FAR EAST RADIO CLUB
For a Beautiful BCL Life!
For a Beautiful BCL Life!
HCJB the Voice of the Andes - La Voz 8
資料提供:Tooru Gouhara
La VOZ
No. 179 (1997 11-12)
ヨーロッパを見て
ここはドイツ。ライン河の悠々たる流れのほとり、中世にドイツ最大の都市として栄えた町ケルン。天をつく二本の尖塔をもった「ドーム」と呼ばれているケルン大聖堂が市民の信仰のシンボルとしてそびえ立っています。(写真上)
表敬訪問したDW(ドイツ海外放送)の新放送会館もノッポ・ビルで高さ138メートル。大聖堂との差は19メートル。どちらも見上げるばかりの建築物。それだけに放送会館からの眺めは抜群で、町並みから周辺の森も野原も一望のもとに見渡せます。
四十二階建てのオフィス・ビルの中にある日本語課をたずねて放送スタッフの吉田慎吾さん、田島亘裕さん、山下博央さん(NHK)にお会いしました。おひるは局内の食堂で小羊のハムに芽キャベツとジャガイモをそえたドイツ料理をいただき、そのあと田島さんからインタビューを受けました。ちょうどDW日本語放送の存続決定の直後だったこともあり短波の将来が話題になりましたが、田島さんは「巷間ではデジタルだの、マルチメディヤだのと騒いでいるが、われわれ現場を守るものにとっての最優先課題はあくまで番組作りです」と断言。放送人としての意気込みを感じました。(写真左)
スイスでは、日本語部元秘書だった吉野真佐美さんを二十五年ぶりにたずねました。今はスイス人と結婚してジュネーブ近くのレマン湖畔に住んで二児の母。近くにある国連欧州本部や新設のオリンピック博物館を案内してもらいました。オリンピック百年の歴史がよくわかり、日本のマラソン選手のゼッケンや靴も展示されていて長野やシドニー・オリンピックへの盛り上がりがみられました。ヨーロッパ最高峰モンブランにも足を伸ばしました。ふもとのシャムニーの村からロープウェイで南峰までのぼり、陽光を浴びてふっくらとしたモンブランの白い肌を目前に、彼方には重なる岩肌の間からマッターホルンの三角峰が眺望できるという、まさに最高のひとときでした。フランスでは、朝日新聞パリ支局長の小里仁さんと再会。フランス料理の粋エスカルゴ(かたつむり)をレストランでご馳走になりました。八年前、リオ駐在中にガラパゴス諸島の観光旅行にきて「アンデスの声」に放送出演したお嬢さんふたりも一緒で、食後はイルミネーションにかがやくエッフェル塔公園を散策しながら歓談にふけりました。オランダは花と風車の国。運河が交差する街に赤レンガと三角屋根の細長い家が並び、窓辺には色とりどりの鉢植えが飾ってあり、まるでお伽の国へきたようでした。石造りの教会の鐘楼から時を知らせる平和な鐘の音がひびいてくると、このまま王子と王女の素敵な旅がいつまでも続くような、そんな夢をいだかせてくれるヨーロッパ四週間、の旅でした。
La VOZ
No. 180 (1998 1-2)
ゴミ谷の子供たちに 愛のプレゼント
切り立った崖にはさまれたゴミの谷。キト市民の出すゴミを満載したダンプトラックが砂ぼこりを上げながら忙しく往復しています。ゴミがはき出されるたびに、待ち構えていた子供たちが、目ぼしいものを手に入れようと蟻のように群がるのです。いつの頃からか、谷底の埋立地の崖際に廃品回収を生業とする家族が、板囲いの掘立小屋を立てて住みはじめ、その数は子供だけで三百人もいると言われています。どの子供も着のみ着のままの薄汚れた姿で、はいている靴もすり切れてしまって、あいた穴からは足の指がのぞいているという有様です。
クリスマスの近づいた快晴の土曜日。HCJBの有志とアライアンス・アカデミーの高校生が数台の車に分乗して「Zambiza」と呼ばれるゴミの谷へ向かいました。車には五百人分の食事と飲み物、お菓子をつめた袋、それに型やサイズをとりまぜた五百足の靴がつめこまれています。誰からもかえりみられないゴミ谷の子供たちに、今年は靴をプレゼントしようという呼びかけで実現したものです。ゴミ谷では、子供たちはまず手をつないで円陣をつくり、歌や綱引きなどのゲームに興じ、遊びつかれたところで昼食を腹いっぱいいただき、最後に靴が手わたされました。長い列に並んだひとりひとりが自分で気に入った靴を選びます。よちよち歩きの子供から大人まで家族ぐるみで新しい靴を手にして、みんなの顔はとても嬉しそうです。ゴミ捨場の住民たちにとっては、これがはじめてのクリスマスでした。
神様はこの世界を深く愛しておられます。そして、その愛が人から人へと大きな波紋となって広がっていくことを願っておられます。愛の本質的なおくりものは心そのものです。おいしかった食事よりも、もらったお菓子の袋や靴よりも、子供たちにはその愛が心の奥底にとどいたに違いありません。「自分たちのことを心配してくれ、親切にしてくれる人がいる。この世の中で人間はひとりぼっちではないんだ。」このことばを心の中で何度もくりかえしながら、ゴミ谷の子供たちは、この日、その冷えた心にほのかな愛のぬくもりを感じたことでしょう。(今週のハイライトで12月12日/19日に放送)
La VOZ
No. 181 (1998 3-4)
コンドルは飛ばず
🎵飛べ飛べコンドル 無限の空を
アンデス高原の影よ 南アメリカの象徴
インディオ民族の血 ・・・・・・🎵
スペインに滅ぼされたインカ帝国とその末裔であるインディオの象徴ー「コンドル」 1917年にペルーの民族音楽家アロミアス・ロブレスによって民族オペラとして発表されて以来、被征服者となったインディオの嘆きと自由への渇望が切々と歌いあげられたこの歌は、アンデスの自然をバックとして聞く者の心に深い感動を与えつづけているのです。
最近、コンドルの姿がエクアドルでもめっきり少なくなり、自然環境保護団体では七月七日を「コンドルの日」として定め、保護鳥コンドルの実態調査や飼育を積極的にすすめることになりました。現在エクアドルでは、生息するコンドルの数は75羽と保護されているもの20羽のあわせて百羽足らずしか確認されていません。では百年前にはどのくらいのコンドルがいたのでしょうか。当時、エクアドルのアンデス未踏峰に挑んだ世界的登山家エドワルド・ウィンパー氏の記録をのぞいてみましょう。「エクアドルの最高峰チンボラッソ(6,310㍍)に登った時のことだが、大きな鳥がたくさん飛び交っていて恐ろしいようだった。上を見上げてもその黒い大きな鳥が我が物顔で飛んでおり、下をみても十二、三羽が大きな翼をひろげて飛んでいた。その鳥は毎日見られ、大空の端から端をゆっくりと泳いでいる感じだった。」
空を飛ぶことのできる陸鳥のなかでは最大のコンドルは翼を広げると三メートルを超え、南米の山岳地帯を中心に生息する鳥です。隣国コロンビアやペルーでも、やはりコンドルの数が減ってきたということです。そこで関係者はコンドルを保護するとともに人工飼育してその数をふやすことを考えていますが、コンドルは繁殖率が低く、一年おきに一羽のヒナをかえすだけで、しかも一夫一妻制を守っていることが支障となっています。もう一つはエサの問題です。体の重いコンドルは、太陽の熱で起きる山の上昇気流を利用して四千五百メートルあたりまで上がり、上空からするどい視線で動物の死体をみつけて腐肉をエサにしています。ところが地域開発がすすむにつれて野生の動物たちが姿を見せなくなってきたのです。またコンドルの住む地域が国立自然公園に指定されると、観光客やピクニックの家族連れなどで人の往来がはげしくなるのも原因のひとつになっています。地域住民たちが家畜を飼っても、自分たちのため天敵の餌食にならないよう守ってしまうので、ますますコンドルの口には入らなくなってしまうのです。動物の腐肉を食べてくれるコンドルは残飯整理役です。地球汚染の残留物の掃除をしてくれるコンドルは自然環境の管理に重要な役割を果たしている鳥といえます。頭に赤い王冠をいただき、するどいくちばしと首のまわりの白いえりまきはまさにアンデスの王座にすわる鳥としてふさわしい風格を備えておりエクアドルの国章にもつかわれています。王者でありながら僕として仕えるコンドル。しかも民話では「コンドルは老いると高所の湖で水浴して若返る」という言い伝えも残っています。青く澄んだ無限の空をコンドルが群れをなしてゆうゆうと舞う姿が一日も早く見られるよう願わずにはおられません。
La VOZ
No. 182 (1998 5-6)
森のオリンピック
森の中で暮らす人々のスポーツの祭典。第一回アマゾニア先住民競技大会が開かれました。
ペルーとの国境近くのエクアドル・アマゾン流域には、森の恵みだけを頼りに生きる狩猟採集民が集落をつくっています。しかし、これまで部族間ではたえず敵同士としてのにらみ合いや殺し合いが絶えませんでした。それだけに、今回東部ジャングルの七部族四百人が参加しておこなわれた競技大会は、部族間の理解を深め、森と人との共生を考える意味でも画期的なイベントとなりました。空軍が輸送協力したとはいえ、ほとんどがカヌーで何日もかかって川を下り、吹矢を入れた筒をさげて裸足でかけつけました。
開会式は五輪なみに聖火が赤々とともされ、角笛が高らかに森にこだますると選手宣誓。色鮮やかな羽根の冠を頭に、槍や吹矢を手にした半裸姿の選手たちが、皮太鼓のリズムにあわせて列をつらねました。
競技種目は、生活に根ざしたものが多く、まず吹矢から木登り、カヌー漕ぎ、手づかみによる魚採り、チチャとよばれる地酒(材料はユカまたはマニオックとよばれるイモ科)の早飲み、早泳ぎ、もぐり、斧による大木切り刻み、草相撲など。近代スポーツの室内サッカーとエクアバレー(エクアドル独自の三人チーム)では若者たちが熱戦をくりひろげました。各競技の優勝者には金、銀、銅のメダルが授与されあまり表情をみせない顔もこの時ばかりはうれしそうでした。土が濃く匂う森の中、詰めかける観客もいない、ダフ屋もいない、五輪デザインのグッズ売りもない、純粋にスポーツに興じる人々による平和なオリンピックは文明社会が失いつつあるものを思いおこさせてくれました。これからもスポーツがもたらす一体感を大切にし、さらにいい形で森の生活に生かしていって欲しいものです。
La VOZ
No. 183 (1998 7-8)
アンデスを走る鉄道の旅
汽笛一声、始発駅キトをゆっくりと走り出した列車はすでに屋根には乗客がびっしり。私たちもやっとその切符を手に入れ貨車の鉄梯子をよじのぼって仲間にいれてもらった。屋根の上には鉄板が敷いてあるが、そこに座っても屋根の傾斜があるので足をのばすとすべり落ちそうだ。がたんと揺れてもつかむところもない。そのせいか一時間おくれで発車したのに急ぐ様子はさらになくまさに徐行運転だ。キト市南の朝市にさしかかった。前方に目をやると、バナナやパイナップルを山積みにした木造トラックが踏切で立ち往生している。牛たちも線路の上をのそのそ歩いている。うるさいほどの警笛も効果なし。やむなく列車は臨時停車。これでは時刻表はつくれない。郊外に出ると列車はスピードをあげた。一面トーモロコシや大豆畑がひろがり、農夫たちは手を休めて列車を見送る。子供たちは家からとびだして笑顔で手をふる。犬も負けじとばかり走りだす。カーブで列車が大きくゆれるたびに屋根の上の若者たちが奇声をあげる。
森林あり、ふかい渓谷あり、山々もみえかくれしてついてくる。車窓からの切りとられた風景とは違ったパノラマの絶景がつぎつぎとうしろに飛ぶ。肌にあたる風がひんやりとしてきたと思ったら標高3千六百米近い高原の駅コトパキシーに着いた。大草原にぽつりと建てられた駅舎は北欧風な三角屋根。冷えたからだをあたためてくれるホット牛乳とトーモロコシが飛ぶように売れる。駅にひとつしかないトイレの前は女性が長蛇の列。名峰コトパキシーは雲におおわれその姿をみせてくれなかったが、登山客の一行はここで下車。写真をとるためにぶらぶらしていると、発車ベルもアナウンスもないまま列車が走りだした。あわてて列車に手をかけ鉄梯子をよじのぼって屋根にたどりついたが置いてけぼりになるところだった。線路は次第に下り坂になり、列車はスピードをあげて急カーブをきりながら進む。あたりは荒涼とした草原からふたたび平和でのどかな牧草地帯に変わる。澄んだ空気がここちよい。キトを発って四時間、屋根の上に鈴なりになった乗客をのせた列車は高原を走りぬけてアンデスふもとの町ラタクンガの駅に無事すべりこむことができた。アンデス高原を走る旅はここで終わった。 (今週のハイライト 8月放送)
La VOZ
No. 184 (1998 9-10)
アマゾン中流吟行 マナウス句会文集
九月十五日
港に着くと、待機していたポンデスチーノ号に一驚。九つの吊床はみなそれぞれの色合いで河風に涼しく揺れる。一行はマナウス出発と同時に句帖を手から離さず、句材ひろいに懸命。一方婦人達は夕食の準備に余念がない。夕食後、最初の句会をひらく。恐れていたアマゾンの藪蚊は一匹もいなかった。船腹をつつ波の音を聞きながら吊床の眠りについたのは十一時すぎだった。(良夜)
九月十六日
午後三時頃、空模様が一変して来た。大江の真中で大きなスコールに襲われる。船は大揺れに揺れ、白い雨が甲板をたたきつける。エンジンのうなりに会話の私はこわくなって船柱にしがみついた。この時化(しけ)ものもの三十(ママ)分も続いただろうか。四時頃魚群の大異動を捉えた漁船に出遭ったのである。三十トンはあろうかと思われる船が吃水(きっすい)まで浸かって魚を網からタモですくいあげていた。すこし分けてくれないかと頼むと大箱いっぱいに入れてくれ代金は要らないという。夕食に料理して全員で舌鼓を打つ。マナウスで氷漬けの魚を食べなれている私共には絶品であった。夕食を終わって船上句会。ここは虫が多い。話していると口の中まで入ってくる。虫という虫が音集まってくる程のつぶである。今夜は寒くなく夜空が美しい。けれどもあまり多い虫の来襲で船の灯を早く消して早めにみんな吊床に潜った。(山口くに)
アマゾンの黄河の白雨一瞬に
野猿等の黒き河辺に草青む
遊船に汚れうける老衰せて
遊船を追うて■える河イルカ
人家なき放牛の島春の澁
朝凪や魚紋ところどころかな
九月十七日
アマゾン河畔船上の第一夜は明けた。蚊の群の襲撃もなく、本当にいい一夜だった。遮るもののない河面の東辺は真赤な朝焼、燃え盛る火の玉はコロリと水平線を離れると、水は照り輝き、朝焼けは次第にうすれ、やがて強い強い太陽の輝きに変わる。百五十馬力のエンジンの音も軽快に船は岸を離れて大江に浮かぶ。やがて遥か遠くに拓けた一叢の牧場が見える。かつての昔、昼なお暗いカカオとゴムの混淆林(こんこうりん)に囲まれていた当時のイメージは全く失せてしまった。やっぱり時代は変遷し経営も変わらざるを得なかったのだろう。香(ママ)迫ると牛群も囲いに集まり、鶏、家鴨、豚の親子連れも多く見られた。(内海海舟)
九月十八日
四十年近く暮らした我が家で朝を迎える。この家を去って五年目。私が出た時そのまま、残されたトランク、古い婦人雑誌まで捨てずに残して有り、息子や嫁の温かい心が嬉しくもう一度来て整理がしたいと思いました。私の植えた木々も皆大木となり、それぞれ季節の果実をつけていました。
血縁のなき孫の迎える老の春 敏子
流れ木の切株残る土手青し 敏子
ところがこの場所に一つの異変が起こり、こうもりの子が落ちてきて奥さん方の胸の上を這い廻り大騒ぎをしました。でも網戸越しに見る明星は美しく輝き、夜風も涼しく家の中は網気配も気になりませんでした。けれども外側の蚊の群がはげしく皆さん用足しには閉口されたことでしょう。句会の後、海舟さんが舟の中で寝られるので養子さんがお連れした時、歩板を踏み外され泥の中に落ち込まれたそうです。でもお怪我がなくて幸いでした。
良夜 踏みそこね落つ泥沼に春の月
平坊 海舟
La VOZ
No. 185 (1998 11-12)
メリークリスマス
二千年前の昔。
くさて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごを捜し当てた。(新約聖書ルカの福音書2章8節〜16節)> これが世界ではじめのクリスマス物語です。
花と教会に囲まれた赤道の国エクアドルでは、クリスマスが近づくと、それぞれの趣向をこらして羊飼い、天使、博士たちに扮した子供たちが教会へ向かって行進します。町のブラスバンドも加わってにぎやかです。教会の広場では、屋台が並んで色とりどりのカード、デコレーション、ローソクなどクリスマスグッズを売りはじめます。中でも木彫や陶器で作られた救い主誕生の馬小屋の場面を再現するミニ置物は南米独特で、クリスマス・ツリーが普及する以前からありました。これは家庭で飾るためのもので、居間や食堂の一隅がそのために使われます。大小さまざまな贈り物もそのそばに置かれてクリスマス・イブを待つのです。当日になると親類一同や友人を招いてのクリスマス・ディナーのあとは交換プレゼントです。その場で包みをひらきながら、親が子に、子が親にと家族全員がプレゼントをわたして感謝の気持をわかちあう姿は実にほほえましいものです。一方、貧しい子供たちは家々をたずねてキャンディをもらい歩きます。「レガレメ・ラ・ナビダド(クリスマスの施しを)」と叫びながら家の玄関先に来ると、あらかじめ用意された飴、ビスケット、ガムなどを入れた袋が手わたされます。このように毎年クリスマスには、神から私たちへのすばらしいプレゼントである救い主の誕生を祝って、さまざまな行事がくりひろげられているのです。みなさまも楽しいクリスマスをお過ごしください!
La VOZ
No. 186 (1999 1-2)
両国の友好促進をめざして ウルトラエスペック会社社長 井上順八さん 談
エクアドル太平洋岸の漁業都市マンタと日本の大阪府堺市のロータリークラブが友好クラブを締結して六年になります。その間、両国の親善を深めるための交流を重ねてきました。これまでの主なプロジェクトとしては、マンタ市で日本文化紹介のフェアを開催したり、市民のために必要な車椅子、消防ホース、眼鏡、医療用品、寝具、文房具、スポーツ用品などを日本からとどけたり、特に去年は高島屋を会場にエクアドルの新進画家十二名による九十点の作品展示即売会を行いましたが、二日目ですべて売約済みになるほどの盛況でした。その収益金は、すべてマンタ市の無料診療施設とリハビリテーションの建設につかわれてることになっています。さらに今年は、アメリカのロータリークラブから寄贈された身体障害者用の各種器材がとどいていますので、それらが実際に稼働できるよう地元での施設整備に力をそそぐつもりです。
一方、日本との関係ではエクアドルの食品を日本に紹介したいと考えています。このごろは多種多様なパンが出回っていますので、バナナを使ってバナナ・パン、ポテトチップのかわりにはバナナ・チップスと南米の味と香りを楽しんでもらえたら本望です。また日本では、チョコレートが健康食品として注目されていますが、過去においてエクアドルは世界では最も良質のチョコレート産出国だったのです。現在もエクアドルは、バナナ輸出では世界一。エビの養殖も、ボタンなどに加工されるタグワ椰子の産出も世界一です。こうしたエクアドルを代表する名産品がこれからも日本にもっともっと知られるように努力したいと願っています。
ところで、去年はエル・ニーニョ現象のため海岸地帯は大きな被害を被り、今でもその復旧作業に追われています。私が従事しております漁業関係でも打撃は大きく、最盛期になってもシーラやカジキマグロなどはすっかり姿を消し、その反面、カツオやキハダマグロなどはとれ過ぎて売れなくなり港では大型巻網漁船が船底に魚を満載したまま何隻も立往生しています。異常気象による後遺症はいましばらく続きそうです。
新しい年を迎えました。といっても、すべてがあらたまるわけでもありませんが、エクアドル、日本、さらに世界にとって、不安と不況の時代を乗り切るための跳躍の年となるよう皆様とともにこころをあわせて祈りたいと思います。
La VOZ
No. 187 (1999 3-4)
私は今年で35歳。会社から一年間の休みをいただきましたので、海外旅行を思い立ち、最初に訪れたのが、ここエクアドルです。選んだ理由は、中学生の頃きいた「アンデスの声」が一体どんな街からとどいていたのか、それを自分の目で確かめたかったからです。
当時はBCLに乗って短波ラジオを買い、世界中の電波を追いかけていましたが、ダイヤルをまわしてチューニングをして、はじめて電波をとらえるという困難な時代でした。それだけに日本語放送が飛びこんできた時は、ものすごくうれしくて、少年時代の夢を大きくふくらませながらきいたものです。遠い異国の地からとどくだけに、それをキャッチした時の醍醐味はひとしお大きかったわけです。そんなある日地元の新潟でBCLファンの集いがひらかれました。県内各地から千名を越すファンが新潟市公会堂につめかけ、尾崎さんもゲストとして話しをされました。あんな遠いエクアドルから来ているんだ。しかも声だけでなくて現実に会えたということは、少年の私の心に非常に強い印象として残っています。そして、驚いたことは、HCJB日本語部のオフィスの壁にその時の写真が貼ってあったのです。さらに驚いたことは、たまたまクイズにこたえるためにステージにあがった自分をそこにみつけたのです。(写真上)二十余年前の自分の姿をキトでみるなんて想像もしていませんでした。当時の思い出がうわぁとよみがえって深い感動をおぼえました。
「アンデスの声」も今年で35年。私の人生と同じになります。私が生きてきた分だけ、ここからずっと放送されているということは、すごいことと思います。事実、私の心の中には、その「アンデスの声」の祈りがとどいていて、人生の折々にそれらがよみがえってくるのです。今、日本だけではなく、世界的に経済状態がよくありません。人々は自信を失いかけており、心に不安をいだいています。そのような時に必要なのは、心の支えです。現実を的確にとらえて、自己を再認識して、自信をとりもどすことが優先課題です。そのような時、「アンデスの声」の放送が果たす役割はいっそう大事なものがあると信じています。
私は、携帯用パソコンをつかって、旅行先からレポートを映像といっしょに友人に送っています。中にはHCJBのリスナーもいますので、南米大陸の旅を同時進行で楽しんでくれていることでしょう。私はバス関係の会社(日野自動車工業株式会社)につとめていることもあって、もっぱら好きなバスで旅行しています。このあとは南下して、インカの遺跡、イースター島、パタゴニア、ブラジルのカーニバルなどをおとずれる予定です。(1999年1月13日、20日、27日放送)
La VOZ
No. 188 (1999 5-6)
「アンデスの声」日本語放送開始35周年記念特別企画
第三回 モシモシHCJB 聴取者電話参加ライブ番組
「今日は五月一日、ただいまキト時間で朝六時半をまわったところです。高山都市キトは東の空が明るみ、西の空にかかっていた残月も次第に消えてゆき、朝焼けが空いっぱいにひろがりはじめています。35年前の朝とおなじようにアンデスの山々と空は美しいさわやかなたたずまいをみせています。」開始アナウンスをしている間にスタジオ内の電話受信をしらせる回線ランプが点滅しはじめました。ラファエル君がまず電話をうけて手早く紙に氏名をかきとります。電話がスタジオに切り変わると、ヘッドフォンから電話の声が流れてきます。「モシモシきこえますか?」「はい。よくきこえています。お話しください。」はるかアンデスまで自分の声がとどいていることがわかると、電話の声がいちだんとはずんできます。結局、放送中ずっと電話は鳴りっぱなしでした。前半三十分には14名、後半三十分には16名、合計30名の方々と話しができました。一時回線が不調になり、ライブ放送なのでどうなるのかとはらはらしましたが、なんとか番組を続けることができ、収録した番組はその日の欧州、南米、北米向けに放送し、後半三十分の番組は翌日に全地域に再放送できました。
当日の電話参加者は北海道、山形、秋田、長野、東京、神奈川、静岡、愛知、三重、大阪、福岡、大分の各県で、年齢層は17歳から63歳におよび、職業も高校生、高校教師、大学事務職員、会社員、地方公務員、作業員、機械技術者、画家など広範囲にわたっていました。中米のグァテマラからと北米のシカゴからもかかってきて男性だけではなく女性や子供の声もきかれてなごやかな雰囲気でした。その半面電話回線がつながらなくて十回もトライされた方もあり、この番組のために苦労された方々には深くおわびいたします。
「アンデスの声」35年の歴史は、放送を支えてくださった皆様と共に歩んだ足跡そのものであり、国際短波放送の魅力と成果は実にそこにあるような気がしました。