第二回 北大・一橋合同研究会の要旨集です。pdf版はこちら。
2024年度運営委員一同作成。本研究会は科研費(24K00002)、および(24H00076)の支援を受けたものです。
しばしば、人生は物語に喩えられる。人を喰う鬼との戦いを描いた漫画『鬼滅の刃』を例に取ろう。その最終話は、それまでに描かれた主人公たちと鬼たちとの戦いに、語り手が思いを馳せるシーンから始まる。「人の人生は物語だから。僕の人生は、僕が主人公の僕だけの物語。百年前も二百年前も、千年前だって、人の数だけ物語があったんだ」(句読点筆者、吾峠 2020: 195-6)。もちろん、『鬼滅の刃』はそれ自体主人公・竈門(かまど)炭治郎(たんじろう)の人生についての物語なわけだが、ここで語り手はそういうことを言っているわけではなく、〈炭治郎を含むすべての人の人生は物語に喩えられる〉と言っているのだ。本発表で検討したいのは、このような人生と物語との類比性によって〈人生の意味 meaning in life〉という概念を説明しようとする、〈物語主義 narrativism〉と呼ばれる見解についてである。
人生の意味とは何かについての合意は未だに形成されていないが、本発表ではこれを〈幸福とは区別される種類の主体にとっての価値〉として扱う。たとえば、鬼に脅えずに済む人々の暮らしを守るため戦い続けた炭治郎の人生は、その苦痛と困難を考えれば必ずしも幸福だったとは言えないだろう。それでも、鬼との戦いの日々は炭治郎にとって大きな意味をもつとは言えるはずである。物語主義者は、このように説明される人生の意味と物語が何かしらの仕方で関わると主張する。
しかし、そもそも人生の意味という概念が明確にはイメージしにくいものであるにもかかわらず、さらにそれを〈人生は物語だ〉という比喩に訴えて説明することから、物語主義的議論は見通しが良いとは言い難い。そうした状況を踏まえて、本発表は以下2点を目標とする。第一に、物語主義の説明項である〈物語〉と、被説明項である〈人生の意味〉という概念について整理する。そうすることで、物語主義の全体像が見えやすくなるはずだ。第二に、既存の物語主義的見解の主張を確認・評価した上で、それらに代わるより説得的な理論を提案したい。
本発表の流れは以下の通りだ。まず、〈物語〉と〈人生の意味〉の概念について整理する(第2節)。それによって、物語主義は理論的にはストーリー説・語り説・物語説という三つの立場に分けられることが明らかになる。この枠組みにおいて、既存の物語主義的見解はストーリー説と語り説に分類されるので、まずはストーリー説について(第3節)、次いで語り説について(第4節)検討しよう。本発表の議論が正しければ、これらはいずれも人生の意味に関する重要な側面を捉えているものの、克服されるべき課題も抱えている。そこで、最後にそれらの課題を乗り越えた代替理論として物語説を提示する(第5節)。
参考文献
吾峠呼世晴,2020,『鬼滅の刃』23巻,集英社
カントの徳の理論では、有徳な人とは義務を果たし、理性によって欲求と感情を制御する者のことである(cf. 06: 394, 408)。実際、カントは徳を「意志の強さ」(06: 394)と定義し、「自己支配」や「道徳的アパテイア」(06: 408)という概念で説明している。しかし、もし本当に有徳な人であれば、自分の感情を抑えて粛々と義務を果たすのではなく、むしろ自分から進んで善い行為を行うのではないだろうか?たとえばシラーは、有徳な人の心の状態は理性による感情の支配ではなく、むしろ「理性と感性の調和」であると主張してカントを批判する。シラーによれば、この調和によって、有徳な人は明るく快活な心で道徳的に善い行為を行うことができるという。カントにはこの視点が欠けているのだろうか。
カントは『たんなる理性の限界内の宗教』において、シラーの批判に答えている。カントによれば、有徳な人の心構えの徴は、「義務を遵守する際の快活な心(06: 24)」である。この考えは、『道徳の形而上学』第二部「徳論の形而上学的基礎」においてさらに展開され、有徳な人が目指すべき心構えの一つは「快活さ」であると明言される(06: 484)。さらに、カントは徳の報酬としての「道徳的快」にも言及する(06: 391)。しかしこれは、カントがシラーのように、有徳な人はつねに苦悩を伴わず明るく快活であり、感性と理性が調和しうると考えていたことを意味するものではない。有徳な人の心を快活にする原因やメカニズムが根本的に異なるのである。
では、カント的な観点からすると、有徳な人にとって、快活さや喜びといった肯定的な感情の源泉は何なのだろうか。この問題を解決するために、本発表では、「理性的感情」と呼ばれる特殊な感情のカテゴリーに注目する。理性的感情とは、感性的苦痛を媒介として理性によって生み出される感情であり、外的刺激によって自然かつ生理的に誘発される感情とは異なる。この概念は、有徳な人の肯定的な感情を解明するのに役立つ。本発表では、このような理性的感情が、カントの徳論が描いている有徳な人の心を明るく快活にすることを可能にしていると解釈する。すなわち、カント的な有徳な人は、道徳的な決意によって苦痛を感性的に経験するが、理性的な反省によって道徳的な快が後続するのであり、その快こそが徳の徴となるのである。したがって、カントの徳論はむしろ、苦痛を経験せずに有徳な行為を自然に望むことはできないという人間の有限性を強調している。それにもかかわらず、カントは有徳な人は快活であると主張する理由は、もし徳が強制的な苦役としてのみ行われるのであれば、人は徳の実践を敬遠してしまうということにすぎないのだ。
カントからの引用は、慣例に従って、アカデミー版カント全集に基づいて巻数とページ数を記した。
私たちの日常生活において〈理由〉という概念は重要である。例えば、「どうしてあのお婆さんを助けたのか」と問われれば、「あのお婆さんが具合悪そうにしていたからだよ」というように答えるだろう。このように、〈〜だから(because ~)〉という語を用いて理由を提示することで、自らの行為を説明することがある。またこのとき、理由に導かれて、私たちは行為をしたとも言えるだろう。先の例では、《お婆さんの具合が悪そうだ》という理由が、《お婆さんを助ける》という行為を導いたと言える。
では、このうち後者の〈理由が行為を導く〉ということは、正確には理由のどのような役割なのだろうか。現在に至るまで、多くの哲学者たちは、この行為を導く理由のことを〈動機づけ理由〉と呼び、様々な論争を繰り広げてきた。その中でも、動機づけ理由とは心的状態なのか、否か、という動機づけ理由の存在論的身分に関わる論争が中心的に扱われてきた。先の例を用いて説明すれば、お婆さんを助けた理由は、《お婆さんの具合が悪いと信じていた》という心的状態なのか、それとも、《お婆さんの具合が悪い》という世界の状態なのか、という論争である。しかし、この理由の存在論的身分に関わる論争は、正確には何を争点とした論争なのかを把握することは難しい。
そこで、本発表は、前理論的な出発点から始めて、動機づけ理由という概念がどのように使用されてきたのかを明らかにすることで、理由の存在論的身分に関わる論争の見通しをよくすることを目的とする。ここでの前理論的な出発点とは、〈〜だから(because ~)〉という語が理由説明において用いられている、という点である。本発表では、〈〜だから〉を用いた説明は何を目的として行われる説明なのか、という点に着目して、心理主義と反心理主義がどのように〈動機づけ理由〉という概念を使用しているのかを明らかにする。このとき、〈〜だから〉が用いられる場面の多様性と、〈動機づけ〉という語の多義性・曖昧さによって、論者が何を重視しているのかが異なり、さらには、前理論的な〈動機づけ理由〉の特徴づけが異なってくる、ということを指摘する。つまり心理主義と反心理主義の相違は、動機づけ理由が複数の異なる役割を果たしうるところから来ており、その複数の役割のうちのどの部分を基軸に理論化しようとしているかによる相違だ、と指摘する。ここで明らかになるのは、心理主義と反心理主義の前理論的な出発点は、同じだったのにも関わらず、その目指すものが異なっていたために、〈動機づけ理由〉という概念を異なる仕方で用いていた、ということである。
本発表の心理主義と反心理主義にまつわる整理が成功していれば、同一事例において両者は異なるものを特定して動機づけ理由と呼んでいたことが明らかになる。加えて、この整理から自然に存在論的身分が異なることも説明できることになるだろう。
私たちの社会には様々な関係性がある。家族、知り合い、友情関係、恋愛関係など、様々な関係性のあり方がある。このような人間関係はどのように説明されるだろうか。本発表では、このような人間関係は、そこに成り立つ共有規範という観点から説明される、という共有規範説を提示する。またこの共有規範説を論じるにあたり、本発表では特に友情関係をケーススタディとする。
共有規範説とは、ある関係を特定の関係にしているものは、その関係の間で成り立っている特別な共有規範である、という考えである(cf. Phelan 2023)。ここで共有規範とは、互いに共有された自己強化的な期待のクラスターである。例えばAはBから誕生日を祝ってもらうことを期待しており、Bもそれを知っていて、互いにそれが望ましいと考えているとき、ここには共有規範がある。この特別な共有規範は、道徳のように社会の成員一般と共有されているものではない。
本発表では共有規範説に基づき友情関係を説明する。まず、友情関係の哲学理論が満たすべき基準を提示する。友情関係の理論は第一に、友情関係とそうでない関係の区別を適切に説明しなければならない。また、友情関係の哲学において多大な影響があるアリストテレスの提示した構想(有用性、快楽、徳の友情)(アリストテレス 2015)について説明できるのが望ましい。また通常友情関係に関連するとされる様々な特性、例えば、互恵性、共感、共有活動への従事、特別な義務など(Ryland 2021)を説明できることが望ましい。共有規範説がこれらの満たすべき基準をどのように満たすかを論じる。
本発表では次に、このような満たすべき基準を超えて、この理論が様々な友情関係を包摂できることを論じる。既存の多くの哲学の文献では、真の友情関係というものが想定され、それが限定的に論じられてきた。例えばオンラインの人間、犬などの非ヒト動物との友情関係は真の友情関係たり得ないとされることがある。本発表ではこうした存在との友情関係がありうると言えることを擁護する。
最後に、共有規範説が友情関係に限定されない理論であることを論じ、関係性の一般理論としての共有規範説の試案を提示する。
参考文献
アリストテレス. (2015). 『ニコマコス倫理学』[渡辺邦夫&立花幸司訳]. 光文社.
Phelan, M. (2023). Rethinking friendship. Inquiry, 66(5), 757-772.
Ryland, H. (2021). It’s friendship, Jim, but not as we know it: A degrees-of-friendship view of human–robot friendships. Minds and Machines, 31(3), 377-393.
本発表は、道徳的合理主義(Moral Rationalism)に反対する議論のひとつである、デイヴィド・コップの懐疑論について検討するものである。
道徳、賢慮、美、エチケットなどの規範的観点について、それぞれの観点における要求が衝突している状況を考えよう。例えば、私の手元に1万円があるとして、道徳はそれを慈善団体に寄付することを要求しているが、賢慮はそれを使ってちょっと良いレストランに行くことを要求しており、(美的義務があるとして)美はそれで演劇のチケットを買うことを要求しており云々、といった状況である。このような状況において、なぜ私は道徳の要求にこそ従わなければならないのだろうか。
Why Be Moral? 問題と呼ばれるこの問題に対する肯定的な解答のひとつに、道徳の要求に従うことは理性それ自体(Reason-as-such)の要求であるからだ、というものがある。この解答によれば、道徳の要求に従うことは、端的にすべき(ought simpliciter)ことなのである。本発表では、このような解答をする立場に限って、道徳的合理主義と呼ぶことにする。
道徳的合理主義については様々な論点をめぐって議論があるが、本発表では、コップが提示した、道徳的合理主義を否定する一つの道筋にだけ注目したい。コップによれば、端的にすべきことを命じる理性それ自体は、その他のいかなる規範的観点よりも重要な規範的観点、すなわち至高的(supreme)な規範的観点でなければならない。しかしコップは、至高的な規範的観点が存在するという考えは不整合に陥るため、理性それ自体なるものは存在しない、と主張する。
本発表では、コップの議論の詳細について確認したうえで、これに対する反論に応答する。そして、やはり端的にすべきことなどないと主張する。また、道徳的合理主義者がコップの議論を批判する動機について検討し、たとえコップの議論が成功しているとしても、その動機のうちいくつかについては損なわれないとも主張する。
参考文献
Copp, David. (2007). Morality in a Natural World: Selected Essays in Metaethics. Cambridge University Press.
Dorsey, Dale. (2016). The Limits of Moral Authority. Oxford University Press.
McLeod, Owen. (2001). “Just Plain Ought.” The Journal of Ethics, 5 (4): 269–291.
因果的ではなく構成的だと言いたくなるような依存関係の例は無数にある.例えば,株価の暴落というマクロな社会現象は,株の売買をする個人の意図や行為というミクロレベルの事象によって生じている.あるいは,私の心的状態の変化は,私の脳状態の変化のおかげで成り立つ.この種の依存関係は,形而上学的グラウンディング (metaphysical grounding) と呼ばれる.語の用法としては,「個人の意図や行為が株価の暴落をグラウンドする」,「脳状態が心的状態をグラウンドする」,という具合である.
グラウンディングに関する論点の中でも重要なものの一つは,それが様相 (modality) とどのように関係しているかということである.グラウンディングは,必然性や反実仮想といった様相的概念と密接なつながりがあるように思われるのである.例えば,個人の行為が株価の暴落をグラウンドしているとすれば,そうした行為が起これば必然的に株価は暴落すると言ってよさそうである.あるいは,脳状態が心的状態をグラウンドしているならば,脳状態が別様であったとしたら心的状態も別様であっただろう,という反事実的条件文のも正しいように思える.では,以上のことは一般化できるのだろうか? つまり,「AがBをグラウンドする」ということは,「必然的にAならばBである」や「AだったとしたらBだっただろう」を含意するだろうか?
本報告では,次のようにしてこの問題に取り組む.まず,問題となる二つの概念(グラウンディングと様相)それぞれの論理体系に着目する.様相の論理体系は,もちろん,様相論理である.グラウンディングの論理体系としては,Fine (2012) が提示したグラウンドの論理 (logic of ground) がすでにある.続いて,これら両方の体系に適用可能な意味論を構築する.私たちの知る限りではそのような意味論はまだ提案されていないため,本報告での最も重要な課題はこの点にある.そして私たちは,様相論理とグラウンドの論理双方に適用可能な意味論として,近傍意味論 (neighborhood semantics) に注目する.近傍意味論は非常に柔軟で,様々な条件を課すことで様々な論理体系に対し完全性が示せる.特に,K公理と必然化規則を満たす正規様相論理だけでなく,それらのいずれかないし両方を満たさない非正規様相論理に対しても,完全であるための条件がすでに分かっている (Chellas 1980).この柔軟性は,グラウンドの論理への応用に際して重要である.実際本報告では,一種の非正規様相論理としてグラウンドの論理を捉えることができることを論じる.具体的には,「AがBをグラウンドする」というグラウンドの論理の式を「□A→□B」という様相論理の式に翻訳すると,Fine (2012) によるグラウンドの論理にConvexityという規則を加えたものが,いわゆるregularな非正規様相論理よりも「少しだけ弱い」系に相当するという事実を示すことを目指す.
文献
Chellas, Brian F. (1980) Modal Logic: An Introduction, Cambridge University Press, New York.
Fine, K. (2012) “The Pure Logic of Ground”, Review of Symbolic Logic, 5(1):1–25.
本発表では、人間以外の生物種における〈拡張された心 “Extended Mind”〉(EM)の可能性を擁護する。そのために本発表では、(1)人間以外の生物種がもつような心的状態にEMの射程を拡張することと、(2)EMを認められる生物種の特定の両方を目指す。
まずは、EMという概念に端的に触れておこう。EMは、信念や欲求といった、我々がふだん脳内表象としてもつ心的状態が、脳外表象として外的環境中に存在するようになった形態である。たとえば、〈国立美術館の住所〉についての脳内信念は、ノート上に記された〈国立美術館の住所〉についてのメモという、〈拡張〉された信念(E-信念)の形態として外的環境中に存在する。
本発表では第一目標として、(人間を対象とした)近年のEM研究における、情動や痛みの感覚などの、非認知的で身体性を伴う心的状態への〈拡張〉の議論を追う。E-情動やE-痛みの感覚が擁護されるならば、人間以外の生物種におけるEMの可能性も示唆されるだろう。なぜなら、情動や痛みの感覚のような心的状態は、人間以外の生物も一般にもつと想定されるからである。
とはいえ、非認知的で身体的な心的状態をもつ生物がただちに当該の心的状態のEMをもつことは帰結しない。なぜなら、単に非認知的で身体的な心的状態を内的にもつだけでなく、それを外的環境に仮託する能力もまた必要とされるからだ。そこで本発表の第二の目標は、どの生物種がEMをもち、どの生物種はもたないのか、という〈分布問題〉に答えることとなる。EMを初めて提起したAndy ClarkとDavid Chalmersによれば、拡張可能な心的状態は非意識的な心的状態に限られるため、EMを有する主体は、そのような非意識的な心的状態にアクセス可能な意識をもつ主体(=意識主体)に限られる。たとえば、〈国立美術館の住所〉についてのE-信念をもつのは、美術館の住所についての非意識的な内的信念またはE-信念を意識的に利用可能な生物種すなわち人間に限られる。つまり、EMをもつ主体は意識主体でなければならない。よって、〈生物が意識をもつか〉と〈生物がEMをもつか〉は重なる問いとなる。しかし、意識をもつすべての生物種がEMをもつわけではないため、〈どの意識的生物がEMをもつか〉という〈分布問題〉が生じる。
この問題を解決するためには、EMを認める生物種であるための必要十分条件を精緻化する必要がある。(最低限の)意識に加え、情動や、道具を扱う能力をもつことなどは、そのような要件の候補だ。あるいは、象徴能力や言語能力など、より高次の認知能力をもつ生物種にしか、EMは認められないのかもしれない。
本発表では最終的に、人間以外の霊長類、タコやイカなどの頭足類、ミツバチやクモといった節足動物もEMをもつことが導かれる。ただし植物、クラゲやイソギンチャクなどの刺胞動物には、依然としてEMを認めることはできないだろう。
In this presentation, we mainly argue that difficulty does not necessarily contribute to the value of knowledge, offering the alternative account of the value of knowledge as achievement, “Virtue Monism”.
In contemplating the value of achievement within the pantheon of human goods, one might be charmed to interrogate the essential factor that imbues it with value. Gwen Bradford (2015), in a landmark work on the subject, argues that achievements are valuable in virtue of their essential feature, difficulty. This insight is also more or less held for some scholars such as Simon Keller (2004), Portmore (2007), and Hurka (1993), who admits that effort or difficulty could possibly play a pivotal role in the constitution of the value of achievement.
The problem of Bradford’s account, however, lies in the “virtuoso problem.” It seems that there are cases which appear to suitably be regarded as an achievement, yet not difficult for the achiever. For instance, a genius violinist can give a wonderful performance of Paganini very easily. Apparently, this performance is a valuable achievement. However, Bradford’s view implies that such performance is not a valuable achievement since there is no difficulty in the performance, which seems counterintuitive.
The aim of this presentation is to offer an alternative view of the value of achievement, by focusing on “knowledge” construed by virtue epistemology according to which knowledge is a special instance of achievement (e.g. Greco 2010). In other words, we offer a virtue-theoretic account of the value of knowledge as an achievement, "Virtue Monism." It posits that the value of knowledge is determined by facts about intellectual virtues rather than difficulty. Virtue Monism suggests that difficulty is only indirectly relevant, as it often correlates with intellectual virtues that directly contribute to the value of knowledge. This framework allows us to sidestep issues such as the "intellectual virtuoso" problem, where an individual's intellectual performance is valuable despite lacking difficulty. By focusing on intellectual virtues, Virtue Monism offers a unified and coherent explanation for the value of knowledge, challenging the necessity of difficulty in both epistemic and non-epistemic achievements.
Reference
・Bradford, Gwen (2015). Achievement. Oxford, GB: Oxford University Press.
・Greco, John (2010). Achieving knowledge: a virtue-theoretic account of epistemic normativity. New York: Cambridge University Press.
・Keller, Simon (2004). “Welfare and the achievement of goals.” Philosophical Studies, 121 (1):27-41.
・Portmore, Douglas W. (2008). “Welfare, Achievement, and Self-Sacrifice”, Journal of Ethics and Social Philosophy, 2 (2):1-29.
・Hurka, Thomas (1993). Perfectionism. New York, US: Oxford University Press. Edited by Thomas L. Carson & Paul K. Moser.
本発表の目的は、現代の日常言語哲学者アヴナー・バズの議論をもとにしつつ、実験哲学が日常言語哲学にいかにして貢献できるのか、そしてどの程度まで貢献できるのかを検討することである。
日常言語哲学とは、後期ウィトゲンシュタイン、ギルバート・ライル、J・L・オースティンらに代表される20世紀より続く哲学の一つの伝統である。彼らのスタイルには、我々の日常的な言語使用に着目することで伝統的な哲学の問題──知識や自由など──の解決、あるいは解消を目指すという特徴がある。他方、21世紀の始まりとともに登場し、現代哲学の一大ムーブメントとなったのが実験哲学である。大まかに言えば、この領域の基本姿勢は哲学の議論に関連する直観や日常的信念・判断などを経験科学の手法を用いて調査するというものである。
そして近年、この二つの領域の協働が提唱・推進されるようになってきている。日常言語哲学者はしばしば「我々がしかじかと言うのはこれこれの状況下に限られる」という類の言明から議論を組み立てるが、この言明を経験的なものと見做し、実験哲学の手法を用いて検証しようという潮流が登場したのである。実際、日常言語哲学の歴史についての文献(Porter & Hansen 2023)のなかでJ・D・ポーターとナット・ハンセンは、日常言語の使用を調べるために実験的手法を用いることを21世紀の日常言語哲学の特徴の一つに数えている(224-225)。
しかし、この潮流に逆らっているように見える日常言語哲学者がいる。それがバズである。もともと彼はオースティンやスタンリー・カヴェル、ウィトゲンシュタインの影響を受けた独自の立場から、伝統的分析哲学の方法論を厳しく批判してきた(バズ 2022)。しかしその後の著作において、彼はこの分析哲学への指摘は実験哲学にも当てはまるとの主張を展開している(Baz 2017)。さらに、彼によれば日常言語哲学者の言明はそもそも経験的なものではないし、実験哲学者の協力によって得られるような種類の経験的証拠を必要とすることもない。もしこの二つの彼の主張が正しいならば、上に述べたような分野間の協働のあり方は修正を迫られるだろう。
以上を踏まえて、本発表ではバズの実験哲学批判を取りあげその主張の是非を検討することで、日常言語哲学と実験哲学の協働の可能性を論じることとしたい。結論を先取りすれば、バズの主張は完全には成功していない。日常言語哲学者の言明に何らかの特別性を認めたとしても、それは実験哲学との協働を拒否するには十分でない。実験哲学のあり方は、バズの構想するものよりもはるかに多様なのである。
本報告は科研費(24K00002)の支援を受けたものである.
参考文献
バズ, アヴナー (2022).『言葉が呼び求められるとき:日常言語哲学の復権』. 飯野勝己訳. 勁草書房: Baz, Avner (2012). When words are called for: A defense of ordinary language philosophy. Harvard University Press.
Baz, Avner (2017). The crisis of method in contemporary analytic philosophy. Oxford University. Press.
Porter, J.D., Hansen, Nat (2023). A quantitative history of ordinary language philosophy. Synthese vol.201, 225.
ある詩が何がしかの真理を表していることは、その詩の詩としての価値を高めるのだろうか。それとも、ある詩がそうした詩的真理を表現していることは、その詩の詩的価値とは無関係なのだろうか。つまり、詩的真理と詩的価値はどのように関わるのだろうか。本発表は、これらの問いに対し、詩的真理は詩的価値に寄与しうると論じるものだ。
文学における真理と価値の関係をめぐっては、分析美学において論争が繰り広げられてきた。一方の極には、両者の間に関与性はないとする反認知主義がある。たとえば、Peter LamarqueとStein Olsenによれば、作品は〈生死〉や〈愛〉などの普遍的な「テーマ」を興味深い仕方で描き出してこそ文学的価値を持つのであり、それが世界についての真理を含んでいるかどうかは関係がない(Lamarque & Olsen, 1994)。もう片方の極にあるのは、真理が何らかの仕方で価値に寄与しうるとする認知主義だ。一例として、Berys Gautは、作品はイメージや視点の提示を通じた想像的参与を促すことで私たちに何かを教えることができ、作品のそうした力はその作品の美的価値を増大させるとする(Gaut, 2007)。
本発表では、数ある文学形式の中でも詩に焦点をしぼり、詩に特有な認知主義の可能性を探りたい。そのために参照したいのが、分析的伝統をくむ詩の哲学において提案されてきた、詩的価値の由来にまつわる議論である。それによると、日常的にはただのナンセンスとして掃き捨てられかねない特異な言葉づかいも、詩とあっては、むしろその特異さゆえに詩的価値を帯びることがある。この特異さを、先述のLamarqueは「意味論的きめ細かさ」——詩がまさにその言葉づかいでしか表されず、言い換えたとたんに別物になってしまうような内容を表現していること——と呼び、Sherri Irvinは「疎遠さ」——詩に表現された経験と受け手自身のそれとの懸隔——と呼んでいる(Irvin, 2015; Lamarque, 2015)。ここでは、受け手を容易には近づけず、日常的コミュニケーションの約束事に逆らう詩ならではの言葉づかいが、詩的価値の源泉と目されている。
こうした議論を手がかりとして、本発表は次のような詩的認知主義を擁護する。詩は、まさにその詩の言葉づかいからしか構成されないような、きめ細かい視点を提示する。それによって、その視点から捉えられた、世界についてのきめ細かい真理を表現することができる。日常言語の網の目ではすくいきれない真理に、詩は受け手の注意を促すことができるのだ。そして、その言葉づかいを通じて世界のかくれた一角に肉薄できる可能性があるということが、ともすればナンセンスに陥りかねない詩の言葉に説得力を与え、詩に詩的価値を授けることにつながる。このようにして、詩的真理は詩的価値を支えることがある。
本報告は科研費(24K00002)の支援を受けたものである.
参照文献
Gaut, B. (2007). Art, Emotion and Ethics. Oxford University Press.
Irvin, S. (2015). Unreadable Poems and How They Mean. In J. Gibson (Ed.), The Philosophy of Poetry (pp. 88-110). Oxford University Press.
Lamarque, P. (2015). Semantic Finegrainedness of Poetic Value. In J. Gibson, The Philosophy of Poetry (pp. 18-36). Oxford University Press.
Lamarque, P., & Olsen, S. H. (1994). Truth, Fiction, and Literature. Oxford University Press.
Netflixなどの映像作品の配信サービスが普及し、いまや多数の映像コンテンツで溢れており、自分が見たいと思っている映像作品をすべて見ることは困難である。また現代社会では趣味に費やす時間も確保できない。そこで倍速視聴という方法が考えられる。稲田 (2022)は、映像先品を早送りや10秒飛ばしで見る人々について論じ、それは鑑賞というより消費であると論じている。また銭 (2021)は、倍速視聴であっても、それが等速視聴を追体験できるならば適切な鑑賞であると論じている。
本ワークショップでは、こうした倍速視聴をめぐる議論について、倫理学と美学の観点から論じる。
まず竹下から、倍速視聴の倫理学について検討する。竹下発表では、既存の議論が視聴者側の問題に焦点を当てていることを指摘し、作者が等速視聴を要求しているという側面に焦点を当て、二つの論証を提示する。第一の論証では、視聴者が任意の視聴方法で視聴する自由があるが、作者には視聴方法を強制する自由はないと論じる。特に視聴者が任意の視聴方法で視聴する自由を危害原理の観点から論じる。第二の論証では、視聴者にとって等速視聴は時間的または精神的余裕がないために、過剰のコストがかかるため、等速視聴要求に従わないことは許容可能であると論じる。特にここでは、等速視聴要求に従うことは超義務であるという観点から論じる。
次に昆から、倍速視聴の美学について検討する。昆発表では、映像作品の倍速視聴がいかなる美的実践であるかを「インタラクティブ性」の概念を用いて明らかにする。昆発表ではまず鑑賞の内実を検討する。この際にWollheim(1989)の「面識原理(Acquittance Principle/AP)」を参照する。APによると、美的価値の判断は直接的な経験に基づいたものである。このAPの概念をもとに、倍速視聴が真正な鑑賞ではないと捉えられうることを指摘する。次に、Nguyen(2023)の「芸術鑑賞はゲーム的行為である」という主張を取り上げ、倍速視聴が等速視聴とは異なるルールが適用される別のゲームへの参加であることを論ずる。これにより、時間短縮のために倍速視聴を選択した場合や、倍速視聴は真正な鑑賞ではない、という批判を退ける。最後に、ビデオゲームの美学における「インタラクティブ性」の概念を援用し、倍速視聴がインタラクティブな美的実践であることを提案する。
以上の発表の後、原から各発表に対しコメントをもらい、その後、参加者らと広く議論する。
参考文献
稲田豊史. (2022). 『映画を早送りで観る人たち:ファスト映画・ネタバレ —コンテンツ消費の現在形』. 光文社.
銭清弘. (2021).「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」https://note.com/obakeweb/n/n156d95779074
本発表では、近年芸術の定義論に提出された、芸術のバックパシング理論の検討を試みる。
芸術の定義論では、「芸術とは何か」という問いに答えを与えるべく、様々な提案がなされてきた。ドミニク・ロペスの提出した芸術のバックパシング理論もそのうちのひとつである。しかし、この理論は、実質的に芸術を定義することではなく、芸術を定義するための方法を提案することにその主眼を置いている。
現代における芸術の定義は、しばしば、芸術作品であるための必要十分条件という形式で提示されてきた。芸術のバックパシング理論が芸術作品であるための必要十分条件として挙げているのは、〈芸術種の作品であること〉である。ここで芸術種と呼ばれているのは、絵画や音楽、彫刻、文学…などのことだ。芸術のバックパシング理論によると、芸術作品とは、絵画の作品、音楽の作品、彫刻の作品…であるもののことだという。新たに問題となるのは、一体芸術種とは何か、ある芸術種の作品であるとはどういうことか(例:絵画の作品とは何か)ということだろう。この理論は、それぞれの問いを別々の理論の課題とすることで、芸術の定義論における関心を芸術作品から、芸術種、芸術種の作品に移す。
この理論には、現代における従来の芸術の定義論が抱える問題を回避することができるといった魅力があるが、様々な懸念点も挙げられている。そのひとつが「フリーエージェント作品」に関する問題だ。フリーエージェント作品とは、〈どの芸術種にも属さないが芸術作品であるような作品〉のことである。スティーブン・デイヴィスは、複数の作品を例に、それらがフリーエージェント作品となりうることを論じている。
本発表では、デイヴィスによって提示されたフリーエージェント作品を整理し、それらが実際に芸術のバックパシング理論への反例となりうるかを検討する。この作業によって、芸術のバックパシング理論を外延的十全性(芸術の外延をカバーできているか)という観点から、評価することを目指す。
本報告は科研費(24K00002)の支援を受けたものである.
Lopes, D. M. (2008)“Nobody Needs a Theory of Art”, Journal of Philosophy, 105: 109–127.
−−−. (2014) Beyond Art, Oxford University Press.
Davies, S. (2014). Lopes, Dominic Mciver. Beyond Art. Oxford University Press, 2014, iii+ 249 pp., $35.00 cloth. The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 72(3), 329-332.
「作者が作品制作時に抱いていた意図こそが、芸術作品の正しい解釈を決定するのだ」と考える芸術解釈に関する現実意図主義(actual intentionalism)にとって、作者が複数存在する芸術作品——例えばリレー小説や、原作と作画が分かれた漫画作品、多くの映画も該当するだろう——の存在は都合が悪いように思われる。というのも、少なくとも素朴な感覚としては、作者が複数存在する場合に「作者の意図」なるものをどう理解すればよいのかが不明瞭だからである。日常的な感覚としては、心を持っているのは私たち一人一人であって集団ではない、と感じられる。
集団的志向性(collective intentionality)の概念に親しんだ人々は以上の考えに同意しないだろう。社会存在論の文脈ではしばしば、集団的志向性、すなわち"We"を主語とした志向的態度(例:意図や信念、欲求)が成り立つということが論じられる。この種の議論に馴染みがある人々にとっては、集団が意図を持つことはさして不思議ではなく、それゆえ作者集団が芸術作品について何らかの意図を抱くという事態も受け入れられるはずだ。
そこで本報告は、こうした考えが本当にうまくいくのか——つまり、集団的志向性に関する理論を(共同的な)芸術制作に応用することで、現実意図主義のスコープを拡張することができるのか——を検討する。
具体的には本報告は、共同的な芸術制作には多様な形態が存在していることを確認する(Corsa 2020)。この多様性ゆえ、集団的志向性に関する既存の理論で作者集団の意図を説明し尽くすのは難しい。〈作者集団の意図とは何か〉を解明するのが難しいというこの事実は、作者集団の意図の存在を前提する(はずの)現実意図主義をとることに反対する理由の一つとなるだろう。なお、この問題を回避する上では意図に関する推論主義を採用することが有望なオプションとなるが、この選択肢をとると現実意図主義は仮説的意図主義(hypothetical intentionalism)と同一化する——そしてこれは現実意図主義者たちの動機に鑑みると望ましくないはずだ、ということも本報告では論じる。
本報告は以上の通り、集団的志向性の理論を参照して芸術家の意図をめぐる議論を拡張することを一義的には目指すが、同時にその反面では、芸術制作をモデルに集団的志向性の理論を再評価するという狙いも持っている。
参考文献
Corsa, A. J. (2020). ”LaBeouf, Rönkkö & Turner, Digital Remix, and Group Authorship,” The British Journal of Aesthetics, 60(1), pp. 27–43.
ジャン=イヴ・ジラールは,線形論理をはじめ数々の斬新な理論を提唱してきた現代を代表する論理学者である.主に計算機科学の領域で大きな影響力を持ってきたジラールだが,近年は哲学的な議論を深めている.しかしジラールの哲学的な文章は難解であり,またジラール理論の研究者と哲学コミュニティとの交流も希薄であるため,その議論が十分に評価・検討されているとは言えない.そこで本発表では,ジラールの哲学的論理学,特に2010年代以降のプロジェクトである「超越論的シンタクス」をできる限り明確に再構成して紹介し,議論の礎としたい.
ジラールの議論の特徴は,論理学を純粋な推論と捉えることと,論理学の隠れた前提を暴くことにある.通常の論理学では記号の解釈を定義することで論理式の意味を与える.だがこれは,純粋な推論の外にある現実世界にもとづいて意味を定義してしまっている.ジラールはこうした意味論と,それを暗黙に前提してしまっている証明論を批判する(Girard [2, §1-§2]).超越論的シンタクスとは,論理式や証明を純粋に構文論的な概念だけを用いて再構築する試みである.
本発表では,論理式や証明を再構築するジラールの試みを具体的に見ていく.特に,線形論理の推件計算,証明ネット,"星座"という3つの体系を比較する.まず線形論理を,証明論の標準的な装置である推件計算を使って導入する.続いて線形論理特有の証明体系である証明ネットを紹介する.これは証明のみでなく証明ではないものをも生成し,そのなかである基準を満たしたものを証明と認めるという仕組みを持つ.この点で推件計算のような証明体系の一般化になっている.このときの基準は純粋に構文論的なものであり,そのため現実世界に囚われずに証明を再構築できる.最後に取り上げる星座(Girard [1]) は,超越論的シンタクスの中核を成す構造である.これは論理式を廃することで証明ネットをさらに一般化したものとなっている.星座から出発することで論理式もやはり再構築できる.
参考文献
[1] Jean-Yves Girard. Transcendental syntax I: deterministic case. Mathematical Structure in Computer Science, Vol. 27, No. 5, pp. 827–849, 2016.
[2] Jean-Yves Girard. Transcendental syntax IV: logic without systems. Logic, Language, and Security: Essays Dedicated to Andre Scedrov on the Occasion of His 65th Birthday, pp. 17–36, 2020.
スピノザは自然を「生み出す自然」と「生み出される自然」に区別している。前者は、「神あるいは自然」という言葉から明らかなように、「自然」を永遠かつ無限な神と同一視するものである。自然の内にあるものはすべて自然の秩序のもとで必然なのである。一方で、自然というものは変状と運動と静止の比の維持によって説明される。具体的に言えば、個体の諸部分を複合する最単純物体のすべてが相互に対する運動と静止の関係をそれまでと同じように維持するようにして運動・静止する限り、個体の諸部分は本性を維持する。また個体を複合する個体の諸部分も運動・静止し変状するが、その運動・静止の関係を変えずに互いに伝え合うことで、個体の本性を維持する。こうして最終的に一個の個体としての自然となる。しかし、自然の一部となっている諸個体すなわち「生み出される自然」にとって、みずからがどのように変状されるのかは必然ではなく、むしろ偶然である。自然の秩序における「生み出される自然」の変状は偶然的なのである。本発表では、偶然性と必然性はどちらも人間の認識に依存した概念であることを示したのち、認識の仕組みを変状と運動・静止の関係の維持によって説明する。こうして偶然性と必然性をともに包含しているように見える自然の姿を明らかにすることを目指す。
本発表では、人体保存技術であるクライオニクスをめぐって展開されてきた、医療資源分配の観点からの批判に注目する。そして、それに対するクライオニクス技術使用擁護派からの応答を確認するとともに、その応答がもつ問題点を指摘する。
現行の医療では治療することができない病気によって終末期を迎えている患者の中には、時間を止めて治療法が確立した時点で治療をしてほしいと考える人もいるかもしれない。クライオニクスは、まさにその希望を叶えうる技術である。これは、液体窒素を用いた人体の保存方法であり、死を宣告された患者の体を急速に冷却して液体窒素の中で保存し、将来、その患者を死に追いやった病の治療法が確立した時に蘇生・治療することを目的とする(e.g., Minerva 2018: chap. 1)。
医療倫理の四原則の一つである正義原則は、利益と負担の公平的な配分を要求するものである(水野 2017: 66)。よりわかりやすくいうと、この原則は、「健康に関連した物資とサービスをさまざまな用途や人々に分配すること」を求める(児玉2017: 333)。また、資源が希少であり、かつその資源をめぐって競争があるときに資源配分の正義は問題となる(ibid.)。
これまで、クライオニクスの技術使用をめぐって、資源の分配が公正になされないという観点から反対論が展開されてきた。一つは、保存にあたり、多くの資源が必要となるという批判である。これはShaw 2009において、環境への懸念点として挙げられた想定反論の一つであるが、この論点は資源の配分の観点から捉え直すこともできる。液体窒素、凍結防止液、保管施設、保管タンクなど、保存のために必要なものは非常に多くある。クライオニクスを医療行為として捉えるならば、このように多くの資源を投入する必要がある医療行為は、分配の問題を抱えることになる可能性が高い。二つめは、クライオニクス個体は臓器提供されることができる臓器を分配できない、という批判である(Shaw 2009)。クライオニクス個体が全身保存される場合、その臓器はそのまま保存され、必要とする人に提供できたはずの臓器を提供することができなくなってしまう。
本発表では、これらの反論に対する応答を確認した上で、それらの応答が成功していないことを正義原則の観点から検討していく。
参考文献
児玉聡,2017,「医療資源の配分」赤林朗編『入門・医療倫理 I〔改訂版〕』勁草書房,pp. 333–349.
水野俊誠,2017b,「医療倫理の四原則」赤林朗編『入門・医療倫理 I〔改訂版〕』勁草書房,pp. 57–72.
Minerva, Francesca, 2018, The Ethics of Cryonics: Is It Immoral to Be Immortal?, Springer.
Shaw, David, 2009, “Cryoethics: Seeking Life after Death,” Bioethics, vol. 23, no. 9, 515–521.
あなたは手を上げている。そこで私は「どうして手を上げているのか」と尋ねる。あなたは「ただ手を上げたいからだ」と答える。また、あなたはトマトを切っている。そこで私は「どうしてトマトを切っているのか」と尋ねる。あなたは「ただトマトが切りたいからだ」と答える。本稿で扱う「ただそうしたいからだ」の事例はまさにこのようなものである。Anscombe(1963)は意図的行為の概念を定義するにあたって、「なぜ」に対する答えの分析を行うことで行為を種々のクラスに分類することを試みたが、「とくに理由はない」や「単にそうしたいと思ったからだ」といった答えがなされるケースは、意図的行為の境界事例であるとされた。「どうしてAしているのか」と尋ねられるとき、そこでは、自分自身がどのような意図的行為を行っているかに関する知識を行為者が持っていることが前提とされている。ゆえに、「ただAしたいからだ」という答えは「自分がAしているとは知らなかった」という場合とは異なり、自分がAをしていることを行為者特権的な仕方で知っていることを示しているように思われる。
しかし、Anscombeによれば、「私はこれをしたい」は、人がそのときに行っている事柄の説明にはならないという。一般に、行為者がAしているとき、行為者はAしたいのだということは必ずしも含意されない。もしそうなのであれば、「Aしたいからだ」と述べることは、そのような欲求が存在するという、ある種の説明を行っているのではないだろうか。そのように考えられるかもしれない。
本稿では「そうしたいからだ」という、単に欲求のみに訴えかける答えが行為の理由を述べていることにはならないことを、実践的知識の能力の観点から論じる。実践的知識は行為者の目的の実現を可能にするという能力を持つ。それに従うと、目的を持った行為者が述べる適切な理由は、行為Aの拡大記述を与えるような答えである。「Aしたいからだ」と述べることは、行為者が行っている別の行為によって行為Aを説明していないため、そのときに行っている事柄の説明にはならないだろう。これより、「ただしたいからだ」と述べることは、そのような実践的知識の存在に基づくものではないことを示す。
「どうしてAしているのか」と尋ねられるとき、たいてい、行為者は自分自身の行為の意味を知っている。しかし、その記述は、「どうしてAしているのか」という問いがなければ切り出されることはなかったであろうものである。「ただAしたいからだ」という答え方は、ほかでもなく「どうしてAしているのか」と尋ねられることで生じる。
参考文献
Anscombe, G. E. M. (1963), Intention, Harvard University Press(G. E. M. アンスコム, 柏端達也 (訳) (2022), 『インテンション 行為と実践知の哲学』, 岩波書店)
Thompson, Michael (2008). Life and action: elementary structures of practice and practical thought. Cambridge, Mass.: Harvard University Press.
ジョセフ・ヒースは社会規範について概ね次のような描像を提示している。例えば行為主体は、様々な社会的インタラクションの場面で頻繁に非最適な状況に陥る。ある種の社会規範はこのような状況で、行為主体の持つ欲求とは独立に特定の行為を指定し、最適なインタラクションを可能にする(行為主体は社会規範を、行為それ自体に対する選好という形で自身の実践的熟慮に組み込む)。社会規範は、行為主体が明示的・暗黙的な仕方で他の主体から学習するものであり、文化進化のプロセスに服している(ヒース 2013)。
以上のような社会規範の描像をひとまず受け入れた際に問題となるのは、社会規範と道徳規範との関係である。倫理学では、社会規範は現に人々が正しいと思っていることに過ぎず、本当に正しいこと(つまり道徳)とは異なる、と想定されることが多い。しかしヒースは、社会規範と質的に区別された道徳規範なるものの存在を認めていない(ヒース 2013)。このヒースの見解はたくさんの反論を喚起すると同時に、非常に入り組んでおり全貌が掴みにくい。
そこで本発表では、道徳規範と社会規範に関するヒースの見解への想定反論に対する再反論をまとめるという仕方で、ヒースの議論を具体的に特徴づけ、整理することを目指す。そのために、以下の三つの反論に目を向ける。
第一の反論は、行為主体は現に道徳規範と社会規範を異なる仕方で取り扱っているというものだ(Heath 2017)。例えば、「他人をぶつな」といった規範は、電車内でのエチケットなどの社会規範とは明らかに異なるものとして扱われているように思われる。道徳規範の存在を認めないなら、この事実は説明しがたく思われる。
第二の反論は、あるタイプの規範(例えば、「人を殺すな」)が様々な社会で普遍的に観察されるという事実に訴えるものだ。この事実は、「人を殺すな」という規範が道徳規範であり、様々な社会の人々がそれを(不完全な形であれ)認識して当該社会の規範に組み込んでいった、という仕方で説明するのが自然だと思われる。道徳規範の存在を認めないなら、この事実を説明するのが難しくなる。
第三の反論は、社会規範を外部から評価する道徳的基準が存在しないのなら、明らかに不正義な社会規範を批判することができなくなるというものだ(Heath 2020)。例えば私たちが奴隷制を許容する社会規範を批判できるのは、奴隷制を正しくないものとする道徳規範に私たちがアクセスできているからではないだろうか。そのような道徳規範の存在を想定することなしに、奴隷制を許容する社会規範を批判するのは不可能であるように思われる。
以上を踏まえ最後に、ヒースの見解が持つ利点、および類似する諸見解との異同を簡単に説明する。
参照文献
ヒース, ジョセフ, 2013, 『ルールに従う』瀧澤弘和訳, NTT出版.
Heath, Joseph, 2017, “Morality, convention and conventional morality,” Philosophical Explorations, 20(3): 276-293.
Heath, Joseph, 2020, “An Explicitative Conception of Moral Theory,” in Interpreting Modernity: Essays on the Work of Charles Taylor, ed. Jacob Levy, Jocelyn Maclure and Daniel Weinstock (Chicago: McGill-Queen’s University Press), 160-181.
作為的に治療をやめることは「治療の中止」、不作為によって治療をしないことは「治療の差し控え」と呼ばれることがある。かつては作為と作為によって治療を区分し、作為的に治療をやめること(「治療の中止」)のみを問題視する見方があった。しかし、画一的に「治療の中止はできない」とする医療現場の態度は、治療の中止を生じさせる恐れのある医療的介入を抑制する事態を生んだ。具体的には、医療従事者が患者に対して呼吸器を装着するか否か判断に迷う場合に、治療の中止ができないならば患者は延々と呼吸器を装着された状態となるため、医療従事者は患者がそのような状態になることを恐れて、はじめから呼吸器を装着しない選択をしてしまうのである。
この選択は、真摯な医療的実践と矛盾する。なぜなら、医師は患者に呼吸器を装着してはじめて呼吸器装着後の患者の状態の評価と予測ができ、呼吸器装着という治療が患者にとって利益なのか否かの判断が可能となるからである。したがって、一様に呼吸器の取り外し、すわなち、「治療の中止」のみを問題視することは、ある患者にとっての利益となる治療の選択肢を奪うことになりかねない。そもそも医療において作為と不作為を明確に区別することは難しいとする者もいる。このような理由から、医療行為において、作為と不作為に道徳的な区別はないと結論する論者が多い。
作為と不作為に道徳的な区別はないとする上記の理由は、医療実践的な側面からの説明である。そのほかに、実践的な説明ではなく、因果論におけるINUS条件を用いて、作為と不作為のどちらも患者の死の原因となることを示した議論がある。ただし、このときの議論は、作為的に患者を死に至らしめる行為(致死的薬物の投与など)と不作為によって患者を死に至らしめる行為(治療をしないことで患者を死ぬに任せること)は、両者とも患者の死の原因であると特定できるのだから、両者の道徳的な含意も同値であるとしたうえで、「作為的な安楽死が道徳的に不正であるなら、不作為による安楽死も道徳的に不正である」と述べるものである。
本発表では、INUS条件を用いて、作為も不作為も患者の死の原因となることを示す議論を紹介し、医療行為を「治療の中止」と「治療の差し控え」によって区別することに対し、もはや有効な意義が与えられないのではないかという仮説を提示する。他方で、議論に含まれる前提である「因果的に同値であるなら、両者の道徳的な帰結も同値である」とする主張の是非を検討する必要があるだろう。
現代の分析哲学での形而上学的探究は、分析形而上学と呼ばれる。分析形而上学では、経験科学の帰結よりも更に積極的で一般的な主張を行うため、直観などの道具立てを用いた議論が進められる。その一方で、形而上学的仮説の説得性吟味に際しては、整合性や単純性などの理論的美徳を参照しての理論選択が志向されており、科学理論の選択方法の尊重(模倣?)が為されている(倉田 2017; cf. Sider 2009)。
こうした探求とは別に、哲学と諸科学の関係や哲学の方法それ自体についても複数の議論が為されている。こうした議論において大きな位置を占めているのが自然主義である。自然主義には様々な分類や特徴づけが存在しているものの、いわゆる経験科学の多様な方法を尊重する点と、諸科学の帰結を真剣に受けとめる点は共通していると言える(井頭 2010, Ladyman and Ross 2007)。
近年、自然主義に立つ論者のうちの複数により、分析形而上学の方法と仮説に疑義を呈する議論が提出されている(Ladyman and Ross 2007, Ross et al. 2013)。本発表では、分析形而上学の正当性と自然主義の関係を整理し、自然主義的な形而上学の方針を説得的に提出することを試みる。具体的にはまず、分析形而上学の正当性に疑義をつきつけている議論を整理し、それが自然主義を標榜する新たな形而上学を動機づけていることを確認する。次に、井頭(2010)の議論に基づき、自然主義のコアをまとめつつ、自然主義的な形而上学がどのような立ち位置にあるのかを確認する。最後に、自然主義的な形而上学の試みが方法論的にはどのように正当化されるのか、そして正当化されうる自然主義的な形而上学はどのような特徴をもつのかを明らかにして、自然主義的な形而上学が妥当かつ新しい探求であることを示す。
本報告は科研費(24K00002)の支援を受けたものである.
文献表
井頭昌彦. (2010). 『多元論的自然主義の可能性:哲学と科学の連続性をどうとらえるか』.新曜社.
倉田剛. (2017). 『現代存在論講義Ⅰ:ファンダメンタルズ』. 新曜社
Ladyman, J. and Ross, D. (2007). Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized. Oxford University Press.
Ross, D. and Ladyman, J. and Kincaid, H. (Eds.). (2013). Scientific Metaphysics. Oxford University Press.
Sider, T. (2009). Ontological Realism. in Chalmers, D. (Eds.). Metametaphysics. Oxford University Press.