FAR EAST RADIO CLUB
For a Beautiful BCL Life!
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HCJB the Voice of the Andes - La Voz 1
資料提供:青木茂紀様
La Voz
No. 69 (1979 3-4)
赤道碑 -緯度0度0分0秒-
「地球を横倒しにして、足元を走っている赤道線をひとまたぎ……。」エクアドルの赤道碑では、みんなそうしているのですが、いつも北が上になっている地図ばかりみているのでピンときませんね。
キト空港から北へわずか15キロ、観光道路ケネディハイウェーを車で荒涼たる丘陵地帯をぬっていきついたところが地球の真中、赤道碑です。
エクアドルで最初に赤道の観測がはじめられたのは1736年で、フランスの科学者 Luis Godin のひきいる観測隊が現在の位置から東へ28キロのところにピラミッド型の赤道マークを建てましたが、現住民が気味悪がって、これをこわしたり埋めたりしてしまいました。それから二百年後の1936年、赤道観測の二百年祭記念行事として Luis G Tufiño氏によって現在の高さ10米というりっぱな四角錐型モニュメントが建てられたのです。材料はすべて近くの山から運ばれました。外側は珪土とマンガンを主成分にした赤茶色の Andesite(安山岩)で仕上げられ、中には火山の岩石と石灰石がつめられました。安山岩をとり出した赤道碑から1キロのところにある「La Marca(しるし)」という山は、キトウ族が紀元前250年の昔にすでに“しるし”と呼んでいたということです。またプレ・インカ時代から赤道祭が行なわれており、インカ時代になって太陽崇拝の影響で祭の方も本格化し、3月21日と9月23日には太陽が赤道を旅立つ日として盛大な行事を行ったということです。現代科学とはおよそ縁遠い古代の人々が正確な宇宙の運行をすでに突きとめていた事実には感心させられます。
春分の日(3月21日)と秋分の日(9月23日)には、エクアドルでは面白い現象が起こります。その日正午になると赤道碑の上にのっかっている 1.4米の石造りの地球が、まっすぐに太陽の光を受けて輝き、地上の影が全く姿を消してしまうのです。これを神との関係にあてはめて考えてみましょう。神は光です。その光を斜めに受ける時そこには影が生じます。不信仰、不服従、うたがい、つぶやきなどは、すべて神との斜めの関係といえます、そこには影が大きくやどるだけです。光なる神をまっすぐ受ける時、私たちは足もとに影をふみこむことができるのです。神との正しい関係が、私たちに祝福された明るい日々の生活をもたらしてくれるのです。
La VOZ
No. 75 (1980 3-4)
“一番星みつけた”とうたったのは、一昔前。今では“人工衛星みつけた。あれ、あの山の赤道碑の上に”と歌えそうです。いま、宇宙には4,500個の人工衛星が飛んでいますが、いちばん役に立つ静止衛星は赤道上空、約3万6千キロのあたりにあるそうです。エクアドルの首都キト市郊外コノコトに衛星を追跡する地球局が日本商社(三菱)の手で72年に完成しました。(写真参照) 最近では、この人工衛星の特等席ともいえる赤道上の領有をめぐって場所とりや電波の割り当てが問題になり、国際会議までひらかれるとあっては、まさに宇宙もせまくなったものです。
日本で2月に鹿児島県の種子島宇宙センターから打上げた実験用静止通信衛星「あやめ2号」は、東経145度の赤道上空に静止するはずでしたが、残念ながら去年の打上げにつづいて失敗に終わりました。もっとも3万6千キロも離れた月に向ってロケットを命中させたアメリカの宇宙科学も、はじめから月の表面のどこへでも好きなところにロケットを命中させることができたわけではありません。動く地球から動く月をねらうのは、弓防(弓隊)与一の扇の的よりもむずかしいことです。「一発必中」を可能にしたのは精緻な計算と飛行制御技能の進歩の結果です。アメリカは月をねらったロケットで10何回も失敗をくりかえしています。'50年に打上げた第1回ロケットは、発射後わずか77秒で爆発。つづいて同じ年に打上げたパイオニア1号は、12万7千キロ飛んだところで力つき逆落、大気圏の中で燃えてしまいました。初めにとびつく小野道風のカエルを思わせるような失敗と努力の積み重ねが人類の巨大な一歩を月世界にしるさせたのです。宇宙へ向ける人類の手はたえず伸びていることはすばらしいことです。
一方、このような驚くべき科学の進歩は、私たちに錯覚を与えがちです。科学そのものの力をうたがうものではありませんが、だからといって科学が万能だと過信することは危険です。
宇宙時代に入ったから心の面(問題)もスーパーマン的に科学がすべてを解決してくれると考えるのは片手落ちです。たしかに物事を考える助けにはなるでしょう。しかし、心の面(問題)だけは、神がその解く鍵をにぎっておられるのです。信仰によって、あなたの問題を解くのに必要な鍵を神からいただこうではありませんか。
「わたしが地の基を定めた。」(旧約聖書 ヨブ記 38:4)
La VOZ
No. 76 (1980 5-6)
母に捧げる曲
「こちらはアンデスの声です。今日のスタジオゲストは斉藤キヨシさん、勤務先のブラジル空軍機でエクアドルに来られたのを機会に早速スタジオからお母さんに声の便りをとどけてもらいましょう、どうぞ。」「お母さん、お父さん。ボクは今キトに来て、お母さんがアンデスの声をいつもきいているのを思い出してここをたずねてきました。こうしてお母さんに声をかけられることをうれしく思っています。今日はちょうどお母さんの誕生日ですね。お母さんが大好きなベートーベンの歓喜の合唱をプレゼントします。お母さんおめでとう。」
それから間もなくして、この放送をきいたブラジル・オニアジアンツ(カサ・グランデ)在住の斉藤稲さん(キヨシさんの母親)からの手紙がHCJBにとどきました。
「はじめてお便りいたします。私たちはもうアンデスの声をききはじめてから、かれこれ十年近くになりますでしょうか。その間いちどもお便りをさしあげず大変失礼いたしております。このたびは私(の)長男清がそちらにおじゃまにあずかり本当にびっくりいたしました。今は同じブラジルでも、千キロメートルもはなれて住んでおりますのでめったに会えません。またあの日は丁度、私の誕生日。すばらしいプレゼント曲をきかせていただき、こんなに感激した誕生日は生まれてはじめてでした。清の声もそのままで、なんだか夢でもみているような気がして、終ったのも知らずにラジオの前に突っ立っておりました。このよろこびを感謝せずにおれないうちに、とペンをとりました。」
親と子の愛情のつながりは美しいものですね。親の愛があればこそ子もりっぱに育つものです。学校では成績が悪かったエジソンも母親の理解と導きがなければ世界の発明王として世に出ることはできませんでした。また「お母さんはどんなに苦労してもいいの、お前が勉強できるのなら。」という犠牲的な母の励ましが、てんぼうといわれた野口英世を発奮させ医学の道にすすませたのでした。下手な文章しか書けない少年に母親はこういいました。「左はきれいでしょう、でもやっと土から出たばかりのふたばを見てごらん、いまはまだだけど、やがてりっぱな花を咲かせることができるのよ。さあ、あなたも元気を出して。」こうして母のあたたかいおしやりの中に童話作家アンデルセンははぐくまれていったのです。初代キリスト教の教父オーガスチンを少年の頃、不良から更生させたのは母モニカの涙でした。奴隷商人ジョン・ニュートンを改心させ、多くの賛美歌を作らせたのは、暴風雨の真只中でまぶたに浮かんだ神に祈る母の姿でした。ウェスレー夫人は17人の子持ちでしたが、祈りと献身の中から、イギリスに信仰リバイバル(復興)をもたらしたウェスレー兄弟(ジョンとチャールズ)をうみ出したのです。神に従う両親の姿が、子供たちの胸に強い印象をやきつけ、それが子供の成長に結びついていった(る)ようです。
時代と場所はちがっても人間の真情にかわりはありません。この世で神の愛を、もっともよくあらわしているのは母の愛です。わが子の幸せを願う母の情はそのまま神の人間に対する真の気持ちです。親のもとをはなれて遠くゆくことがないように、どんな困難に直面しても、たくましく生きぬいてくれるように。こういう親の願いは神の願いです。魂の親である神は、地上の母親以上にあなたのことを心配してくれています。「女が自分の乳飲み子を忘れようか、自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」(イザヤ書49章15節) これが神の約束です。
La VOZ
No. 78 (1980 9-10)
アウカは今
濃いミルク色の夜霧ですっぽり包まれたティワエノに朝の訪れを告げるのは、早起き鳥コワッタイの鳴き声だ。深い夜のしじまはコワッタイのパター、パターという大きなる鳴き声に破られ、やがて東の空が明るむ。濃い霧は赤道直下の太陽の光の前に、跡形もなく消え失せる。……エクアドル東部ジャングル地帯のアウカ領ティワエノで新しい一日が始まった。
アウカの人々の生活は今も狩猟と原始的な農耕に頼っている。吹き矢で猿や鳥を撃ち落とし、長い槍で猪やバクを仕留める。マニオック(山いも)を掘り起し、バナナを採る。
(写真左)
エクアドル東部にひろがるジャングル地帯と白く光るアマゾン源流。
(写真下)学校(教室数1つ)の前で。窓にはちゃんと網が張ってあります。
(写真上)「お父さんは吹き矢とマチェテを肩に、私はお鍋とペットのポケット・モンキーを連れてこれから狩りに出かけます。」
アウカ領内に定住地ができ、滑走路が切り開かれたのは、今から20年程前のことだが、それは長いアウカの血塗られた暗黒の歴史に終止符が打たれた最初の印となった。今、アウカの人々は、人を殺すために槍を使うこともない。1956年1月8日彼らの槍の前に自らの生命を捨てた五人の宣教師の死をもって彼らの長い斗争の歴史は幕を閉じた。夜のとばりを破る朝の光のように、神の愛がアウカの暗い闇を追い出し、神のいのちの光が輝き登ったのだ。
憎しみに代えて愛を、恐れに代えて信頼を、斗いに代えて平和を……。今、アウカの人々は知っている。流されたいのちの光は、次々と受け継がれ、アウカの人々は、神のいのちの光の内を歩み続けている。
(写真と文 宮下左知子)
“イエスは言われた、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」” ヨハネの福音書 12:46
La Voz
No. 80 (1981 1-2)
HCJB創立50周年 記念キャンペーンスタート
日本流にいえば HCJB 放送局は数え年で50才になりました。1931年(昭6)にアンデスの峰高くから第一声を放って以来、1981年で半世紀、結婚式でいえば、今年のクリスマスは金婚式です。そのおめでたい開局50周年記念日をめざして記念キャンペーンがスタート。すでに各記念行事がくりひろげられています。
その皮切りは、HCJB 音楽コンサートで、スクレ国立劇場での演奏会をはじめ、校庭コンサート、足生コンサート、大統領官邸でのセレナーデ・コンサートなどがひらかれ、広く市民にアピールしました。また放送でよびかけたオープン・ハウス(局内見学)には週末の二日間、朝から夕方までひっきりなしにキト市民が押しかけ、中には遠いところからとりつけて来た人もあって、局員を感激させました。スタジオからは10時間オール生放送で訪問者の声を流しましたが、思いがけないところで長い間 HCJB をきいている人も多く、あらためて放送の偉力を知らされると共に、送る側の責任の重大さを感じさせられました。創設者のひとりクラレンス・ジョーンズ博士(80才)夫妻を招待して、記念キャンペーンのスタートを祝う午餐会がありましたが、テーブルには特別につくられた大型ケーキが準備され、それに50本のローソクが赤々とともされました。博士はそれを見事に吹き消し、会場は大拍手。そのあと博士は次のようなエピソードをきかせてくれました。
「あの日(放送開始日)は、放送できないのではないかと、はらはらしていました。というのは、我やすべて送信施設のチェックをすえ、あとは放送開始を待つばかりとなっていたのに、事もあろうに水銀整流管866型が突然パンクしてしまったのです。キト市に当時パーツなどあろうはずがありません、もうお手上げです。その時エンジニアのひとりが、リオバンバ市(キト市から南200キロ)にアマ無線家がいるのでひょっとしたらそこにパーツが…、ともかく運を天にまかせてかけつけることにしました。カルロス・コルドベスさんは当時ラジオブラドと名乗る無線局の局長さんで、感謝なことに、そのパーツを持っていてよろこんでゆずってくれました。危機一髪!とんぼ返りでやっと放送に間に合いましたが、「アンデスの声」第一声は、タッチの差で開始がおくれるところ、本当に冷汗をかいてしまいました。」こうした数々の思い出を秘めながら HCJB は半世紀にいたる軌跡を刻んできたのです。
今年のベリ・カード・シリーズは、過去と現在を一枚に組み合わせ、HCJB 50年今昔特集として、過去50年の歩みを写真でみていただくことにしています。エクアドル郵政省では HCJB のために開局50周年記念切手も発行されました。(初日カバーは日本切手600円でお分けします。)待望の新スーパー・パワー500KW送信機も2月18日には完成祝賀式が行なわれます。その他各地での記念集会、特別番組制作、記念シールやペナントの発行なども予定していますが、これら記念行事を通じて、半世紀にわたる3神の加護を感謝しつつ、さらに神の約束に立って H(宣べ伝える)C(キリスト)J(イエス(の))B(恵み(を))の目標達成に邁進したいと張切っています。どうかみなさまも共に HCJB 50周年をお祝いください。
La Voz
No. 81 (1981 3-4)
スーパーパワー 500KW 短波送信機 完成
まず、リボンが切っておとされ、つづいてスイッチのボタンが押されます。静かに 500KW 送信機が作動を開始、と間もなく出力計の針が早くも 500 を示します。500KW の大出力をかかえて、完成したばかりのスーパーパワー送信機が、今、動きはじめたのです。
1981年2月18日午後3時、HCJB ピフォ送信所にエクアドル政府高官、外交官、地方議員、放送関係者、学校、ピフォの町の人々、HCJB スタッフなど数百人が集まり、500KW 送信機完成祝賀式が行なわれました。約束を交わしていたエクアドル大統領は、国内の非常事態のため出席できず、公共事業大臣がかわってリボンを切りました。安井日本大使も特別に出席下さいました。せまい送信所内にみんなを収容することはできませんでしたが、外にベンチを用意し、大型テントをはって、式のあとにはささやかな祝賀レセプションも行なわれました。
HCJB のエンジニア、ハーブ・ジャコブソンさんが独自のデザインをはじめて6ヶ年、その間、莫大な経費と人材をついやして、その夢がやっと実現したのです。キリスト教放送局として 500KW 送信機を設置したのは HCJB がはじめてですが、ユニークなデザインと効率よい設計で、今後大いにその能力を発揮するものと期待されています。この日、ラルジョム HCJB 放送局長は「出力アップにより、さらに多くの人々に、より強いシグナルできいていただきたい」と述べていました。神がエクアドルの地を選ばれて50年、HCJB の世界放送宣教のパイオニアとしての働きはまだこれからです。スタッフ一同、さらに明日への開拓をめざして、かぎりない意欲を燃やしつづけています。エクアドルのために、世界のために、そして何よりも神の栄光のために!
La Voz
No. 82 (1981 5-6)
旅行の最大のよろこびはおそらく新しい発見ができるということでしょう。はじめてまのあたりにする自然の景観、思いがけない新しい見聞。知らなかった友との出会いもまた楽しいものです。旅のつれづれは、いつまでも心のアルバムに忘れがたい思い出を残してくれます。
今年もHCJB旅行団がやってきました。開局50周年にあたる1981年は、特別に毎月旅行団が編成されることになっており、迎えるHCJB放送局でも大いそがしです。HCJB旅行団に加わるメンバーは、北米の教会の人たちが大半で日頃HCJBの働きのために献金して下さっている人々です。それだけにひとりひとりがHCJBを直接自分の目で確かめサポートしている宣教師と現地で交わることは、とても意義深いことでありHCJBの今後の働きにもつながることになります。エクアドルの国はじめての人が多いためスケジュールには赤道碑めぐりをはじめ、キト市内観光、インディオの朝市訪問なども組みこまれています。着いた夜は音楽レセプションです。エクアドル民謡や賛美歌の数々でくつろいだあと、旅行団のメンバー紹介があります。翌日からは、HCJBのラジオ・テレビ・病院・伝道などの各部門別に食事を共にしながら、その仕事の内容を旅行団に説明します。日本語部も折紙や書道を披露してユニークな紹介をしていますが何よりも地球の裏中から広い南米の日本人のためだけではなく太平洋をこえて日本へも電波がとどいていることは旅行団にとっては、新しい発見になっているようです。
「HCJBの印象は?」この質問に旅行団のひとりは次のように答えてくれました。「立ちならぶアンテナ群やアマゾン源流の水力発電所にも目を見はったが、HCJBの電波がアンデス山脈からこうして世界のすみずみにまでとどけられている現実、しかもすでにその働きが半世紀を迎えようとしている。その重みは尊い。まさにHCJBは神が選び、神が立て、神が用いておられる働きであることを確信した。」真の発見の旅とは、新しいものを見いだすことではなくて、ものごとを新しい目で見るようになることではないでしょうか。
La Voz
No. 83 (1981 7-8)
そこには何かが隠されている。
行け、そして見つけ出せ。
早く行って山々の後ろを捜すのだ。
何かが山の向こうで
ゆくえ不明になっている。
そして、あなたを待っている。
行け!
キップリング
巨大なアンデスの峰が目の前に姿をあらわした時、私たちは息をのみました。そこには遠くから眺めるいつもの優しさはなく、山としてのたくましさをみせられたからです。千古の雪をいただいたカヤンベの頂上(標高5,790米)がすぐそこにあるのです。氷のように冷たい風が雲を吹き払うと、瞬間、白い峰が輝き、その壮大さはまさに別世界でした。
山小屋(4,500米)に車で着いた後、ひと休みした私たちは、ごつごつした岩場を小一時間ほどのぼり、五千米に挑戦しました。一歩すすむだけで心臓が破裂するほどの苦しさ。まるで立っている地面が鼓動といっしょに波打っているようでした。それでも氷河のひだに青白く光るブルーアイスをみた時にはどんな苦労もふきとぶようでした。アンデスなどの雪山でしかみられないといわれる青氷の美象は、実に神秘的でまさに体ごと吸いこまれるような不思議な魅力にとりつかれました。危険を冒しても山に登る人たちの気持ちがわかるような気がします。
山は私たちにいろいろな事を教えてくれます。
まず、山は動きません。山の天気はかわりやすいといわれますが、まわりの変化にまどわされず静かにそびえ立っています。人間はその実動じやすいものです。他人をとても気にします。他人と自分を比較して、争ったり、敵対したり、その結果傷つけ合うこともしばしばです。
特に現在の日本はピラミッド型のタテ社会で、人間の価値を判定するにも序列社会の肩書きだけでみようとします。人生のスタートである受験勉強にまきこまれて有名校の肩書きをめざすのもそのためです。努力することは実に尊いことです。しかし、それが「タテ登り競争」にエスカレートして友人をライバルにして、いがみ合いになっていることも否定できません。
私たちは決して他の人々と比較されるものではないのです。あなた自身はこの全世界であなたひとりだけなのです。神はあなたをそのようにつくられました。そして愛され、あなたに割りあてられた能力に応じて育てようとしておられます。他人のことをいちいち気にすることはありません。神に直接目を向け、あなた自身をきずきあげることの方が大切なのです。自分本来の能力を見出し、それを生かす道をどうか歩んで下さい。山のような信仰を持って。
あなたの心に、まっすぐ道を歩ませよ。
(旧約聖書 箴言 23:19)
La Voz
No. 84 (1981 9-10)
赤道の国エクアドル 日本人大運動会
「それ引け!」空気がうすくても負けるな!運動会呼び物の綱引きに、応援の声がいちだんとにぎやかです。ここは首都キトのピチンチャの山のふもとにある国立中央大学のグランド、毎年恒例の日本人会主催の家族運動会が行なわれています。老若男女、赤道直下の陽射しをいっぱいに浴びゲームに夢中です。かけっこ、玉入れ、むかで競走、タイヤ転がし、借り物競走、障害物競走、対抗リレーなど日本の運動会をなつかしみながら、家族ぐるみで楽しい一日を過ごしました。
かけっこといえば、ウサギとカメが競争してカメが勝ったという童話を誰でも思い出すことでしょう。ウサギのように能力のすぐれた者でも怠けると負けるし、カメのようにノロマでも絶えず努力をつづければ勝つときかされて育ったものです。私たちは何事につけ「頑張れ!」という根性第一主義が精神的バックボーンになっているようです。そして追いつけ追いこせというガンバリズムが現代の高度経済成長をなしとげたことも事実でしょう。しかし、よく考えてみると「カメでさえ努力によってウサギに勝てた」という解釈には、むやみやたらと他人に追いつくことを強調する危険性がひそんでいないでしょうか。たしかに日本人は単一民族、同質社会でくらしているため能力の個人差はそれほどないようです。ところが適性となると多種多様です。ウサギは陸上では勝てても水中ではカメにかなわないはずです。ひとりひとりの能力も進む世界、従事する仕事や職業によっては、多様な結果をもたらすことは確かです。とかく一つのゴールだけをめざして我我(無我夢中)で競争している現代の日本でほんとうの「私」をまず発見することです。そして、その上で才能を最大限に生かす努力をつみあげて欲しいと願っています。「私」は世界に二人はいないのです。
もしあなたが灌木になれないなら だれかのために良い影をする一本の草になりなさい。
もしあなたがにじますになれないならあなたはふなになりなさい。
しかし湖の中でいちばん元気のよいふなになりなさい。
私たちはだれもが船長になれるのではない。
ある者は船員にならなければならない。
人々のしなければならない大きな仕事も小さな仕事もある。
あなたは何になってもその中でいちばんのものになりなさい!
(ダグラス・マロック)
最上の……を得ようと熱心に努めなさい。 (聖書)
La Voz
No. 85 (1981 11-12)
NHK 海外特派員 取材同行記
リオデジャネイロから国際電話がかかってきて二週間後、NHK特派員の佐藤夫妻が重い撮影機材をかかえてキト空港に降り立った日は、アンデスは突き抜けるような青空でした。
一日目。HCJB局内の下見と取材打合わせ。
二日目。夜の明けぬうちから技術部の車でピチンチャ山にのぼり、朝もやのただようアンデス山あいに広がるキト市を俯瞰撮影。手がこじかむほどの寒さにこれが赤道直下かとびっくり。下山して日本語部の取材カーに乗りかえ、キト北のオタバロ村へ。ここは織物のふるさと。トウモロコシ畑にかこまれた低い土づくりの民家の土間に並べられた昔ながらのはたおり機。大人は行商に出かけるので織り手は12、3才の少年たち。下絵はなく、紋様はまさにオリジナル。みんなのなごやかなふんいきが印象的で、手仕事のよろこびを感じさせられました。
三日目。朝焼けをカメラにおさめた後、インディオの朝市に出かけました。広場いっぱいに並べられた壁掛け、衣類、日用雑貨、食料品、玩具など、実に色あざやかです。買う人もひしめいて、広場全体が熱気でむんむん。丁度オタバロ村では年一回の収穫祭がひらかれており、正午近く近郊の村落から祭りにガウチョ(※注:文脈上はポンチョ等の民族衣装、あるいはガウチョ的な装束)をつけた代表が民族おどりをくりひろげながら石だたみの道をねり歩くのにぶつかり、貴重な記録を撮ることができました。後早くオタバロを立って帰路につき、途中カルデロンの谷でパン人形の店に立寄って取材。帰りついた夕やみせまるキトは、はげしい雷におそわれた直後で、まだすこし雨が残っていました。みんなでつついたあたたかいうどんのおいしかったこと。
四日目。ピフォ送信所と赤道碑訪問。
五日目。午前中キトの街とHCJB局内を撮影。午後はスタジオで番組づくりの緊密取材。こうして五日間の取材が無事終わりました。
「今度の取材はとても楽しかったです。」佐藤夫妻のこの言葉は、そのまま人生の感想でもありました。ひとつ目的に向って互いに心を合わせて努力する時、苦しみすらも楽しみにかわることを今回の取材は、じっくり教えてくれたように想うのです。
心を合わせ、志を一つにしてください。(聖書)