探求と関心
松田新(北海道大学)
部屋: W309 司会: 久保田琉惟
近年、「探求(inquiry)」の認識論が注目を集めている。本発表の目的は、探求の認識論の中でこれまで見過ごされてきた態度「関心(interest)」に注目し、その哲学的意義を論じることである。私は、対象Oに関心を持つことを、「適切な状況においてOに認知的リソースを投資する動機を持つこと」と定義する。まず発表の前半では、探究しているといえる者とそうでない者の具体的な事例を検討することで、関心を持つことが探究することにとって必要であると論じる。発表の後半では、この議論を踏まえ、私たちが何に関心を持つかは、私たちが何を探求するかを規定するため、規範的に重要であると論じる。本発表は、こうした議論を通じて、関心の本性と規範性についての新たな議論の領域を生み出す。
契約論(contractarianism)とはどのような倫理理論なのか:
「自己利益」の意味を明確化する
高橋泰地(一橋大学)
部屋: W309 司会: 本間哲
現代の社会契約論には大きく分けて、自己利益に注目する「契約論(contractarianism)」と、不偏性に注目する「契約主義(contractualism)」の2つの潮流があるとされる。本発表では、このうち前者の契約論に焦点を当てる。
契約論の特徴づけの細部は論者によって様々だが、契約論が「自己利益に適う協力のルールを特定する理論」として特徴づけられるという点は最低限の合意事項となっているように思われる。だがこのような特徴づけは、「自己利益」の意味を明確に特定していないため、その内実が不明瞭である。この「自己利益」の意味の曖昧さのために、どの要素が契約論にとって本質/オプションなのか、契約論一般の強み・弱みはどこにあるのか、どの論者が契約論に含まれるのか、といった問題を巡って大きな混乱が生じている。最も深刻な混乱は、囚人のジレンマにおける協力の扱いに見られる。契約論はしばしば囚人のジレンマとの関わりで説明されるが、契約論では囚人のジレンマにおける協力を扱えないとの見解も根強く存在するのである。
本発表では、こうした議論の混乱を解消するために、契約論における「自己利益」の内実を特定することで、契約論をより明確に特徴づけることを目指す。結論をあらかじめ述べれば次のようになる。契約論における「自己利益」は、道具的合理性を必ずしも前提としない広い意味で捉えるべきであり、契約論はそのような広い意味での自己利益に適う協力のルールを特定する理論として特徴づけられる。
本発表の議論は次のように進む。まず、契約論のモチベーションは「自発的遵守を引き出すような規範を導くこと」であると確認した上で、契約論で言われる「自己利益」の内実を特定するには、契約論が前提とする行為理論を特定する必要があると論じる。次に、契約論が前提とする行為理論の内実は、どんな実践的合理性の理論を採用するか(より具体的には、道具的合理性に限定するか否か)で決まる、ということを示す。実践的合理性の理論を道具的合理性に限定する場合、囚人のジレンマ状況における協力行動は「自己利益」には適わないということになるが、道具的合理性に限定しない場合、その状況での協力行動は「自己利益」に適うということになる。最後に、契約論が採用する実践的合理性の理論を道具的合理性に限定する理由はないということを示し、契約論で言われる「自己利益」は、(道具的合理性を前提としたものに限定されない)広い意味での自己利益である、と結論づける。
「哲学の進歩とは何か」に実質的に答えるための準備
井川瑠太(北海道大学)
部屋: W309 司会: 松田新
哲学では、哲学という学問分野の認知的な進歩の程度について懸念を抱かれることがある。こうした懸念は歴史的に抱かれてきたものであり、現代でもしばしば言及される。例えばChalmers (2015)は次のように主張する。哲学はこれまで「私たちは外界についてどのように知るか」や「私たちは自由意志をもつか」などといったビッグクエスチョンに取り組んできたが、そうした問いに対する答えへの大規模で集団的な収束は未だになく、だとすると真理への収束もない。それゆえ哲学はあまり進歩しない。
確かにこのような悲観的な診断は、一見するともっともらしいように思えるかもしれない。それでは哲学は進歩しないのだろうか。それともこうした診断は哲学の歴史について誤解をしていて、むしろ支持されるべきなのは、哲学は進歩するという楽観的な診断なのだろうか。このようにして近年、哲学の進歩についての悲観主義と楽観主義とのあいだで論争が繰り広げられてきた。
しかし以上のように問う前に、あるいはそうした問いが意味をなすために、哲学にとって進歩とは何かを考える必要がある。そこで本発表では哲学の進歩の定義を試みる研究を主に扱う。
Dellsén et al. (2022)は、科学の進歩についての主要な四つの見解と、これらのあいだの論争において共有されている枠組みを特定し、それらを哲学の進歩についての論争へ拡張することを提案している。本発表ではこのアプローチを簡潔に擁護する。つまり、哲学と科学の連続性や相違について中立的なまま、科学の進歩についての論争の蓄積を利用できることを示す。次に、このアプローチの下で実質的な見解を提示する上での懸念をいくつか指摘する。こうした懸念によれば、四つの見解をそのまま哲学の進歩に当てはめるのは難しく、修正を加える必要がある。また、考慮すべき見解は四つだけでは不十分である。
参考文献
Chalmers, D. J. (2015). Why isn't there more progress in philosophy?. Philosophy, 90(1), 3-31.
Dellsén, F., Lawler, I., & Norton, J. (2022). Thinking about progress: From science to philosophy. Noûs, 56(4), 814–840.
人形と奇異さの経験
大岡真咲(一橋大学)
部屋: W309 司会: 清水颯
暗闇に置かれた市松人形、ゴミ袋に詰められたぬいぐるみ、ホラー映画に登場するアンティーク人形、あるいは球体関節人形や藁人形を思い浮かべてみる。すると、人形はどこか怖くて、不気味で、奇妙で、ぞっとするような存在に思われてくる。実際、人形がこの種の情動や評価と結びつきやすい存在であるという見方は広く共有されている。さらに、人形という表象は、他の表象と比較しても、こうした奇異さ(strangeness)の経験をとりわけ強く、頻繁に喚起する特異な存在であるとすら考えられているように思われる。
本発表では、美学において整理されてきた諸概念—不気味さ(uncanny)、奇妙さ(weird)、そしてぞっとする(eerie)—の枠組みを手がかりに、人形がもたらす奇異さの経験の特徴を探ることを試みる。まず、マーク・ウィンザー(2019)による不気味さの分析と、リチャード・ストップフォード(2024)による、不気味さや奇妙さとは異なるものとしてのぞっとする経験についての議論を整理し、これらの枠組みが人形に関する経験をどのように記述しうるのかを確認する。そのうえで、人形との関わりにおいて喚起される奇異さが、他の表象において喚起されるものと比べて何らかの特異性を持つのだとすれば、それは人形が備えるどのような特徴に基づくのかを論じる。こうした検討を通じて、本発表では、人形が特定の文脈や条件下においては奇異さを喚起しやすい存在であることは確かであるものの、奇異さそれ自体は人形の本質ではない、ということを明らかにしたい。
参考文献
Stopford, Richard. (2024) “An Analytic of Eeriness”, British Journal of Aesthetics 64 (4): 483-504
Windsor, Mark. (2019) “What is the Uncanny?”, British Journal of Aesthetics 59 (1): 51-65
探求規範と道徳規範の衝突はどのように理解されるべきか
高橋 伸太朗(北海道大学)
部屋: W309 司会: 池田開
本発表は、「探求規範と道徳規範の衝突はどのように理解されるべきか」という問いに取り組む。特に、探求規範の一つであるZetetic Instrumental Principle(ZIP: もし主体Aが問いQを解決すべきならば、AはQの解決のために必要な手段を採用すべきである)と道徳規範が衝突するケースに着目し、先の問いを検討する。たとえば、ある薬の副作用を解明する最も有効な手段が苦痛を伴う治験であるケースや、政治家の不正を暴くための最も有効な手段が盗聴であるようなケースは、ZIPと道徳規範が衝突するケースの一例である。ZIPは探求規範の中でも中心的な役割を果たすものであり、それが道徳規範と衝突する場面をどのように捉えるべきかを明らかにすることは、認識的実践と倫理的実践の調和の可能性を検討する上で重要である。
この種の衝突を理解する立場の例としては、(1) 道徳規範が最終的に優越すると理解する立場、 (2)両者の価値の衝突として理解する立場、 (3)両者の理由の重みの衝突として理解する立場などが考えられる。それぞれの立場には一定の説得力があるが、同時に以下のような問題も抱えている。 (1)は探求規範の規範性を過小評価しており、 (2)は義務論的概念を評価的概念に還元するという論争的な前提に依存している。 (3)は一見有力だが、理由の重みを単一のスケールで比較可能とみなすために、認識的理由と道徳的理由の違いを適切に捉えきれない。
本発表が提案するのは、(3)の立場を発展させたものである。具体的には、Tucker(2025)による Dual Scale モデルを援用しつつ、問題となる衝突を、異なる種類の理由の重みの衝突として理解する立場を擁護する。Dual Scale モデルとは、行為に関する理由の重みを、行為を許容可能なものにする重み(justifying weight)と、行為を要求したり禁止したりする重み(requiring weight)という二つの次元に分けて評価する枠組みである。このモデルの利点は、異なる種類の理由が単一のスケールでは比較できない構造的事情を明らかにしつつ、それでもなお各理由の規範的役割を可視化できる点にある。本発表では、このモデルを探求規範と道徳規範の衝突に応用し、そのような衝突を理解するための出発点を提供することを目指す。
主要参考文献
Tucker, C. (2025). The weight of reasons: A framework for ethics. Oxford University Press.
レヴィナスにおける「享受」の運動と主体性の生成―拒食症の事例を手掛かりに
髙倉真琴(北海道大学)
部屋: W309 司会: 鈴木潤
フランスの哲学者レヴィナス(1906-1995)は、「他者論」の思想家として知られるが、彼の主著『全体性と無限』(1961)の冒頭では、この著作全体の目的が「主体性の擁護」であるとされる。『全体性と無限』において、「主体性の擁護」のためにまず論じられるのが「享受」である。本発表では『全体性と無限』第二部の記述を中心に分析し、この「享受」の構造を明らかにすることで、レヴィナスにおいて「主体性」がどのように成立するのかを考察する。享受の構造は、世界という自身とは他なるものに対して「閉じられつつ開かれる」ものであり、この「享受」の動きこそが主体性を成り立たせていることを主張したい。
本発表ではまず『全体性と無限』の第二部で述べられる「享受」の構造を分析する。この「享受」は思考や目的性に先立って世界と素朴に関わることであり、さらにエゴイズムや幸福として、自分自身だけのための運動であるとされる。その一方で「享受」は「他への依存」としても捉えられる。「享受」のこのような構造をどのように捉えるべきかを考察する。
次にこうした「享受」の中で、どのように主体性が確立されるのかを考察する。「享受」はそこで主体が「立ち上がって」くる契機である。世界に対して「閉じられつつ開かれる」という構造は、2つのうちどちらかの動きが先行するものではなく、双方向の動きそれ自体が主体性として現れてくるものである。このとき閉じることと開かれること、どちらかに偏ってはいけない。その理由について、レヴィナスが主体性を「運動」として捉えていたことから考察する。
さらに、本発表では「享受」と主体性の関係をより具体的に掴むために、「享受」の失敗、という事例を考える。レヴィナスにおいては「享受」の典型として「食べること」が挙げられるが、摂食障害においてはこの「食べること」がままならなくなってしまう。本発表ではこのときどのようなことが起こっているのかを「享受」の構造から分析したい。拒食症の事例を通じて、「閉じられつつ開かれる」という構造が崩壊し享受の運動が停止するとはどのようなことか、そしてそれがなぜ主体性の危機につながるのかが明らかになるだろう。
陰謀論の定義問題に対する概念工学の試み
織田耕大(北海道大学)
部屋: W309 司会: 高橋泰地
本発表では陰謀論の定義問題について、概念が果たす機能に着目する概念工学のアプローチを適用することで解決の糸口を探る。陰謀論の哲学では「陰謀論とは何か」という定義の問題について主に論じられてきた。陰謀論の定義の候補としては、まず反証不可能性や、陰謀の非現実性・不可能性など、何かしらの理論的瑕疵がある説明とする侮蔑的定義(e.g.Uscinski 2019, Popper1972)が挙げられる。他方で、こうした定義に反対し、歴史を振り返ると陰謀は散見される一般的な事実である(Pigden1995)ことから、「ある出来事について陰謀を主たる原因とする説明」(e.g, Dentith2014, Basham2011)のように侮蔑的な要素を排し、中立的に定義するべきという立場が現れる。以降、定義問題はこれら2つの立場に大まかに分かれてどちらの定義がより良いかの論争が繰り広げられている。
近年ではこの定義問題について、概念工学の枠組みを用いて、「陰謀論」概念はどのようにあるべきか、また私たちはどのように用いるべきなのかを論じる研究が増加しつつある(e.g, Napolitano & Reuter2021, Reuter & Baumgartner Forthcoming)。そこで本発表では、機能ベースの概念工学、特に私たちが持つ関心に着目するアプローチを適用し、「陰謀論」概念によって果たしたい関心の特定、およびそれら関心をどう取り扱うかの展望について論じる。
主要参考文献
Dentith, M. R. X. (2014). The philosophy of conspiracy theories. Springer.
Napolitano, M. G., & Reuter, K. (2021). "What is a conspiracy theory?." Erkenntnis, 88(5), 2035-2062.
Queloz, M. (2022). "Function-based conceptual engineering and the authority problem." Mind, 131(524), 1247-1278.
Reuter, K. & Baumgartner, L. (forthcoming). "Conspiracy theories are not theories: Time to rename conspiracy theories." In Manuel Gustavo Isaac, Kevin Scharp & Steffen Koch, New Perspectives on Conceptual Engineering.
制限主義と共感
Xu Chenyi(北海道大学)
部屋: W309 司会: 清水颯
Limitarianismは、近年の政治哲学に登場した新しい分配理論である。Limitarianismによれば、個人が道徳的に保有し得る財には上限が存在し、いかなる者もその上限を超えて財を所有すべきではない。Limitarianists(限度主義者)は、上限を超過した財を徴収し再分配すべきだと主張するが、その再分配の具体的基準や手続についてLimitarianism自体は規範的指針を示さない。これはLimitarianismが完結した分配理論ではなく、部分理論として位置づけられているためであり、Limitarianistsは他の理論と結合して初めて資源配分に関する完全な規範性を得られると考える。
Limitarianismをめぐっては多様な正当化論が提示されてきた。道具的正当化には民主的平等論証や未充足の緊急ニーズ論証が、非道具的正当化には尊厳論証が挙げられる。本発表ではまずLimitarianismの概要と既存の正当化論を概観し、そのうえで「共感」という概念を用いてLimitarianismを新たに正当化することを試みる。本発表における共感の定義は以下のとおりである。
共感
特定の条件下で他者の現在の状態と文脈を観察すると、観察者は同一状況で自らが最初に示した反応よりも他者の経験に近い情動的または認知的反応を喚起できる。この精神状態の部分的収束を通じて、観察者は他者の視点を近似し、あるいは一時的に採用する。
本発表では、Limitarian上限を超える余剰財の保有が①空間的隔絶、②価値観の乖離、③機会平等の阻害という三つの問題を引き起こし、それによって共感の発生を阻害することを論じる。共感が道具的価値と非道具的価値の双方を有することを踏まえるならば、Limitarianismはこれらの問題を緩和し、共感の促進を通じて正当化され得る。
臨床医学研究と基礎医学研究の方法論的な違いとその帰結
佐藤達之(北海道大学)
部屋: W308 司会: 駒田珠希
現代医学の研究には、臨床研究と基礎研究という二つの主要な研究分野がある。本発表では、両者に内在する方法論的な違いを分析し、その差異が基礎研究医の減少や日本の科学力の低下といった社会問題とどのように結びつくかを検討する。
臨床医学研究の代表的手法は、実際の患者を対象にしたランダム化比較試験である。臨床試験の論文では通常、単一の試験結果のみが報告される。また論文要旨の部分では、例えば「治療薬Xを投与された患者群とプラセボ群を比較すると、その生存率に統計学的有意差があった」という結論が示され、この結果に対する著者らの解釈を記載することは必ずしも強くは求められない。すなわち、著者は観察事実を厳密に記述し、主観やバイアスの入り得る解釈を極力排除することを求められる。
それに対して、基礎医学研究の代表的手法は、動物モデルや培養細胞などを用いた実験である。基礎医学論文では、通常一つの論文の中に数多くの実験結果が含まれる。そして論文の中で、著者はそれらのデータを解釈し、その結果として新たな概念や分子の機能に関する理論を提示する。基礎医学の論文要旨で提示される結論は、例えば「分子ZがメカニズムMを介して心機能を改善する」という形をとる。ここでは、個々の実験結果は記述されず、むしろそれらの結果を著者自身がどのように解釈し、そこからどんな結論を導いたか、すなわち自身の考えが記載される。こうした解釈の妥当性は査読の過程で担保されるものの、解釈や理論に踏み込む程度が臨床医学論文よりはるかに大きい。
このように、臨床医学論文と基礎医学論文では、同じ医学論文にもかかわらず、個々の研究者がどの程度自身の解釈や理論を提示するかが大きく異なる。本発表では、こうした違いをさらに分析し、なぜそのような違いが生まれ、またその違いの結果として、医学研究の世界でどのような問題が起きているのかを検討する。
フッサール『算術の哲学』における本来的・非本来的表象の区別について
深尾紘平(北海道大学)
部屋: W309 司会: 鈴木潤
本発表では、フッサールが『算術の哲学』において持ち出す、本来的・非本来的表象の区別を明らかにする。フッサールは『算術の哲学』の序盤でこの区別を提示する。この区別は数の起源についての探究が行われる際に最も基礎的なもののうちの一つであるが、フッサールはこの区別の必要性についてさほど立ち入った説明を与えない。また後半になって与えられるこの区別についての説明は、序盤において与えられているものと同じではなく、むしろやや異なったものとして与えられている。例として、すべての数が本来的に表象されていれば、算術は大して必要のないものになってしまうが、実際そうではないという説明が与えられている。このような説明は、必ずしも数の起源の探究に際してこの区別が必要であることの根拠ではない。全体的に、本来的表象よりも非本来的表象についての説明が多く、本来的表象それ自体についての説明は少ないと言える。そのため本発表では、序盤において与えられているものを含め、『算術の哲学』においてフッサールがこの区別を導入する根拠を整理することで、本来的表象それ自体をより明らかにし、数の起源についての探究に際して最も基礎的であることの根拠を与えることを試みる。
世界2をスタンドポイント層として再構成する
──ポパー三世界論の批判的合理主義を拡張する試み
西村太志(一橋大学)
部屋: W308 司会: 久保田琉惟
本発表の目的は、カール・ポパーの三世界論でやや空白になっている世界2(主観的意識)の中身を、フェミニスト認識論で用いられるスタンドポイント概念で補い直すことである。世界2は「考える主体の領域」として提示されるが、その内部にどのような差異が存在し、どう知識生成に影響するのかについて、ポパー自身は詳しく述べていない。その結果、彼が重視した「立場を超えた批判的対話」の前提条件が十分に説明されないまま残っている。
ここではまず、Boyd(2016)が示した「世界3(客観的知識)は世界2を一定程度方向づける」という指摘を入り口に、世界2を「社会的位置に根差した tacit な評価枠(=スタンドポイント)の寄せ集め」と捉え直す。次に、世界3が理論や価値をとおして世界2に取り込まれる、各スタンドポイントが問題意識を形成する、成果を世界3へ書き戻す、その内容が共通基準で選別されるという四つの段階を簡潔なモデルとして示す。
このモデルを用いると、Harding の「強い客観性」や Longino の四規範(公開批判・応答責任・共有基準・権威の平等)が、ポパーの批判的合理主義と無理なく整合しうることが分かる。具体的には、(1)多様な立場が持ち込む視点が誤り検出を助ける、(2)相対主義に傾きにくい仕組みを世界3が担保する、(3)証言的不正義などのバイアスを制度的に軽減できる、という利点が得られる。
以上を通じて、本発表は世界2を再説明することでポパー三世界論を補強し、現代の多様な共同体でも機能する批判的合理主義の枠組みを提案する。
フッサール的懐疑論の構造とその意義
林成彦(北海道大学)
部屋: W309 司会: 松田新
本発表の目的は、フッサールによって展開された懐疑論の構造を明らかにすることで、認識論におけるフッサール現象学の直観主義の意義を考察するものである。具体的には、フッサール的懐疑論が「何を」「どのような動機から」「どのような仕方で」疑い、それによって「どのような結論」を導くのかを明らかにし、さらにこの懐疑が正確に実行されるならば、いわゆる認識論と呼ばれる哲学的な問題圏に対しては、フッサール現象学が標榜する直観主義こそが有効な手立てであることが明らかとなることを示す。以下では、本発表が上記のような目的を設定する背景を簡単に説明する。
フッサール現象学の理論的変遷に照らすと、本論が扱う懐疑論は初期から中期の間の思索において発展したものである。雑多に大きくまとめるならば、この時期のフッサールの懐疑論は、学的知識の正当性の解明という動機のもとで、認識論的考察と常に呼応している。すなわちフッサールは、認識への懐疑をきっかけに認識体験一般の構造を解明することで、あらゆる学的知識の正当性の根拠を探究しようとする。したがって、フッサールにとってそうした解明の役割を担う現象学は「あらゆる自然的な認識や学問に先立つものであり、自然科学とはまったく異なる線上にある」(XXIV, 176)。
他方で、そうした「第一哲学」的な認識論との決別をその核心とし、認識体験を自然科学によって説明づけようとする哲学的立場もある。哲学的自然主義と呼ばれるその立場を理論的に支えているいくつかの態度決定のうちの一つは、懐疑論に対する次のような理解に基づいている。つまり、認識に対する懐疑は、自然科学的な知識を前提としてはじめて生じてくる問題であるため、自然科学の内部で答えられるべきである(cf. 戸田山, 2002, 176ff, 井頭, 2010, 39)。
両者の間に隔たる大きな違いは、認識に対する懐疑への理解の仕方にあるように思われる。本発表がフッサール的懐疑論の再構成を行う理由は、認識に対する懐疑に対して、自然科学をはじめとした他の学的知識を前提としない仕方で応える可能性を考察するためである。また、そうした再構成によって本発表は、認識体験の解明の際にわれわれが依拠すべき唯一の道具立てが、われわれ自身の現象学的な意味での直観であることを明らかにしたいのである。
参考文献
Husserliana XXIV (1984) : Einlitung in die Logik und Erkenntnistheorie. Vorlesungen 1906/1907. ed. v Mell, Ullrich, 1984.
井頭昌彦(2010) 『多元論的自然主義の可能性-哲学と科学の連続性をどうとらえるか』 新曜社
戸田山和久(2022) 『知識の哲学』 産業図書
「自分の全存在」を賭ける——芸術鑑賞における信頼の危うさについて
松井晴香(無所属)
部屋: W308 司会: 池田開
いまあなたの目の前には、理解に苦しむような芸術作品がある。たとえば、人類には早すぎる抽象絵画や前衛音楽、意味不明な詩。そこであなたは次のように悩むかもしれない——この作品は受け手に伝わるような表現ができていない、つたない作品なのだろうか。それとも、作り手には作り手の考えがあったのであり、受け手である自分は作り手を信じて、この作品ともっと真摯に向き合うべきなのだろうか。つまり、自分はこの作品の作り手を信頼すべきなのだろうか。
幾人かの論者たちによると、芸術鑑賞、特に理解しがたい作品の鑑賞は、作り手に対して受け手が抱く信頼に導かれることがある(Nguyen 2021; Abrahams & Kemp 2022; Collins & Jovanović 2023)。理解しがたい作品を前にした受け手は、その作品を鑑賞に報いないものとみなし、鑑賞をやめてしまうこともできる。しかし、それでもなお受け手が作品を鑑賞し続けるとき、それは受け手が作り手を信頼しているからだと考えられる。すなわち、一見どんなに理解しがたい作品であっても、作り手は己の美的配慮に誠実に従ったはずであり、そうであるかぎりでこの作品は鑑賞に値するはずだ、という信頼だ。
以上の議論に呈される懸念のひとつに、〈受け手が作り手に寄せる信頼は裏切られうるのだから、信頼がかえって作品鑑賞を誤らせることもあるのではないか〉というものがある。たとえば、実際は信頼に値しない作り手が信頼されてしまうと、その作り手の作品が過大評価されることになりかねない。こうした懸念に対して、たとえばDavid CollinsとIris Vidmar Jovanovićは、〈受け手が抱く信頼は、作品を鑑賞するための作業仮説にすぎない〉と応答している(Collins & Jovanović 2023)。ひとたび作品が鑑賞に報いないとわかれば、作り手に対する信頼は弱められうる。受け手は作り手に全幅の信頼を寄せているわけではなく、作品を鑑賞するための仮の足場として、作り手をひとまず信頼しているにすぎない。
こうした応答はもっともなものである一方、芸術鑑賞において信頼が果たす役割の一面をしか捉えていない。信頼の哲学において認められているように、信頼には裏切りに対する脆弱さ(vulnerability)がつきものであり、このことは信頼にもとづく芸術鑑賞においても変わらないからだ。理解しがたい作品を受け入れるとき、受け手はあえて作り手を信頼しようと決め、〈作品を鑑賞するために自分が払う労力はひょっとすると報われないかもしれない〉というリスクに自らをさらしている。本発表は、信頼につきまとう脆弱さもまた芸術鑑賞にとって重要であると論じることで、上記の懸念をむしろすすんで引き受けよう。
道徳理論における害の概念の必要性
本間哲(一橋大学)
部屋: W309 司会: 平岡太郎
害(harm)という概念は、道徳哲学において重要な役割を果たしている。例えば、J. S. Millの危害原理によれば、国家が個人の行為に干渉してよいのは、その行為が他の誰かを害する場合のみである。あるいは、無危害原則によれば、医療従事者は患者を害してはならないとされる。しかし、B. Bradley (2012) は、害についての代表的な見解がどれも問題含みであるということと、害の概念を他の概念に置き換えることができるということから、害の概念を道徳理論から排除すべきだ、と主張している。以下で触れるA. Follandにならって、この主張を排除テーゼ(elimination thesis)と呼ぶことにしよう。本発表の目的は、排除テーゼを擁護することである。
はじめに、Folland (2025) による排除テーゼに対する批判を検討する。特に、次の二つのことを指摘したい。第一に、Follandの主張に反して、害の概念を道徳理論に残しておくことにはやはり問題がある。第二に、〈害の概念を複数の異なる概念によって置き換える〉という方針に対するFollandの批判は不十分であり、この方針で排除テーゼを擁護することは可能である。次に、〈害の概念を複数の異なる概念によって置き換える〉という方針の具体的な展開について検討する。まず、複数の道徳原理を例にとり、害の概念に期待されている役割が原理ごとに異なっている、ということを確認する。そのうえで、それぞれの原理について、害の概念と置き換えるべき他の概念を提案したい。また、以上の議論に対してありうる反論について検討し、応答を提示する。
参考文献
Bradley, B. 2012. “Doing Away with Harm.” Philosophy and Phenomenological Research, 85 (2): 390–412.
Folland, A. 2025. “Doing Away with Skepticism about Harm.” Ethical Theory and Moral Practice, 28 (1): 93–110.
現状の認識的不正義対策の不足に対する指摘と新たなアプローチの考案
—Suicidismを手掛かりに—
河村菜那(北海道大学)
部屋: W309 司会: 駒田珠希
本発表においては、Suicidismを手掛かりに、認識的不正義に対する現状の対抗策の不足を指摘し、新たな対抗策としてBarnes[2016]の提案するプライド運動の可能性を検討する。
認識的不正義議論[Fricker 2007]の興隆は、差別や偏見に関する様々な問題の哲学的洞察を可能にした。自殺志願者はこれまで、同意のない身体拘束から主体的経験の軽視、自殺志願者=「病んでいる」という偏見の押し付けまで多岐にわたる抑圧を被ってきたが、それを概念化する言葉は存在しなかった。その中で、自殺志願者が被る認識的不正義としてSuicidismという概念が誕生した[Baril 2017]。Fricker [2007]の認識的不正義は二種類あり、一つ目が人種や性別への偏見ゆえに当人の証言が信頼されない証言的不正義である。二つ目は当人の経験を理解するための概念や枠組みの不足によって生じる解釈的不正義である。例えば、自殺志願者の証言を医療従事者の知識よりも劣るとみなして棄却することは証言的不正義であり、Suicidismという概念が知られていない日本において自殺志願者がSuicidismの被害を適切に認識できないことは解釈的不正義である。
現状の認識的不正義に対する主要なアプローチは、Fricker[2007]が提案する徳アプローチと、Anderson[2012]の提案する構造的アプローチの二種類がある。徳アプローチは、自身の信用性判断を常に反省的に思考し、保持している偏見を中和するという方法を取る。一方、構造的アプローチは、個人ではなく社会が引き起こす認識的不正義に対処すべく、アファーマティブアクション等の社会制度の改革を推進する方法である。
しかし、これらのどちらのアプローチであってもSuicidismへの対処は難しい。それは、Suicidismが問題としてほとんど認識されていないため、徳アプローチでは偏見のありかが分かりづらく反省が難しいという問題があり、構造的アプローチも制度改革推進するための動機付けが困難だからである。本発表では、Suicidismの主な要因が、Suicidismに関する解釈的資源の不足にあると指摘する。その上で、解釈的資源を速やかに、かつ十分にいきわたらせるためのアプローチとして、Barnes[2016]の身体障碍者のためのプライド運動を検討する。
生物的目的に根差した予測処理の限界
菅野裕暉(北海道大学)
部屋: W309 司会: 榊原英徹
予測処理は近年心の哲学において盛んに論じられるトピックの一つである。この予測処理に基づけば、知覚や行為、情動、学習などは、すべて予測誤差の最小化によって説明される。すなわち、我々が「生物」であることを担保する状態である「予測誤差(自由エネルギー)の最小化」から、それを達成する流れのなかで、知覚(すなわち予測(仮説)の変化によって予測誤差を最小化して生物性を維持する)や行為(すなわち外界に働きかけることによって予測誤差を最小化して生物性を維持する)が現れてくる。この生物的目的(生物性の維持)の観点に基づく予測処理を、「生物的目的に根差した予測処理」と呼びたい。しかし、我々がなすことすべてが(完全に)生物的目的に由来するとは考えられない。個人(生物)ではなく、社会文化集団の維持を目的とした行為や情動を容易に想像することが可能である。そこで本発表では、例えば社会的行為や社会的情動を具体例にしつつ、この生物的目的に根差した予測処理の限界を明らかにしたい。この試みがうまくいくならば、予測処理が社会的文化的行為や情動を説明する際の、新たな扉が開かれるだろう。
相互作用としての計算と論理─ルディクスを題材に
鈴木潤(北海道大学)
部屋: W309 司会: 平岡太郎
論理学的な証明とコンピュータ・プログラムの計算には、密接な対応関係があることが知られている。この対応関係のおかげで、証明からプログラムを引き出したり、プログラムの体系から対応する論理体系を考えたりすることができる。こうした関係のうち最もよく知られたカリー=ハワード同型対応は、自然演繹の証明図を入力から出力への計算を与えるプログラムとみなす。
対して本発表では、計算について、入力から出力を与えるものでなく、2つのエージェントの間の相互作用とする見方を紹介する。これはフランスの論理学者ジャン=イヴ・ジラールの様々な理論にパターンとして現れるものである。相互作用的な計算の特徴としては、エージェント同士の間のみで行われるため、入力から出力への計算と異なり、外から計算をしてくれるプログラムが必要ないという点がある。
では相互作用的な計算からはどのように対応する論理を導き出せるだろうか。相互作用としての計算と論理を具体化した理論に、ジラールのルディクス(Girard 2001)がある。これは、エージェント間の相互作用に当たるものをプリミティブとし、そこから論理式や証明を定義する、という理論である。よってエージェントたちの外から計算を定める必要がない。入力から出力への計算とそれに対応する論理では論理式や証明を定義してから計算が定まるが、相互作用としての計算と論理ではその反対の道筋を辿る。
本発表では、まず自然演繹やシークエント計算といった証明体系を丁寧に導入し、それがどのようにコンピュータ・プログラムと対応するかを解説する。自然演繹は入力から出力への計算と相性が良く、シークエント計算は相互作用的な計算をとらえることができる。続いてルディクスを簡易化した理論を導入し、相互作用的な計算がどのように論理式などの概念を導くかを見る。最後に、これらが持つ言語哲学への含意に触れる。相互作用としての計算と論理からは、意味は規則によって決まるのでなく、対話や討論のなかで形成される、という言語観が得られる。
〈べし〉には二つの顔がある――当為か?評価か?
池田開(一橋大学)
部屋: W308 司会: 本間哲
倫理学においては、評価的(evaluate)であることと当為的(deontic)であることはしばしば区別される。多くの場合、〈善さ〉や〈価値〉が評価的概念の代表として、〈正しさ〉や〈べし ought〉が当為的概念の代表としてとりあげられる。本発表では、このうち〈べし〉が当為的概念でしかないのかを批判的に検討する。
具体的には、「Sはφすべきである(S ought to φ)」という表現が、常に行為を要請する当為的意味をもつと見なす立場に対し、それとは異なる、評価的な読みを許す用法が実際には存在することを論じる。たとえば「東山は宝くじに当選すべきだ」や「オルガ・イツカは生きるべきだ」といった文では、発話者が誰かに何かをすぐさま行為として要求しているわけではない。こうした文は、〈そうあるのが望ましい・理想的だ〉といった評価的な意味をもつと理解できる。
この観点から、本発表では〈べし〉における意味の多義性、すなわち当為的用法と評価的用法の区別可能性を、意味論的・語用論的観点から整理する。とくに近年のoughtの意味論をめぐる議論(e.g., Schroeder 2011; Cariani 2013; Finlay 2014; Chrisman 2016)を参照しつつ、行為当為と事態評価という観点からこの多義性が体系的に捉えられることを示す。
本発表は、規範的判断の役割と意味をめぐる議論に資するだけでなく、内在主義・外在主義といったメタ倫理的立場の区別にも示唆を与えるものである。
参考文献
Cariani, P. (2013). ‘Ought’ and resolution semantics. Noûs, 47(3), 534–558.
Chrisman, M. (2016). The meaning of ‘ought’: Beyond descriptivism and expressivism in metaethics. Oxford University Press.
Finlay, S. (2014). Confusion of tongues: A theory of normative language. Oxford University Press.
Schroeder, M. (2010). Ought, agents, and actions. Philosophical Review, 119(3), 1–41.
LLMの動物擁護助言を受け入れるべきか?
竹下昌志(名古屋大学)
部屋: W309 司会: 清水颯
本発表では、大規模言語モデル(LLM)は動物倫理学に関して、私達人間より優れた認識的地位をもっているので、私達にはLLMの動物擁護的助言を受け入れるべき理由があるということを擁護する。理由は2つある。第一に、LLMは肉食者ではなく、人間でもないので、様々なバイアスや偏見に悩まされない可能性が高い。例えば肉食者は、自身の肉食行為を維持し続けることに利益を持っており、非ヒト動物が道徳的地位をもち、苦しみを感じるということに抵抗することが心理学実験によって示唆されている。また人間であれば内集団贔屓によって非ヒト動物を冷遇する傾向にあるが、LLMは肉食者でも人間でもないため、こうした偏見に悩まされない可能性が高い。第二に、LLMは多数の動物倫理学や生物学等の論文を学習しているため、通常の人間、ひいてはいずれかの分野の専門家より優れた知識を持ってる可能性が高い。したがって、LLMは、動物倫理学的問題に関して人間より優れた認識的地位を持っている。本発表後半では、二つの潜在的反論を検討する。
第一の懸念は、LLM自体が種差別的バイアスを内包しているという問題である。実際に、一部の研究(Hagendorff et al. 2023; Takeshita & Rzepka 2025)は、LLMが種差別的な応答を生成する可能性を示している。しかし、この懸念は決定的なものではない。LLMのバイアスは技術的に修正可能であるため、既存のバイアス軽減技術を適用することで、そのバイアスは大幅に軽減されうる。他方で人間の種差別バイアスを軽減することは困難であるため、LLMの種差別バイアスを軽減し、その助言に従うことが実践的により望ましいだろう。
第二の懸念は、LLMの助言に従う行為は、行為者の理解を伴わないため道徳的に無価値であるという批判である。この点を認めたとしても、二つの反論が可能である。第一に、現代のLLMは結論だけでなく、その理由や根拠を詳細に説明する能力を持つため、ユーザーの理解を深めることができる。第二に、そもそも人々の種差別的なデフォルトの信念自体が、証拠の回避や不都合な情報の自己正当化に支えられており、その点で人々の種差別的行為が「理解」に基づいているとは言い難いため、LLMの助言に従った理解なき行為と違いはない。
以上より、LLMの動物擁護的助言に従うべき理由がある。
なぜ私は真理を求めるのか?ー達成としての真理探究ー
駒田珠希(北海道大学)
部屋: W308 司会: 久保田琉惟
本発表では、「なぜ私たちは真理を求めるべきなのか」という問いに対する一つの応答を提案する。私たちは日常的に、偽ではなく真なることを信じ、語るべきだと考えているように見える。しかし、私たちはなぜ真理にこだわるのだろうか。真理の価値に関する従来の代表的な立場は、真理が目的達成に資するという点で道具的価値をもつとするものと、それ自体に内在的価値があるとするものである。
これに対してWrenn(2010, 2017, 2023)は、真理それ自体には価値はないと主張し、むしろ「真理を求めること」は道徳的に望ましい態度、すなわち徳であると論じる。本発表はこの立場を踏まえつつ、真理それ自体ではなく、それを獲得しようとする過程に価値があるという観点を提示する。すなわち、真理の探究は困難を伴う一種の達成(achievement)であり、達成には内在的価値があるとする立場(Bradford, 2012, 2022)を援用する。私たちが真理を求めるべきなのは、真理それ自体の価値ゆえではなく、真理探究という営みの中に見出される価値ゆえである。
このように、本発表は、真理それ自体に価値を仮定することなく、真理探究の営みに注目することによって、私たちが真理を重視する理由をあらためて問い直すことを目的とする。
LLMはどれくらい言語研究に役立つのか
本田茜吏(無所属)
部屋: W309 司会: 平岡太郎
近年の大規模言語モデル(LLM)の急速な進展を背景に、言語研究の分野ではこれらモデルの学術的・理論的意義をめぐる議論が活発化している。代表的な論者であるPiantadosi (2023)は、LLMが人間の言語活動を高精度で予測できる点に基づいて、LLMは真の言語理論であると論じ、さらには、LLMがこれまで言語学で支配的だった生成文法に取って代わるという、挑発的な主張もしている。その一方で、Kodner et al (2023)など、LLMと人間による言語習得プロセスの違いやLLMが持つ内部メカニズムの解釈の困難さを根拠に、こうした主張を批判する論者もいる。
本発表は、LLMの言語学的意義を擁護する主張の範囲を制限することで、こうした陣営へ反論する。まず、本発表は既存の言語研究を探求対象・方法論の観点からいくつかの研究プログラムへ分類する。その上で、一部のプログラムにおいては、擁護派によってこれまで主張されてきたLLMの利点が活きないと論じる。鍵となるのは、生成文法家を中心に採用されてきた、コンピテンスとパフォーマンスの区別である。大雑把にいえば、コンピテンスは母語話者が持つ言語知識を指し、パフォーマンスはコンピテンスを適用した結果生じる実際の言語使用を指す。この区別を強く取るか弱くとらないか、あるいはそもそも採用しない、といった立場の違いに応じて、LLMがもたらす意義も異なると主張する。
(参考文献)
Kodner, J., Payne, S., & Heinz, J. (2023). Why linguistics will thrive in the 21st century: A reply to Piantadosi (2023). arXiv. https://doi.org/10.48550/arXiv.2308.03228
Piantadosi, S. (2023). Modern language models refute Chomsky’s approach to language. Lingbuzz Preprint. arXiv. https://lingbuzz.net/lingbuzz/007180.
美的理由に関する快楽説を立て直す
原虎太郎(一橋大学)
部屋: W308 司会: 榊原英徹
本発表は、美的理由の源泉に関する快楽説を、主要な批判から擁護する。
公園に咲く桜の花の可憐さは、私が足を止めてそれを眺める理由をうむ。絵画の力強さは、コレクターがそれを手に入れる理由を与える。このように、可憐さや力強さといった美的価値は、行為の理由を与える。こうした理由は「美的理由」と呼ばれる。
だが、美的価値はどのような仕方で美的理由の源泉になるのか。快楽説と呼ばれる見解は、美的価値と美的理由とを橋渡しするのは快だと答える。例えば、単純な快楽説は〈Aさんにはφする美的理由がある〉という事態は〈Aがφすることによって、当人が快を享受できる〉ということから説明されると主張する。より洗練された快楽説は、これを〈Aがφすることによって、Aが理想的鑑賞者であれば、快を享受できる〉ということから説明されると考える。
快楽説は美学の伝統において支配的な見解であったが、最近では深刻な批判がいくつか突きつけられている。第一に、単純な快楽説は美的理由をあまりに人それぞれのものにしてしまう。例えば、単純な快楽説からは、〈快の感得傾向次第で人は《モナ・リザ》を犠牲にしてでも素人の落書きを大切に保存する美的理由を持つ〉というような受け入れ難い含意が生じる。第二に、前述の問題を回避できる洗練された美的快楽説は、理想的鑑賞者という概念に訴えることで美的理由をあまりに普遍的なものとみなし、美的な理由は多様な社会実践と結びついているという事実を捉え損ねてしまう。
以上の問題を解決するため、本発表は〈快は、主体がそれを享受する理由の源泉となるだけでなく、それを他者に与える理由の源泉にもなる〉という発想に訴える。一般に、快は、それを享受する賢慮的理由と、それを他者に与える道徳的理由の双方を基礎づける。同様に、美的理由には「自己志向の美的理由」だけでなく「他者志向の美的理由」もあるとみなせば良い、というのが本発表の提案である。
他者志向の美的理由の存在を認めることで、快楽説は、美的理由の生成における社会実践の役割を強調するネットワーク説のアイデアを部分的に流用できる。それにより、理想的鑑賞者の概念を持ち込むことなしに——すなわち、美的理由の普遍性を過度に強調することなしに——、人はしばしば自らの快を犠牲にして振る舞う理由を持つという観察を説明することができる。
こうした本発表の議論は、ネットワーク説という主要な論敵の議論を部分的に採用しつつも、快に美的理由の源泉としての役割を認めることを維持するという、快楽説の新たな可能性を示すものである。
「規則に従うこと」をすること
飯川遥(一橋大学)
部屋: W309 司会: 高橋泰地
《規則の正しい適用はその都度取り決められる》という規則遵守に関する根元的規約主義は規則のパラドックスに対する応答のひとつだが、明らかに様々な問題を孕んでおり、思弁的な考察の域を出ていない。たとえば、取り決められた適用が誤りである可能性が確保できないことや、直観的に言って、私たちが規則遵守においていちいち取り決めを行っているとは思えないといったことは代表的な問題だろう。本発表では、このふたつの問題に関して、規則遵守の実例に基づいて次の2つの論点を提示し、根元的規約主義を部分的に擁護することを試みる。第一に、規則の適用は、誤りであるかどうかに関わらず、規則の適用であるというまさにその理由によって、規範的機能を果たす。たとえば、サッカーにおいて、明白な誤審であっても、審判の判断が一度下されれば、そのゲーム内においてはそれが規則の適用としての機能を果たす。第二に、規則の適用の正否がまさに問題になるケースにおいては、規則の適用は予め決まっているのではなく、むしろ協同的に達成される。本発表では、裁判員裁判の模擬裁判において、犯情(犯罪自体の軽重やその意思決定過程が非難に値する程度を決める事情)と一般情状(それ以外の事情)の区別が問題になった場面について検討する。
美的生活に潜む悪徳:徳美学の視座から
昆佐央理(北海道大学)
部屋: W308 司会: 榊原英徹
美的悪徳に関する研究は、Kieran (2010)による「美的スノッブ」の議論を契機として注目を集め始めたと言える。近年では、徳倫理学や徳認識論の流れを継承する徳美学の台頭に伴い、美的悪徳を有する主体に関する考察も徐々に展開されつつある(e.g. Ransom 2019)。例えば、Roberts (2018)は、徳認識論における二つの主要なアプローチ、主体の能力特性に焦点を当てる信頼性主義と、性格特性を重視する責任主義にならい、美的徳や美的悪徳を能力と性格の双方の観点から分析することを提案している。美的悪徳を有する主体の具体例としては前述のスノッブがあげられる。スノッブとは、美的な要因以外に左右された判断を行い、社会的優越性などの獲得を目的として美的実践に関与する主体を指す (e.g. Kieran 2010; Patridge 2018, 2023)。Robertsの枠組みによれば、スノッブのような主体の美的悪徳は、判断の根拠を美的外の要因に置くという能力の問題と、社会的優越性などを動機とする性格的傾向の双方に起因すると考えられる。
本発表では、美的悪徳を持つ主体を、美的実践への関与の仕方に応じて「能動型」と「受動型」の二つに分類し、その分析を通じて美的悪徳の輪郭をより明確に描き出すことを試みる。例えば、スノッブは美的実践に積極的に関与する点で能動型の主体と見なせる。一方、Ransom (2019)が論じる「シープ(sheep)」は、美的対象への関心が希薄で、流行に従って受動的に美的実践に参加する主体であり、受動型に分類されるだろう。本発表は、スノッブやシープといった美的悪徳の類型を検討することで、美的生活に潜む悪徳の在り方を明らかにすることを目的とする。