外で気配がして目が覚めた。なんと神社が火事になったと通報があったようで、消防官が走り回っていた(いたずら通報だったが)。
・カタルーニャの内弟子がはしゃいでおり、何かと思ってみていると、カブトムシの幼虫だった。
・秋本師範より「相手の攻撃をよけるときは、頭の先からつま先まで、上から落ちてきた岩につぶされないように動く」と開祖は言っていたようだ。動くときは正中線から動けということだろうか。
・稲垣師範の稽古会で、門外不出の試合教習(返し技)を教わった。
・道場にはお化けが出る。稲垣師範は金縛りにあったらしい。
短期間ながら、開祖の道場に寝泊まりしての修業はとても印象的だった。この修行経験は、今後一生の宝物になるだろう。今後も時折、岩間に出向き、開祖の息吹を感じながら稽古に励みたい。
山形県鶴岡市在住の五十嵐崇と申します。私は、「茨城大学 合気道部」と出会ったことで大きく成長し、今の自分があると考えております。この場を通じて出会った皆さんへの感謝の思いを綴りたいと思います。
【「茨城大学 合気道部」との偶然的な出会い】
私は、茨城大学 人文学部 社会科学科に入学しましたが、学びたい内容と自身の偏差値の都合で、一浪しての大学生活のスタートでした。
当時は漫画「拳児」にはまっていて、大学で中国武術を経験したいと思いつつも該当する部が無く、「少林寺拳法部」と「合気道部」で迷いながら「合気道部」を見学し、「拳児でも少し紹介されていた武道」「埼玉在住の叔母さんもやっていた」「全くの運動初心者でも何とかなりそう」「女性もいて楽しそう」という理由で入部を決めました。
そして、人文学部の相沢君や川村君、工学部の鴨志田君、金井君、上川合君、農学部の中沢君といった同期の皆さん(同期で唯一の女性、阿部さんは翌年入部)、そして面倒見の良い先輩方と出会い、男臭く、熱く、そして、青春真っ盛りの合気道部生活に突入したのでした。
【岩間の合気道との出会い、自身を成長させるきっかけ】
当初、合気道に関する知識がほぼ無い状況のため、岩間の合気神社の例大祭に初めて訪れた際は、国内外から集結した屈強な方々の姿、齋藤守弘先生や著名な先生方の発言に、「本物だけが持つ凄み」を感じて大きな衝撃を受けました。
そして、キンチョーの夏合宿デビュー。
常に緊張感が漂う空間、学生同士では味わえない濃密な稽古でクタクタな中、齋藤先生の稽古が1回お休みになった際、「助かった」と思った私の脇で、「貴重な1回を逃した」と悔やむ川村君の姿を見て、浪人時代に「課題意識を持たないと大学の4年間を無駄に過ごす」と教えられたことを思い出して「自分の志の低さ」に気付き、大いに反省しました。この時に実体験として学んだ「何事に対しても、自分なりの課題意識を持って従事する」ということを、今も常に心掛けるようにしております。
【合気道部生活の中での成長】
岩間での夏合宿で「合気道の凄さの一端」を経験した後の合気道部生活は、「稽古は厳しく、交流は楽しく」とメリハリの効いたものでした。
日々の稽古の中では、先輩や同期からの助言を頼りに技の練度をひたすら高めました。そして、稽古が終わった後は、学食で食事をしたり、部室やアパートで深夜まで歓談したり(ゲーム、プロレス、漫画、恋話など)、また、季節の催しとしてのコンパ、海水浴、スキー、旅行など、とても充実した時間でした。
この中で多くの人と出会い、多くの出来事を経験したおかげで、「引っ込み思案だった私」は、「静に周囲に気を配りつつも、やるべき時にはやる私」「社会の変化に対応できる私」に成長することができたと思っております。
【自分の中に生きている合気道の教え】
締めくくりとして、私が大切にしている言葉を紹介します。
■齋藤守弘先生「間違いを見て分からないのはバカ。間違いを教えないのは人でなし。」
■齋藤仁弘先生「料理の修行時代、気配りが役立った。技だけ強くなっても、日常生活で役にたたない稽古では意味がない。」
■向井崇先輩 「合宿に参加した1年生に3つ伝える。一つ目は『陰日向をつくるな(相手を見て態度を変えるな)』。二つ目は『ケツを軽くしろ(指示待ちになるな)』。三つ目は……忘れました。」
私が合気道部に加入したのは、大学1年生の夏でした。加入して間もなく昇級審査を迎えました。他の同期と比べて後れを取っており、稽古不足を感じていました。一日でも早く同期に追いつくため同期や先輩に積極的に声をかけ、一層稽古に励みました。稽古を重ねて、審査当日は堂々と臨むことができました。その後も稽古に励み、最終的には初段をいただくまでに上達しました。昇級昇段審査および稽古を通して身に付けたことは、目標を持って取り組むことの大切さです。言い換えれば、目標を立て、その目標達成のためには何をすべきか、どのように改善していく必要があるかといったことを主体的に考えて、行動に移す能力です。この能力は合気道のみならず、現在の仕事においても業務の遂行や達成に向けて常に意識しています。
最後になりますが、在籍期間中は色々とご指導ありがとうございました。今後も合気道部で培った能力を活かしながら、日々邁進していきます。
【桜の門出と畳の青春】
桜舞う大学の正門をくぐり、私が踏み出した合気道への道。それは、空手の直線的な打撃とは対極にある、相手の力を受け流し、美しく舞うように地を転がる未知の武道でした。初めてその動きを目にした時のことです。圧倒的な躍動感と演武の美しさに、私は一瞬で心を奪われました。
稽古の後、吾一先輩や昌先輩に「今日、暇か?」と声をかけられた放課後。畳の匂いがまだ残る道場から、ファミコンの画面が賑やかに躍る狭い下宿部屋へと向かう道すがら。あの小さな部屋で雑談を交わし、互いの未来を熱く語り合った満ち足りた時間は、胸が激しく鳴るような、かけがえのない青春そのものでした。
【岩間での洗礼と、身体に刻まれた教え】
大学一年の夏、私は合気道の聖地・岩間道場へと足を踏み入れました。そこで待っていたのは、過酷な稽古と厳格な修業の日々です。連日の稽古によって、腕や背中には無数のあざが刻まれました。しかし、その鈍い痛みすら、己が少しずつ強くなっている実感が得られる歓喜の証であり、どこか誇らしくさえありました。
ある日の境内の草取りの最中、暑さと疲労から、つい地面に尻をついていた私に、斉藤守弘先生の鋭い叱咤が飛びました。先生は自ら立ち上がり、背筋の伸びた見事な姿勢を示してくださったのです。「いかなる時も姿勢を崩すな」という、身をもって示された教え。三十年以上が過ぎた今も、職場の花壇で草を抜くたび、あの日目にした先生の凛としたお姿と声が鮮明に甦り、私の背筋を自然と伸ばしてくれます。
またある時、若気の至りから、斉藤先生の技を「試そう」と頑なに抵抗したことがありました。先生がうっすらと笑みを浮かべられた、次の瞬間でした。私の視界は猛烈な速度で反転し、気づいた時には、天井の木目が視界を流れ、私は宙を舞っていました。圧倒的な深淵を前に己の小細工は一瞬で霧散し、未熟さを深く恥じるとともに、ただ無我夢中で先生の大きな背中を追い続けることを誓ったのです。
【畳の上から教壇へ、そして深まり続ける武の道】
大学卒業後、茨城県で教員となり、多忙を極める毎日の中で、次第に道場からは足が遠のいていきました。しかし、あの畳の上で培った武道の魂が途絶えることは決してありませんでした。「基本とは何か」「真の強さとは何か」を教育現場でも問い続け、顧問を務めた女子卓球部を何度も関東・全国大会へと導くことができたのは、あの道場で培った不屈の精神と、斉藤先生の教えがあったからに他なりません。
四十歳を過ぎてからは、太気至誠拳法やコンバットシステマという武道を探求しています。他流の理合を知れば知るほど、斉藤先生が示してくださった教えの真意が、より深く心に染み渡ります。あの日、岩間の道場で描いた大きな放物線は、今も私の人生の確かな軸となり、これからも遙かなる未来への道を照らし続けています。
高校は文化部だったから、大学では武道をしたいなという漠然とした理由だった。
平成元年入部。稽古は、ほとんど休まなかった。
茨城大学合氣道部は、茨城道場の直轄の組織。
たまたま開祖が戦後茨城県岩間町に住んで、武道を再構築する中で受けを取って、付き従ったのが、齋藤守弘先生だった。
だから、開祖直伝、開祖から全てを教わったと言いきった。
齋藤先生は、茨城道場長。仁弘先生は、若先生。
夏冬合宿も、審査も茨城道場で行った。
級の免状は、齋藤先生の印。段の免状は、合気会道主の印。
岩間の内弟子のマイルズ・ケスラーから土曜午前稽古を引継いで、かわいい後輩たちに教え、岡山から内弟子の内田先生との岩間での稽古を経て、ますます岩間、水戸と縁が深まった。
卒業後も、当たり前のように、学生稽古に参加し、岩間合宿も参加した。
転機は平成6年の鏡開き演武で、存在を知ってもらえて、即二段をいただいた。その後のデンマーク合宿を経て、だんだんと齋藤先生の受けを取ることが増えた。体の変更、特に諸手取り呼吸法は弟子の中で一番取らせていただいたと自負できる。
時代は流れ、仁弘先生、現在の内田先生になっても、齋藤先生が伝えた開祖直伝岩間の合氣道をこれからも愉しむことができる。
水戸での家を紹介してくれた吾一先輩、また合氣道部再興の後藤先輩、長年氣にかけてくれた日高先輩、創始者の西連寺先輩などなどの存在、各時代時代の後輩たち、村上、小川、汲田、永瀬、相沢、辺見、浦辻、中藤、荒井、中城、高橋、佐藤、小野寺、武田などなどの稽古やたくさんの部活外の遊び、酒飲みもあって、部が私の生き方の指針となっている。
合氣の徳により、合氣の鍛練ができると、昭和13年発刊の植芝守高名での武道に書いてある。
徳を積める、徳ある人になる合氣道を稽古し、合氣道部と関わってきて、よかったと心から言える。ありがとうございます。感謝しかありません。
最後に一つ、エピソード。NHKBSが撮影に来て、入身投げの受けを取った。齋藤先生から、正面打ちと言われたので、こちらから打っていったが、「馬鹿者!基本は仕手から打つものだ!」と、3回連続で投げられて、道場の端まで飛ばされたことがある。
強く盤石な齋藤先生を食らいました。
また、齋藤先生最後の演武となった秋田ワールドゲームズ。これも入身投げの受けを取りました。入身投げが崩れ、ともに倒れる捨て身技に変化しましたが、この時守弘先生が私の耳元に何を言ったかは、内緒にしておきます。
私が入学した平成7年は、センター試験直後の1月に阪神・淡路大震災、入学前の3月に地下鉄サリン事件が発生し、新生活を始める若者にとって不安の多い年でした。私は初めての一人暮らしや大学生活に戸惑いながらも、大学では何か新しいことに挑戦してみたいと思っていました。そんなときに目にした合気道部の演武が、私と合気道との最初の出会いでした。
先輩から受け取ったチラシを手に、サークル棟3階の部室を訪ねました。扉を開けると最初に目に飛び込んできたのは、親から「気をつけなさいよ」と言われていた宗教団体の代表者の写真でした。「とんでもないところに来てしまったのかもしれない」と戸惑っていると、ガタイのよい男性が入ってきて、「新入部員?」と声をかけてきました。貫禄たっぷりの先輩だと思い、おそるおそる話をしてみると、その男性も新入生。同期の辺見でした。
こうして私は茨城大学合気道部の一員として稽古を始めました。最初は慣れない膝行で膝を擦りむくこともありましたが、技を学びながら稽古を重ねる日々は新鮮で充実していました。先輩や同期から助言を受けながら試行錯誤を続けるうちに、技のわずかな角度や方向の違いを感じ取れるようになり、合気道の奥深さや面白さを実感するようになりました。
また、新しい環境の中で学部とは異なる仲間とのつながりができたことも大きな喜びでした。私たちは稽古だけでなく、一緒に食事をし、夜遅くまで語り合い、ときにはカラオケで大騒ぎもしました。そうした時間の一つひとつが、今ではかけがえのない思い出です。彼らとの出会いがあったからこそ、私の大学生活はより充実した、楽しいものになりました。
土曜日には国際合気道の稽古にも参加しました。流暢な日本語で技を説明するマイルズさんを通じて、合気道が世界中で親しまれている武道であることを知りました。夏季休業中の岩間道場での合宿は、丸一日合気道のことだけを考える濃密な時間であり、布団をきれいにたたむことや合氣神社の清掃、食事の準備まで、すべてが学びでした。また、世界各国から修行に訪れる内弟子の皆さんの姿を見て、茨城大学がいかに恵まれた環境にあるのかを実感しました。
私はもともと運動部の経験がなく、先輩・後輩という上下関係にも不慣れでした。しかし、先輩方から一つひとつ教わりながら、礼儀や気遣いを身につけていきました。今振り返れば、社会に出てから必要となるマナーや人との付き合い方を学ばせてもらった貴重な場だったと思います。その経験は、大学院時代に単独で中国の草原地帯を調査した際にも役立ち、現地の人々との交流を円滑に進める助けとなりました。
2016年2月、合気道部で最初に出会った同期であり、後に主将を務めた辺見が早世しました。彼とともに稽古し、笑い合った日々を思い返すと、今でも寂しさが込み上げてきます。しかし、合気道部というつながりがあるからこそ、先輩や同期、後輩たちとの思い出を今も振り返ることができます。その意味でも、私にとって合気道部は技を学んだ場であるだけでなく、多くの大切な人との縁を結んでくれた、かけがえのない存在です。
(写真 稽古後に辺見と撮影した一枚)
私にとっての茨城大学合気道部とは、『人生になくてはならなかったもの』です。
それは、技術や考え方は勿論、師や先輩、後輩、稽古仲間に恵まれ、合気道部の活動を通じで、社会性、協調性、思想を学び、私自身の生き方に繋がったと実感しているからです。
私は、当時の人文学部人文コミュニケーション学科に入学し、合気道部にご縁あって入部させていただきました。
私自身、人文コミュニケーション学科に在籍していたにもかかわらず、『コミュ障』であり、人と話をすることや関係を持つことがとにかく苦手でした。
そんな私が、合気道部に入部したことで、ご縁をいただき、人との関わり方を改めることが出来ました。
私の代は同期に恵まれ、女性は私含めて4名おり、卒業まで多くの同期が残った代ではないかと感じます。
卒業した今でも連絡を取り合い、今では私のかけがえのない友人となっています。
それほど、仲間、先輩、後輩、師のご縁に恵まれたのだと身をもってしみじみと思いました。
私が合気道部を続けることが出来たのも、こうした面白い同期たちに出会えたからです。
私自身変人なのですが、合気道部に入部した同期を見ると、(いい意味で)変わっている人が多いなと思いました。
おかげで、私はコミュ障を発揮せず、気兼ねなく楽しく稽古が出来たし、一緒に稽古できる仲間がいるから稽古を楽しいと思えて続けることが出来ました。
稽古以外での部内交流は、楽しいことも多くあり、時には悩むことも度々ありました。
その全てが今となっては「あんなことあったなぁ」という笑い話になっています。
具体的なエピソードは割愛させていただきます。
私の時の稽古は、坂谷先生にご指導をいただき、先生がいらっしゃらない時は、現役の先輩方や、ご卒業された先輩のご指導を賜りました。
こうしたOBの先輩方、多世代や海外交流を経験し、こんなに幅広く関わることが出来たのも、茨城大学合気道部だったからだと実感しました。
岡山での内田先生講習会では、『合気道とは』と改めて考えることが多く、考えても答えは出ないし、体得できないし、と深い深い合気道を魅せつけられました。
どうしてこんな動きが出来るのか、どのような考え方をすればいいのか、毎回毎回頭の上に「?」が浮かび、そのまま畳の上にコロコロ転がされ、気付いたら天井を見ているという現象を体感し、こんな経験が出来るのも合気道だけだなと思いました。
こうした考える力や人との関わり合いは、後に仕事をするうえで、必要な力となっていました。
こうして茨城大学合気道部で、菩薩、いや神様のような方々と出会い、知識や考え方を育めたことは私にとって一生の糧となっています。
さて、私事ですが、つい先日第一子を出産しました。
超が付くほどの安産だった、身体が柔らかい、いきみ方が上手と助産師さんに言われ、勝手ながら「合気道をやっていたから股関節が柔らかくなったし、呼吸も意識できたのだ」と思いました。
勿論、すんなり生まれてきてくれた娘にも感謝です。
4年間+αの合気道が身体に染みついていたおかげで、私の人生良いことづくめです。
先生、先輩、同期、後輩に出会えたことに感謝をし、これからも合気道に邁進していきたいと思います。
末筆ですが、皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
乱文にて失礼いたしました。
この度、茨城大学合気道部創部60周年を記念し、拙い文章で恐縮ですが寄稿させていただいきます。
私が茨城大学に入学したのは平成27年4月で、平成29年度は主将も務めさせていただきました。
小中高とサッカーをしていた私は、将来警察官になることを夢見て、大学入学後は何か武道をやりたいと考えていました。
新歓で部活動見学に行き、その際に見た佐藤先輩の組杖、坂谷先生の技に感動し、「合気道は自分自身と守りたい人はもちろん、害をなそうとしてきた人さえ無傷で終わらせることができる武道」という言葉を受け、この部活で4年間頑張ろうと決意したのを今でも覚えています。
入部後は朝5時から始まる朝稽古、学生稽古と水戸合気修練道場の稽古、岡山合宿、合同稽古と休みなく参加し、学生生活は合気道を中心に回っていました。
内田先生、坂谷先生、尊敬する先輩のご指導の下、個性的な同期、優秀な後輩にも恵まれ、各種合気道技や、心構え、礼儀作法、たこ焼き技術(?)を徹底的に叩き込まれました。
私は今まで先生方の技で幾度となく投げ飛ばされ、数えきれないほど素振りをし、身体のあらゆる箇所にあざをつくり、筋肉痛になりながら稽古を積んでいましたが、一度として満足のいくような技ができたことはありません。
自分ができないことに対して試行錯誤を重ね、仲間と切磋琢磨する稽古の日々が、今となっては本当に幸せであったと思います。
様々なことがありましたが、思い出に残っているのはやはり岡山合宿です。
学生時代は岡山に行くためにアルバイトをしていたといっても過言ではなく、通算何度内田先生のお宅にお邪魔させていただいたかも覚えていません。
それほど内田先生の神技と岡山での体験は魅力的でした。
現在は学生の頃のように満足のいく稽古はできていませんが、幼いころからの夢も叶い、刑事としてあらゆる犯罪者と対峙し、時には格闘する日々を送っています。
これまで逃げ出したくなるような、心が折れそうになるような現場も経験してきましたが、なんとか乗り越えてこれたのは合気道のおかげです。
最後になりますが、私は歴史ある茨城大学合気道部の一員として学生生活を送ることができたことを本当に誇りに思っています。
お世話になりましたすべての皆様にこの場を借りて御礼申し上げます。
現役生の皆様、一日一日を大切に、楽しんで稽古をしてください!
平素よりお世話になっております。工学部を2025年に卒業し、現在は東北大学大学院に所属している川﨑と申します。2021年、同期の大越、田坂、篠崎と共に合氣道部へ入部しました。
当時はCOVID-19の影響下にあり、大学では柔道場での対人稽古が禁じられていました。加えて、私たち(2021年入学)から見て昨年および一昨年に入部した部員がほとんどおらず、部活に来るメンバーは多くても4から5名程度でした。そのような状況でも当時学部4年生だった武田先輩指導のもと、剣および杖の素振り稽古を前期の半年間ほど行っていましたが、「この状況が卒業まで続くのだろうか」というのが率直な感想でした。それでも閉塞感のあった当時の情勢を踏まえると、外へ出て他の学生と話せること自体が大きな支えとなり、モチベーションを保って活動を続けることができました。
2021年も後期に入ると徐々に対面での活動がスタートし、岡山・内田先生の合同稽古にも参加させていただきました。そこで体験した内田先生の技は衝撃的であり、「人間の身体動作はここまで最適化できるものなのか」と感銘を受けました。合同稽古に参加されていた社会人稽古者の方々も非常に経験豊富であり、多くの気づきを持ち帰ることができました。
後輩が入部した2022年度も引き続き合同稽古へ参加した他、坂谷先生の水戸合氣修練道場でも稽古するようになりました。これらの経験は確実に自らの糧となり、ハードな鍛錬によって確かな実力を身につけるという人生の指針となっています。特に自衛官の方々との稽古は非常にタフであり、自分の現在地を知るきっかけとなりました。こういった経験を重ねていくうちに、茨城大学合氣道部とそれを取り巻く環境が極めて恵まれていたことも認識しました。普段の学生稽古が通年で行われていることはもちろん重要です。さらに、自分よりも遥かに実力のある先輩方が身近にいて、これほど手厚く指導していただける環境は他の部活動・サークル活動を見渡しても例外的であり、茨城大学を離れたからこそより実感できている部分でもあります。
2023年度からは体育会ラグビー部に入部して活動していたこともあり、以前のように合氣道部の稽古に参加する時間は確実に減っていきました。そんな中でも稽古によって身につけた「楽をせず地道な鍛錬を積む」、「格上の相手に対しても積極的に向かっていく」といった姿勢を大切にした結果、未経験で挑んだラグビー部での活動は「全国地区対抗大会出場」という成果を残すことができました。この実績は合氣道部で培った経験・マインドセットが基礎となって実った結果であり、今後の人生にとっても大きな財産になると確信しています。
このように、入学から卒業を通して合氣道部には大変お世話になりました。数少ない後輩を指導するために自費で日立から水戸まで来ていただいた武田先輩、稽古を通して学生の健全な精神を培い、今もなお部員の指導に尽力してくださっている坂谷先生をはじめとした社会人の諸先輩方、そして共に汗を流し最高の時間を過ごした3人の同期など、合氣道部に関わる人々の存在が私の大学生活を「かけがえのない青春」としてくれたのだと感じています。そして数ある部活動の中から合氣道部を選んで入ってきてくれた後輩たちには、この環境を最大限に活用してもらえればと思います。皆さんが大学を離れる際に「合氣道部に入ってよかった」と少しでも思ってもらえたら嬉しいです。
令和4年度から令和5年度の2年間、部長を務めさせていただきました、田坂と申します。現在も修士課程2年生として部に在籍しておりますが、このような節目にあたり、創部60周年記念冊子に寄稿する機会をいただけましたことを、大変嬉しく思います。
私が入部した当時の合気道部は、コロナ禍の影響により課外活動が大幅に制限されていたこともあり、部員数が大幅に減少し、活動の規模も小さなものでした。しかし、そのような状況でも、当時の部長であった武田先輩をはじめとする先輩方や、素敵な同期たちと出会い、また内田先生や坂谷先生をはじめとする先生方からご指導をいただきながら、充実した稽古に励むことができました。
学部2年生となり、先輩方から幹部学年を引き継いだ際には、これから部をどのように守っていけばよいのか、どうすればコロナ禍前のような活気のある部に戻していけるのかと、思い悩むことも多々ありました。しかし、合氣道部で過ごす中で得たものを思い返すうち、自分に居場所を与えてくれたこの部が、次の世代にとっても安心して帰ってこられる場所であって欲しいという想いが強くなっていきました。
その後は、コロナ禍による様々な活動制限も緩和され、少しずつ部員数も増えていきました。また、茨苑祭や遠征など、以前は思うようにできなかった様々な行事にも取り組めるようになり、次第に以前のような活気を取り戻していく部の姿を見ることができました。
振り返ると、合氣道部で過ごした時間は、夢のような時間でした。順調なことばかりではありませんでしたが、大学生活の中で大学生活の中で得たものの多くは、この部での経験や、ここで出会った人たちからもらったものだと考えています。修了を間近に控えた今、後輩たちが日々活動している現在の合氣道部を見ていると、ここは私にとって、最も多くの大学生活の思い出が詰まった、かけがえのない場所なのだと改めて感じます。
これまで60年間もの長きに渡り、部を築き、守り、そして現在まで繋いできてくださった先輩方に、心より感謝申し上げます。私たちの代が過ごした時間もまた、この長い歴史の一部として、次の世代へと繋がっていくことを強く願っております。
創部60周年、おめでとうございます。
自分にとって合気道部は最も楽しく充実した時間を過ごせた場所でした。
日々の稽古も強化稽古も合宿も合宿後の旅行も昇級昇段審査前の追い込みも茨苑祭も、様々な理由で始まる飲み会もどれもこれも代え難い思い出です。
稽古では、疲労困憊になることは多々ありましたが、限界まで力を出すほどになんだか楽しくなり、お互いに歯をむき出しにしながら(食いしばりながら?)笑顔がこみ上がるという経験は他ではなかなか味わえないものでした。
また諸先輩方からご厚志頂き実現した岩間での内弟子生活も貴重な経験でした。内弟子は2003年3月と8月にそれぞれ10日間という期間で、同期の林君と共に齋藤仁弘先生から稽古、生活面でご指導賜りました。
当時の内弟子は日本の石川さんを筆頭にブラジル、イタリア、フランス、オーストラリア、スペイン等の方々が集い、国際色豊かでコミュニケーションに四苦八苦していたことを覚えています。
稽古の合間には先生と畑の手入れや、森で刈った木々の運搬、鶏の屠殺から解体をおそるおそるお手伝いすることもありました。
当時は岩間神信合氣修練会発足の時期ということもあり、外道場を作るために森を切り開くお手伝いもしました。チェーンソーで杉を次々と伐採していく先生の姿は妙に馴染んでおり、不思議な納得感を感じたものです。
また、8月の内弟子時にヤギの解体も体験しました。当時先生が飼われていたヤギはオーメという雄とメーメという雌の番いでしたが、ある朝先生がオーメを目にし「弱ってきたな…喰っちまうか」とポツリ。最初はご冗談かと思っていましたが、その昼に柵内で吊るされ、モツ抜きされたオーメとその前で鳴いているメーメを目撃した時は衝撃と共にもの悲しい気分になったものです。オーメを内弟子で頂戴したと石川さんから伝えられていたものの、無意識に業務用冷蔵庫を開けた際に首のないオーメ(毛皮未分離)が横たわっているのを見た時は声も出せずに驚いていたのを覚えています。当然内弟子全員ヤギ解体未経験の中、胴体やら生首をみんなで頭を悩ませながら解体をし、同じく経験のないヤギ肉料理を試みる、というのも良い思い出です。斯様に稽古は勿論、生活面でも他では味わえない様々な経験は20年以上経っても自分の中で強烈な思い出として残っています。
社会人となった今、合気道部で過ごした時間を振り返って思うのは、先輩方からあんなに親身になって指導して頂き、また自身も後輩を真剣に指導し、後輩もそれに応えてくれる環境というのは非常に恵まれ、また得難い熱量に溢れていたのだという事です。
合気道部が今後も存続し現役、OB・OG皆様の財産とも言えるような時間を過ごせる場であり続けて欲しいと心より願っております。