鹿子 裕文さんからのメッセージ
子どもたちに「老いとは何か?」を伝える絵本が欲しい——
オファーを受けたとき、正直、悩みました。
見るもの。聞くもの。ふれるもの。日々体験する多くのことが新鮮で光っているはずの子どもたちに、なんでまたそんなことを伝えなければいけないのだろう?
僕の考えとしては「今はそんなことなんか気にせずに、活力にあふれた毎日を送って欲しい」というのが本当のところです。
友だちと大きな声を上げながら遊び、遊ぶことで学び、そうして育まれていく人としての情とこころがあれば、いつかのタイミングでそのことをきちんと知るような気がするのです。
大人はいろんなことを「よかれ」と思って教えたがります。けれど、そのことで完全に損なわれてしまうピュアネスが絶対にあるように思うのです。サンタクロースの正体を教えてしまうような無粋さが、今そこら中に転がっていて、僕はそのことをとても残念に思っています。
訳知り顔で物事を語るような子どもを、増やすわけにはいきません。その気持ちは、この絵本を作っている間も変わることがなかったし、作り終えた今も変わることがありません。
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絵本の原作を担当するのは、今回が初めてでした。絵本に詳しいわけでもなく、なにもかもが未知の世界にあった仕事です。すべてが手探りになるだろうことは、最初から明らかでした。
初めてづくしの試行錯誤。その右往左往する中で、僕は存分に迷い、考えることになりました。
見るもの。聞くもの。ふれるもの。原作を書くことで日々体験する多くのことが、新鮮で光っていました。
それがもし「生きること」の醍醐味であるのならば、そこに年齢は関係ありませんでした。もちろん、性別や人種も関係ないことでしょう。僕は同じ人間の一人として、「老い」を「生きること」として語ってみようと思うようになりました。
原作を組み上げるにあたって、揺らぐことのない言葉がひとつだけありました。それは義理の母であるキヌエさんが僕に遺してくれた言葉です。物語がどんなに姿かたちを変えようとも、その言葉だけは一度も削られることなく、キヌエさんが僕に遺してくれたそのままのかたちで残り続けました。
僕はその言葉を前にするとき、「老い」がどうのとか「介護」がどうのとか、そういうこと以前に、「人が人として生きること」の本質を突きつけられたような気持ちになります。
すっかりぼけてしまったキヌエさんが、そして今はもうこの世にはいないキヌエさんが、絵本の主人公・はなのさんの中にそっとまぎれこみ、僕にこの原作を書かせたのかもしれません。
鹿子裕文