久野 拓造 先生の素顔

私が仕えた4人目の教授

1982(昭和57)年の9月,20年ぶりに母校に帰ってきたものの,久野研究室には卒業研究の4年生は居らず,第一薬科大学から修士課程に進学してきた院生2名(1年)がいるだけであった.ゼミ室で研究室全員が顔合わせをした際,学生より職員(3名)の方が多いという状況に前途多難の感を強く覚えた.当時,熊薬には博士課程はなく,学生,院生が十数名存在した九大研究室の研究戦力との落差に覚悟はしていたものの現実を目の前にして,「今後どのようにして教育,研究を進めていくべきか」 思考が停止したのを覚えている.

昭和56年度に,薬工研究室の市川助教授は福山大学へ異動し,村岡助手も9月末に町立芦屋病院へ転出することになっていたため,教員は久野教授,松岡助手だけになっていた.久野教授からは,「自分は生協裁判の国の代理人に指名され,定期的に福岡高裁に出掛ける必要があり,研究どころではない」,「熊薬は博士課程の設置申請の準備中であり,研究実績を上げる必要がある」,「助教授は教授の女房役」等々,先制攻撃的に言い渡された.

注)昭和43年の「光熱費国費負担要求」に端を発した生協裁判は,熊本地裁判決を経て,福岡高裁控訴審の第10回和解交渉に入った時期であった.

研究に関しては,「ピリジン N-オキシドの 1.3-双極性反応」の更なる進展を図ってほしいというものであった.九大時代に環化付加体のX線解析で研究協力したこともあり,フロンティア軌道論の実証の好材料であることから,テーマ自体に抵抗を感じることはなかった.さっそく, pyridine N-oxide と phenyl isocyanate の速度論的機構解析とフロンティア軌道法による解析に注力した.現在の64ビットパソコンなら数十秒で計算できる分子軌道計算を8ビットパソコンで一晩かけて計算した.おかげで,指導していた院生は修士課程修了を待たずに論文を投稿することができた.

その頃になると,久野先生は行動力(大学紛争の際に機動隊導入等)を買われ,学部長に就任されたため研究から身を引かれ,その状況は定年まで変わることはなかった.先生とはゼミ室で昼食を共にすることでコミュニケーションを図ったが,大学行政,文科省との折衝等の(知ってはいけない)内幕を知ることができた.その内容(決して綺麗とは言い難い)を書くのは今は控えておきたい.

久野先生が大学本部に顔が利くことが役に立ったこともあった.研究室が上記のような態様のため,九大大型計算機センターに出向くこと(出張)など到底出来る状況ではなく,パソコンによる計算で急場をしのいでいたものの効率が悪く九大センター端末機の導入が急務であった.しかし,講座の予算は乏しく色々思案したものの名案はなく,叱られるのを覚悟して思い切って教授に相談したところ,あっさりと専用端末機の設置が実現した.注)私の家内の叔父,雄城雅嘉(富士通研究所社長)の協力もあった.

その後,私は熊大計算機センター委員,機種選定委員,情報処理教育等を定年まで引き受けることとなった.薬品製造工学実習を分子工学,情報工学(フロンティア軌道法による分子設計,反応速度論,プログラミング)へ改変する際,先生には全面的な理解と協力を頂いた.日常的な学内LANや情報機器類の保守管理のほか,薬品製造工学の3年実習に加えて低学年の情報処理実習を引き受けたため,研究室の職員,院生には多大の苦労を強いてしまった.

学部長を辞められた後は,生協裁判の和解交渉,その記録の整理と始末記の執筆に専念された.定年前に生協裁判の記録を書くように当時の学長に頼まれ,教授室は膨大な資料に埋もれていた.専用のワープロを用意したが,結局手書きになり,衛藤助手が達筆文字の解読とワープロ入力役を努めた.「和解」というタイトル名の 272頁(1行36文字,47行,日付1990年3月10日)を超す労作に学長はびっくり仰天,登場する人物が現職にあるため原稿は学長室で預かり,熊大50周年(平成11年)を機に公開する旨約束されたとのことであった(以下にPDF版の一部を紹介).

昼食時に,その顛末を聞かされたが,苦労して書き上げた原稿が没にされたことにかなり不満であることが表情に現れていた.結局,先生の退職時に,生協裁判の短い文章が「学報」に掲載されただけであった.先生は,定年退職後好きな映画鑑賞,水彩画等を楽しんでおられたが,平成14年3月20日自宅で倒れ,亡くなられた.大学による「和解」の公開は先生の生前に実現することはなかった.

「時期が来たら,公開してほしい」と頼まれているので,奥様に公開について相談したが,「生協裁判」には関わりたくないとの返事を貰い,それ以上話を進めることはできなかった.

熊本大学レポジトリに投稿すべく,衛藤君に相談するつもりでいたが,彼の転職などで実現に至っていない.

和解全体-10.pdf

.旧薬工研究室ホームページに久野先生の追悼の意味で書いた文章があるので以下に転載した.そのなかには,開講二十周年記念誌のメッセージが含まれている.

久野先生の思い

久野先生,お疲れさまでした.昨年秋に九州大学薬学部の薬友会熊本支部の会合が流れたのが悔やまれます.その後,矢原助教授,喫茶店ラガーのマスターの発案で,衞藤 仁君の東海大学農学部教官としての研究職復帰祝いに先生をお招きする計画を立てていましたが,これも実現できなくなってしまいました.

「やれる時にやらんからそぎゃなふうになると」と叱られても仕方ありません.

昭和57年9月1日,熊大に赴任し,午前8時30分きっかりに恐る恐る先生の部屋をノックしたのが昨日のことのように思い出されます.ノックして入るなり,先生は「うちは8時20分にはほとんどそろっとるもんな」の一喝でした.九州大学の加藤教授(九大薬旧制1回同級生)から噂は聞いていたものの,これは大変なことになったと実感したものです.それまでは,深夜まで大型計算機センターで仕事をして,その成果を1年に数報国際的な雑誌に発表すれば辻褄が合う「終わりよければ全て良し」の生活でした.そのような研究生活を送ってきた私にとっては,生活が一変しました.まさに,「途中の過程も大切にする」という息苦しい研究生活になったわけです.

このような研究室ですから,教室に入ってくる学生,院生は一匹狼,個性に満ち溢れた学生,他の研究室の教官に言わせれば「変わり者」ばかりでした.告別式に駆けつけてくれた同門生はその中でも際だった強者ばかりのはずです.

久野先生が開講二十周年記念誌に書かれた文章を,皆さんに紹介し,改めて先生の教えを再確認し感謝の意を表したいと思います.

時の流れの中、出会いは別れのはじめであり,人の世の常であるかも知れないが、私の二十年の歩みのなか、多くの人々に会い、そして明日を約しながら旅立っていった。”三階の窓”に学ぴ、遊ぴ、酒をたのしんだ。昭和45年暮れのことであった。当時4年次生の諸君が同門会を創ってはとの意見を私のところに持ってきた。その頃は未だ紛争の余燼が生々しく残っていたが、薬品製造工学を巣立った者たちの集いとして「三窓会」が生まれた。翌46年1月第1回目の集いがあった。この三階の窓を巣立っていった人たち、あるいは今後も巣立っていこうとする人たち、100名近くになった。これらの人たちは各地に広がって各々の道にいそしんでいる。生きとし生けるものは、幼年、青年、壮年そして成熟し、時を過ぎると必ず衰退して死への過程をたどる。加齢による変化であり自然の流れである。

撒布された種子は一粒ずつ風雪に耐えしっかりと大地に根ざし、逞しく葉を茂らしている。さらにこれらがどのような大樹になるのかは今後の各人の努カによるものであろう。

年毎に巣立ってゆく三窓の同志たちは、良きにつけ、悪しきにつけ、常々相互の連携を密にして成長発展して欲しい。たとえどのような世になったとしても・・・。

同じ窓から楠の巨木をながめ過ごした四季折々の日々。それもまた人生の縁であり、巡り会いである。年々歳々、校庭四季、折々の花が咲き、葉が茂る。しかし三階の窓に学ぷ若者たちは年毎に新たにして、胸ふくらまして飛び立って行く。

「十年一日(じつ)ノ如シ。来ルペキ十年半日ノ如シ」とか。

もう二十年が過ぎた。

卒業後一度も会っていない人もいる。また消息つまぴらかならざる人もいる。気がかり無しと言い切れないものもある.

機会あらぱ教室を訪れて欲しい。元気な姿を見せて欲しい。

学間のみちはまた遥けき、そして人生は短し.

これからもまた雨の日も、風の日も、たがいに励まし合って諸君のこれからの永い道のりを歩いて欲しいとただ祈るだけである、私にとって遅牛(おそうし)の歩くに似た二十年であった。しかし多くの共同者がいてくれ私を支えてくれた。深く感謝している。

長年の宿願であった大学院薬学研究科博士課程の設置が成就し、昭和60年4月から発足した。この博士課程は、従来の薬学研究科修士課程における2専攻(薬剤、製薬専攻)13講座を1専攻(医療薬科学専攻)4大請座にと、全く新しい教育 研究組織に改革改組されている。薬品製造工学講座は大講座の1つ薬品資源学講座に属し、薬品製造工学研究室として新しい教育 研究分野を担当することとなった。そして今年清永君が博士課程後期に進んだ。

昭和26年、製薬第二講座として出発し、薬工の略称で今日まで発展してきた講座の歴史はここに幕を閉じ、社会の要請に答える新しい分野の一歩を力強く踏み出している。教育研究の多様化は目を見はるぱかりである。薬学領域も例外たりえない。薬学の学間的社会的活動範囲は、これまで認識されていた領域よりはるかに広域化している。時の流れはまた四囲を変えると同時に、組織の内部も著しく変貌しており、研究室もまた新しい時代を迎えようとしている。そのなかで教育 研究をどのように展開していくのか、それは一咋年熊薬百年を祝った中に各人各々自己へ問いかげねぱならないことである。

一一1988,9,9一 昭和63年(平成元年出版)

この文章を書かれた数年後,先生は「茶当番」や8時半までに出校し,教授に「朝の挨拶」をする規則を廃止されましたその頃から,「研究室は道場であり,修練の場である」という先生の方針について行けない学生が増えたためでした.

現在,大学は,独立行政法人化を前に効率性を重視した構造改革の嵐の中で右往左往しています.先生が学部長として,大学院博士課程設置の折衝中,文部省視学官に「新制大学の機器設備の不備」を直訴し,大目玉を食らった私もこの文章を書かれた時の先生の年齢を超えました.薬品資源学講座の一研究室であった薬工は平成13年度設置された独立専攻大学院の創薬基盤分子設計学講座に発展し,計算機支援による分子設計を目指し努力していますが,先生が希望しておられたような人と人との協力に支えられた研究環境は未だ実現できていません.今回,開講20周年文集を改めて読み直し,組織改革が問われている今こそ,人と人の関係を大切にする必要があることを再認識した次第です.

73年の人生お疲れさまでした.安らかに眠りについてください. (以上 薬工研のホームページより)


久野先生の似顔絵

九大薬学部の田口先生が1978(昭和53)年に描かれた似顔絵.先生は九大薬学部の旧制1回生,1968(昭和43)年に久光製薬(エアーサロンパスの開発)から熊大薬学部教授に就任.

コンピュータ描画

15年後に届いた21世紀へのメッセージ(2000年の薬工ブログから転載)

明けましておめでとうございます.

皆様には輝かしい西暦2001年をお迎えのことと存じます.本年が躍進の年であることを祈念しております.

薬品製造工学研究室の前教授である久野拓造先生から,15年前の「つくば科学万博」の際に出された「ポストカプセル」が届けられました.1985年(昭和60年)は熊薬100周年記念行事,博士課程設置などがあり,学部長として超多忙の年でした.今年は独立行政法人化を前に,生き残りを賭けた分子機能薬学独立専攻が設置されるなど当時と似た節目の年です.当時これほどの変化は予想しにくい状況でした.これからはもっと短いスパンで変化を読み取る必要がありそうです.

1985年(昭和60)は大学院博士課程設置,熊薬百周年記念事業等,学部長として慌ただしい日々が続いていた.先生はこの時期から定年退職されるまで研究活動から完全に身を引かれた.

研究室での飲酒について

久野研究室では,先生の酒好きということもあり,度々全員で焼酎の水割りと簡単なつまみで歓談した.酒を飲まない私に対して,それなりの意見を言われる他研究室の教員も居られた.中には「飲酒を止めさせるのは貴方の仕事」と言う人もいた.私は4人の教授の下で研究に従事したが,九大研究室でも飲酒することがあり,論文がアメリカ化学会誌に受理された時はシャンパンで祝うこともあった.研究室飲酒を良しとしない教授でも,学生と良好な関係を保つには酒宴は必要と言う人は多いが,「酒を一滴も飲まないで,どうやって学生を集めているの?」と訊く教員もいた.久野先生には,昭和62年末に軽い脳梗塞を起こされた後は禁酒してもらったが,「医者は通常の生活に戻ってよいといった.酒を飲むのは通常の生活」といって家では飲んでおられたようである.矢原助教授が薬草園のカリンを使って作った果実酒を届けるとたいへん喜んでおられたとのことである.

追記(平成15年年始めの研究室ブログから転載)

昨年12月6日,故 久野拓造先生の奥様 雍子様が急逝されました.

故久野先生の長女,古木戸 柚香様のご意向により,ご親族だけのお別れになりました.昨年7月の初盆に,久野先生を知る者でご自宅に線香をあげに伺った時は大変お元気でした.その時,毎年矢原先生が届けてきた薬草園の花梨の実を今年もお届けする約束をしました.「今年は飲むものがいないから,焼酎漬けではなく,砂糖漬けにする」と言っておられましたが,かなわぬこととなってしまいました.

旧薬工出身者の中には,故久野先生と同じくらい奥様にお世話になった方もおられたと聞いております.もっと早くお知らせすべきことと思いましたが,ご長女のご意向にしたがい年が明けるまでここに記載するのを控えました.

資料

三窓 (開講15周年記念 熊本大学薬学部薬品製造工学教室三窓会 昭和58年4月)

三窓(久野拓造教授開講二十周年記念出版 熊本大学薬学部薬品資源学講座 製造製造工学研究室三窓会)

頼まれた熊大生協裁判記録の公開(「和解」の概要について)

久野研実験室で