FAR EAST RADIO CLUB
For a Beautiful BCL Life!
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HCJB the Voice of the Andes - La Voz 7
資料提供:Tooru Gouhara
La VOZ
No. 169 (1996 3-4)
南米ふれあいの旅 HCJBリスナーをたずねて
信仰さえ捨てなければ 押山武五郎氏 在伯63年の歩み
私の曾祖父は幕末の頃、浜松の奉行の官職にあり「切支丹禁令」の高札が物置にあったのを覚えています。その「ヤソ」嫌いが、当時東海道を徒歩で宣教していた仏人宣教師から受洗したのですから正にこれは奇跡ですね。
八人兄弟末っ子の私が満二十歳の春ブラジル渡航を決意した時、母は私にこう言ってくれました。「お前ね、信仰さえ捨てなかったら世界のどこへ行ってもいいよ」 ブラジルについて初めは配耕された耕作地で日雇いとして働きましたが、二年目には同船で知り合った家族の娘と結婚、独立して綿作作りに精を出しました。
そのうち第二次世界大戦が始まり、日本人が集結しているアサイ植民地はブラジル官憲の目がきびしく三人以上集まることすら禁じられ、家内の弟の結婚で披露宴を山中の倉庫でしたのですが、地元の警察に知られてしまい、我々七人全員三日間拘留された揚句、大金五百クルゼイロスを払って釈放されたことがありました。敵国日本ですから情報は一切遮断されており、戦争終結も風の便りで聞くだけで、そのうちスエーデン公使館からの通達で正式に知らされました。ところが勝ち組がそんなことを信じるわけもなくいわゆる負け組(認識派)を国賊として「一人一殺」の過激な行動に走ったのです。私も臣道連盟に入っていて勝ち組だったのですが、常識的に怪しいと思ったので脱退しました。それは勇気がいりましたね。なにしろ生命をねらわれるのですから。その頃は山の中にひそんでいて町へはほとんど出ませんでした。
終戦の年の十一月、日系エスペランサ(信愛)植民地に移り、養鶏その他の仕事にたずさわりました。実は私は洋服の仕立屋なんです。日本で基礎を習った後、本を送ってもらい独学で裁断をおぼえました。あの頃カフェ(コーヒー)の景気が良く、出稼ぎ労働者はみんな洋服を新調して自分の土地へ帰って行ったものです。それで私は大分もうけさせてもらいました。ラジオもその手に入れたわけです。当時植民地はまだ電気がなく乾電池が消耗したらしばらくはラジオもお休みでした。山奥では電池が手に入らないので、今度は蓄電池式の大型ラジオを買いました。日本語放送の少ない時代でしたから「アンデスの声」をみつけてからは家内といっしょに毎晩毎晩きき入ったものです。
1968年の十一月、不慮の交通事故で一挙に妻、長男夫婦と孫二人、三男(十歳)、末っ子(八歳)の七人を失いました。一時はラジオどころではありませんでしたが気持も落ち着いた時、ふと「アンデスの声」と再会、懐かしさのあまり筆を執ったのが昨日のようです。惨事から立直ることが出来たのも信仰のおかげと感謝しています。今私は82歳ですが、ほとんど病気をしたこともなく健康を支えられ、子宝にも恵まれ、現在六人の子供に孫二十人、曾孫二人の大家族になりました。私が時折子供たちに話す移民生活の一端や自己の歴史は私の運命と共に消えていくことでしょう。何ら蓄えのない貧しい生活の連続でしたが、子供たちを育てつつ今日まで守られたことは、信仰を捨てないで生きてきたことへの神からのあふれる恵みでしょう。日本を出る時に母に言われた言葉を、今私が自分の子供たちに言う立場になりました。こんな晩年を私は予想もしませんでした。神の御手を肌で感じる心境で感謝の気持でいっぱいです。
(1996年2月28日、3月6日放送)
La VOZ
No. 170 (1996 5-6)
堀江さん ソーラーボート 太平洋横断へ
堀江さんといえば『太平洋ひとりぼっち(1962年)』ですが、当時の感激は忘れられないでしょうね。
やはり僕にとってのはじめての航海でしたからね。今から思えば反省すべき点も多くありますが、なにしろ23歳でしたから。もともと高校時代からヨット部におりましたから基本的スポーツの延長だったんですね。よく決心して出発しましたねといわれるんですが、決心というよりも、それをやりたいという願望が強くて逆にやめることができなかっただけのことです。出発できるという瞬間は、これまで計画し、準備してきていますから「神様本当に有難う」と、そんな気持でした。
今度で8回目の冒険として、エクアドルと日本を結んで太平洋横断の航海を計画した動機は?
ヨットの航海を続けて33年間、航海に出るたびに海上を漂流しているゴミが気になっていました。中でもどんな淋しいところに行っても船からの廃油が流れているのをみるのが嫌でした。これ以上海が汚れないように、自然破壊が行われないようにと常々思っていました。今から十数年前の世界タテ回り航海でアルミ合金というのはとてもすばらしい材料だというのを再認識しました。これでヨットは出来ないものかと考え、アルミ合金のメーカーの方に相談したところ出来るという返事。それではというのでビール缶などのリサイクル材でヨットをつくり、しかも空気を全く汚さないソーラー・パワー(太陽エネルギー)で走らせたらということに話がすすんだわけです。基本的には今度の航海は僕自身への挑戦と受け止めています。しかし同じやるのならやはり資源の有効利用や自然環境の保護に少しでもお役に立つことができるのであればこんなうれしいことはない、と考えているわけです。(1995年6月/1996年3月放送)
堀江さんの乗ったソーラーボート「モルツ・マーメイド号」は3月20日、赤道直下の太陽がキラキラと海面に反射するサリーナス港ヨットハーバーをすべるように離れました。地元の人達や報道陣の見送りを受けて57歳の「堀江青年」は大きく手をふりながら太平洋に乗り出していきました。Bon Voyage!
La VOZ
No. 171 (1996 7-8)
南米ふれあいの旅<ブラジル編> 聖書のおばあちゃん 日本移民の共同農場「ユバ」矢崎治子 談
私共のおりますユバ農場は、百名ほどの老幼男女の日本人共同体でキリストの精神に根ざし、祈ること、農業すること、芸術することをモットーとしています。二十余年前、長男が思いがけない主の導きでここに移住したのが縁で、私共も日本で定年退職したあと永住者としてまいりました。
私はクリスチャンホームで育ちましたから、生まれた時から神様がいることは当たり前だと思っていました。九歳で幼児洗礼を受け、昭和元年女学生二年生の時に信仰告白して教会員になりました。台北の女学校卒業後は東京のキリスト教の学校へすすみましたが、クリスチャンとしての深い自覚はありませんでした。そんなある日、救世軍の創設者山室軍平先生の集会に導かれて自分の罪深い本当の姿に目覚めたのです。実は私が十歳の頃、山室先生とは台北でお会いしたことがあり、母は先生が伝道旅行に来られた時には世話係をしていたのでよく著書などが送られてきていました。その頃から尊敬していた事もあって、救いを確信して救世軍に献身。そこで同じ救世軍士官であった主人と結婚しました。戦時中は救世軍は解体させられましたので賀川先生のお声がかりで小金井にできたばかりの福祉事業の系列に属する保育園の先生をすることになりました。
賀川豊彦先生とは、母が台湾で伝道集会などのお供をしていたこともあって、後に私が神戸の貧民窟のそばで救世軍の奉仕をしていた頃にはよく祈祷会や集会に出席させてもらっていました。そんなことから賀川先生が保育園を開かれる時に私のことを覚えておられ、まず両親に「娘さんに私の仕事をたのむよ」と断った上で、私には「キリスト教をしっかりやりなさい」と言われました。
自宅前にて:矢崎治子・千勝夫妻
幼児教育にたずさわっていた頃、保育園研修会にいつも講師として来ていただいていた太田俊雄先生が新潟に敬和学園をはじめられる事になり私もささやかながらサポートさせていただいていました。また次男が理科大を出て数学の教師の口をさがしていたので紹介したところ、本人も太田先生の人柄にひかれて即刻教師としてつとめるようになりました。私の「アンデスの声」との出会いはその敬和学園高校のモス校長夫妻が放送されたことがきっかけとなったのです。はつみ夫人がインタビューの中で「ブラジルには矢崎という知人がいる」と話していたことを知らされたのです。しかし、ユバ農場にきて間もない頃の私のラジオは周波数が少なくてきけず、これは困ったなと思っているうちに日本からのラジオが手にはいりそれからずっと「アンデスの声」をきくようになりました。人生いろいろつながりができるものですね。
ユバ農場に来たのは長男正勝がさきに来ていたこともありますが、「キリスト教をしっかりやれ」と励まして下さった賀川豊彦先生のことば、また山室軍平先生の「魂へ行け」という意気込みが私をここまで生かしてくれたのだと思います。ここでは私はみんなにおばあちゃんと呼ばれていますが、これからも小さな魂にしっかり聖書の話を毎日きかせてやりたいと思っています。(1996年4月3日放送)
La VOZ
No. 172 (1996 9-10)
輝く微笑みにひかれて 日本アライアンス教団宣教師 二宮睦子 談
この本に書かれているように、フランシス先生との出会いによって私の人生は変わりました。その当時、教師をしていた戦中派の私には、敵国の宗教という偏見もあって、キリスト教のことなどおよそ聞きたくないと思っていたのです。けれども、あの輝くような先生の笑顔に接した時、その奥にある人生は違うと直感したのです。そして、焼跡のたった一軒残った家で、はじめて福音を聞いたのです。その時は宗教というよりは、道徳的にすばらしい教えとして共感し、「これは聞くべきだ」と自分に言い聞かせて教会に通い始めました。そのうち、自分が考えていたキリスト教との違いがわかってきました。今までは教員という立場から、いつでも子供の前では良い面を見せようと構えた生活、つまり律法の世界に生きていたのです。しかし、本当の神さまは、さばきの神ではなく、愛なる神でした。聖書の放蕩息子のたとえ話に出てくるように、父なる神は、どんな子でもそのままで受入れて下さる方であって、欠点のないものや立派なものだけを求めておられるのではない、この真実に心うたれました。ありのままの私が受入れられているという喜びに満たされ、私は神学校にすすめました。
神学校卒業後、山陰の奥地で伝道していましたが、過労で倒れたため、松山の母教会で副牧師として養生しながら六年が過ぎました。その間に健康もすっかり回復したので、ふたたびどこへでも開拓伝道に遣わして下さいと祈っていたところ、ブラジルときいて「しまった」と思いました。しかし、神さまは遣わされるからには、それだけの責任もとってくださる方です。
あれから35年。ブラジリア伝道は実を結び、現在はバンデイランテに教会堂も完成し、周辺の日系人移住地を巡回しての集会も祝されています。後継者として、ブラジル人の献身者が与えられたのをはじめ日系二世の安井牧師が日本語/ポルトガル語のバイリンガル牧会者として、またこの地域の教区長としての責任をもって活躍してくれています。私も72歳になり、まわりから引退のことをきかれますが、昔は計画性があったのですが、この頃は人間の知恵で立てた計画よりも、その計画を越えたことをして下さる神さまにおゆだねしています。できれば一歩退いたところで、自分にふさわしいご用があるかぎり奉仕させていただきたい、そう思っています。フランシス宣教師が伝記の中に「挫折や失望は宣教師の間にもある」と書いていますが、私の宣教師生活の中でも、健康の問題や失意のどん底に突き落とされるようなところを通されて来ました。けれども、神さまによりすがっていく時に、神さまは本当に真実な方であることを今しみじみと思わされ、すべてを感謝しているものです。
「わたしは決してあなたをはなれず、また、あなたを捨てません」(イエスの言葉)
La VOZ
No. 173 (1996 11-12)
'96アトランタオリンピックを考える 齊藤淳一
今夏、米国ジョージア州アトランタ市で開かれた近代五輪百周年を記念した大会には、私もその招致活動を含め8年余関わり、大会期間中には、競技会場管理運営スタッフとして、各国の選手や役員、報道関係者へ主催者側として各種サービスをご提供する任に就いていました。国連加盟国数よりも多い197の国と地域が参加した、まさに「世界最大の国際的イベント」の中、多くの日本人の方々にも接しました。
海外旅行がより一般的になるにつれ、海外での日本人の行動やマナーについて云々されることも多くなってきました。五輪も例外ではありません。私の仕事は競技会場内だけにとどまらず、外に出ても道案内から通訳まで多岐にわたっておりました。ある日、街中で日本選手団のユニフォームを着ている人たち数人が、お巡りさんを囲んで道を訊ねている様子。言葉が上手く通じないのか、お巡りさんもお手上げ状態のようでしたので、早速、私が日本語で「道をお探しですか?」と話しかけました。お巡りさんの方は、私のユニフォームをみて、こういう場面に登場するサービス・スタッフであると理解し、英語で「あとはお願いします。サンキュー」とその場を去っていったのですが、残った日本人選手一行は、道に迷っていた所為もあってか、私が日本語で話しかけているのにまだ気がつかない様子。それに気づくまでかなり時間がかかったのですが、いざ日本語が通じることが判るやいや、今度は人に道を訊ねる言葉遣いとは思えない口調で話し始めたのには、私の方がビックリしてしまいました。その選手の皆さん、お顔を拝見すれば、日本では「メダル候補」としてマスコミに取り上げられている方々だったので二度ビックリ。それでも私の仕事ですから「そこに見える信号の所を左に曲がり…」と実際に手で信号機の方を指差しながらご説明し、「おわかりでしょうか」と目の前を見ると選手の姿が忍者の如く消えていました。あれ? と思い、自分の指示している指の先を見ると、その人たちが歩いていたので、三度目のビックリ。何か一言忘れては…。挙げ出すと切りがないのですが、その他にも「選手の家族だから」と診察室での順番待ちを早めるよう迫った某メダル候補選手のご家族。首から提げている身分証を水戸黄門の印籠と思い込み、横暴な振る舞い三昧で不評をかった報道関係者。撤収観戦にいらした一般の日本人旅行者に至っては、私の方がその場をそっと離れたくなるような場面にも遭遇したり…。他の五輪スタッフとの話に出てくる日本人像たるや、私も日本人をやめようかと思うような話がいくつもありました。もちろん、私の接した方々の中には、国際的な場でも通用するきちっとしたマナーの持ち主も少数ながらいらっしゃいました。また、五輪期間中、アトランタにいらしてくださったすべての日本人の方に私も接した訳ではありません。でも、その仕事上、今回、相当数の日本人に接したことは事実ですし、その中の大多数の方々が上述のような調子だったことも事実です。
一方、競技会場内での選手ですが、まるで「借りてきた猫」のようにおとなしかったのが印象です。試合の前後にご利用いただけるよう、選手ラウンジにはスナックや果物、飲み物などもご用意してあったのですが、私たちが用意するそばから「イナゴの大群」のように食べ尽くしてしまう各国選手の中、日本の選手はほとんど手をつけず、不気味なほど静かでした。いま思い返すと、食べ散らかしていた選手ほど最後のメダル争いにまで残っていったのが、何を意味していたのか…。
私は、同じような状況下での他の国や地域からいらした方々の行動などと比べることで、ちょっと考えてしまいました。それは、「日本人の心には余裕がないのでは」ということです。「アトランタに来て、いま自分がここにいるだけで精一杯。とても周りのことまでは」といった心理状態の方々ばかりだったようにお見受けしました。これでは、その場に即した臨機応変な行動などとても期待できません。日本の社会に欠けていて、いま一番必要なのは、「心のゆとり」とそれをうむための「メンタル・ケア」の充実のように強く感じた機会でもありました。
(競技会場にて〈後方右が筆者〉)
La VOZ
No. 174 (1997 1-2)
日本とエクアドル 理解と協力のかけ橋
エクアドル駐在鳩哲夫大使の1997年新年メッセージから、日本とエクアドルの協力関係について話された部分を、ここに一部再録しました。
日本とエクアドルは、伝統的に友好関係を維持してきましたが、本格的な対エクアドル協力は、1970年代から開発調査をもとに始まりました。その後、大規模な協力が始まったのは、1991年の首都キトへの大型バス28台の無償供与からでした。急激な成長をとげるキト市の交通網の拡張と交通事情の緩和という点で大きな貢献をすることが出来ました。それを皮切りに大型案件としては、二年間にわたり国内八つの病院に対して医療器材を送り届けた他、首都キトをふくむピチンチャ州に対しては、道路建設用のブルドーザーやロード・ローラーなどを寄贈しました。都市集中現象がすすむ中、住民の生活環境改善も緊急に必要になったのをうけて、特にキト市南部で30万~40万にふえひろがった新興住宅地域に対しては上水道施設整備計画を今後二年間にわたって実施致します。
エクアドルは、国の中央を走るアンデス山岳地帯、太平洋岸の海岸地帯、それに東部アマゾンのジャングル地帯の三つの地形に分かれています。そのうち雨の多いアマゾン諸国に住む先住民にとって、道路を整備することは必至です。生産物の輸送が容易になれば、都市の市場経済に参入でき、子弟たちにも都会で高等教育をさずけることが出来るからです。そこでジャングルをつなぐ道路建設のための器材の供与を行いました。
アンデス地方は、とても音楽が盛んなだけに、文化面でも積極的な協力をしています。国立劇場に音響機器並びに照明器具を寄贈した他、間もなく国立交響楽団のために楽器一式が日本からとどくことになっています。一月末には、日本製新しい楽器による最初の演奏会が予定されています。
情操教育とともに体育の面では、エクアドル最大の都市グァヤキルのあるグァヤ州スポーツ連盟に柔道の畳をふくむ体育と機械体操用器材を寄贈しました。スポーツ面では体をきたえ、精神面では音楽がきけるという心身両面での協力に努力を払っているところです。
海外青年協力隊は、五十余名の隊員がおり、キト市をはじめ周辺の都市、村落で現地人との交流を深めながら、若い力を発揮して、技術移転や日本とエクアドル両国の関係強化に一懸命頑張っています。
以前、野口英世博士がエクアドルで黄熱病研究に貢献したことから、記念として熱帯病研究所が設立されましたが、そこに十八年前からプロジェクト協力のかたちで政府専門家が派遣されていました。これまでにも器材を供与したり、スタッフを日本へ研修に送りこんできましたが、ひきつづき最新器材を導入して、もう一歩すすんだ取組みをしたいと願っています。
水産関係では、エスポール大学付属の海洋研究所に五年間協力してきましたが、二年延長して今年七月まで協力をつづけます。現在鯛とカレーの孵化に成功したので、これを海にまいて、零細漁民の生活向上に、あるいは収入増加につなげていくということで、夢がますます広がりつつあります。
日本にとっては、あまり知られていないエクアドルであり、またエクアドルにとっても、太平洋をはさんだ日本は遠い存在になっていますが、すこしずつでも、お互いが近づき合って、両国間の理解を深めることができ、協力関係を強化することができればと期待しながら、今年もすすんでまいりたいと思っています。
La VOZ
No. 175 (1997 3-4)
疲労のメカニズム 名古屋大学農学部 作物科学教室 泉 泰弘
一昨日、無事インドネシアより帰国しました。現地での仕事は、キャサバ(Yuka)をプラスチックのバケツ、あるいは木で作った箱に植えて、根の発達を6回にわたって調査するというものです。まず最初の一週間は、実験に必要な材料をそろえるための買物で終わってしまいました。スコップやホースなど当然あると思っていたものまで無いのに唖然としました。何と言っても箱に土を詰めるのが大仕事でした。ふるいにかけて大きな土の固まりを除いた後で、土を一定量の科学肥料と良く混ぜてから箱に入れるのですが、生育期間が長いものほど大きな箱が必要で、九ヶ月のものでは土の量も六百リットル(約百グラム)にもなります。実験に使用した土の総量は十トン。バケツ二百杯以上を運んだことになります。我ながら良く体力が続いたものです。
今ふりかえってみると、あれほどきつい仕事をしたにも関わらず、夕食を終えた後にラジオを聴いたり、本を読んだりする時間はたっぷりありました。意外に思われるかも知れませんが肉体労働の後は疲れてすぐに寝てしまって何もできないということはなく、逆になかなか寝付けずに3~4時間しか睡眠をとれないこともあったのですが、それでも寝不足になるということはありませんでした。一方、屋外の仕事は何もせずに読書で過ごしたある日曜日などは、眠くなり何度もうたた寝をしたばかりか、夜に入るとすぐに寝てしまいました。体の疲労よりも脳の疲労の方が回復に時間がかかる。これは私にとって大きな発見でした。そして、日本で頭脳労働が大部分の毎日を送っているのは、いろいろなストレスがたまったり、人生の意義について悩んだりと、物質的には豊かであっても精神衛生上は良いことがほとんど無いのではないかと考えました。実際、インドネシアでも、以前奉仕した南米パラグアイでも、働いている時には余計なことは全く考えず、そして持て余してしまうほどの自由時間には非常に充実感を味わっていたように思われます。これに対して、日本では自由時間を傷ついた精神をいやすのに費やし、それすらも足りないといった酷い状態に陥ってしまうことすら何度も経験しました。そうは言っても簡単に現在の境遇から抜け出すことはできないし、下手にそんなことをすれば単なる現実逃避に過ぎないということにもなりかねません。結局のところ、時間の使い方を工夫して心を損なうことに費やす時間を少しずつでも減らす以外に現実的な解決策はないようです。「言うは易し、行うは難し」ですが...
私自身、外国語を学んだり、外国人と交流するのが好きなので、将来は海外からの研究者の受け入れや国際共同研究のコーディネートの仕事にすすみたいと希望しています。
La VOZ
No. 176 (1997 5-6)
オーケストラが新しくなった 高橋 輝
私はエクアドル国立管弦楽団で、二年前から金管楽器のチューバというとても大きくて低い音の出る楽器をやっています。その他に金管・木管ふくめた管楽器の指導も首都キトや国内の主要都市でも担当しております。
毎日いそがしくしているおかげで髪の毛を切るひまもなく、すっかりアンデス風になってしまいました。まわりではクマやトトロなどのニックネームをつけているようですが、私は北海道の江別市出身です。十二歳で中学校のブラスバンドに入り、二十四歳でフランスへ音楽留学して、有名なカルバートソン教授に師事して腕をみがき、チューバ奏者としての歩みを始めました。
エクアドルに来てまず驚いたことは、オーケストラとはいえ演奏する人数が少ないだけではなく、楽器も少なく、しかもその古さといったら、何だか別の星の世界にでもいるような気分にさせられたほどでした。楽団本部の予算は、団員の給料を払ってしまえば底をつく状態ですから無理もないことですが、せめて中古でもいいから楽器が欲しいと願っていました。その矢先、日本からの援助で金ピカの楽器(五千万円相当)が大型コンテナ二個につめられてとどいたのです。ピアノ四台をはじめ、ハープや管弦楽器一式からもろもろの打楽器まで全部そろっており、オーケストラの本部事務所が新品の楽器でいっぱいになりました。団員一同、自分たちの給料では絶対にかえない、いい音の出る楽器を手にすることが出来て大喜びです。そして早速、新しい楽器を披露する感謝コンサートが開かれることになりました。当日は、私自身も「チューバとオーケストラのためのコンチェルト」でチューバ・ソロを演奏する栄誉に浴しました。指揮者のアルバーロ・マンサーノ氏は、日本国の友情に感謝して最後に「さくら変奏曲」を自らの編曲で披露しましたが、キト市在住の吉家紀美子さんの琴を交えての演奏に文化会館大ホールを埋め尽くした二千人の聴衆は大喝采でした。エクアドル代表としてアルテアガ副大統領が、日本代表は鳩哲夫大使がそれぞれステージで挨拶を交わし両国間の友好のきずなが音楽を通しても堅く結ばれるというまさに歴史的なコンサートとなりました。(今週のハイライトで4月3日/11日に放送)
ところで、オーケストラの楽器は新しくなったのですが、今度はそれらの楽器を演奏する人を育てることが大切です。「ひくものの手にあるハープは聞く人を魅惑する。しかし、扱い方もひき方も知らない人の手にあってはハープは重荷となる」 この諺にあるように、事実、エクアドルにはまだオーケストラ用のハープをひく演奏者がいません。しかもオーケストラの曲目の半分にはハープの演奏パートがあるのです。音楽家を育てるのは確かに時間がかかるでしょう。しかし始めなければ何も起こりません。私は現在全国で五百名ぐらいの生徒たちに金管楽器を教えながら、二十一世紀に大きくはばたく音楽家たちを夢見る後輩たちを指導しています。国も違い言語も違い、風俗習慣も違うなかでの働きですが、「音楽だけは、世界語であって翻訳される必要がない。そこでは魂は魂に話しかける」ということを確信して全力を傾けているところです。
La VOZ
No. 177 (1997 7-8)
マッチ箱いっぱいの幸せ *アンデスの餅つき*
エクアドルにはもともともち米はありませんでした。米といえばいわゆる細長い粒でボロボロ。油いため御飯やスープには良くても日本人にはなじめず、正月元旦の朝が来てもお雑煮とは縁遠い生活でした。ある日その事を「アンデスの声」の放送できいた南米のリスナーが、それではとマッチ箱一杯分のもみを郵便で送ってくださいました。送り主はブラジルに住む大石春治さん。27年間にわたり475通のお便りを下さった最多来信者でした。その後何年もかかってそのもみを大事に育てたのは、サントドミンゴ農園主の田辺正明夫妻で、おかげで年々増えためち米によりキト日本人学校でも毎年もちつき大会がおこなわれるようになったのです。(写真上:臼どりをする田辺千代美夫人)大石さんは86歳で亡くなられました。(裏面の大石さんの娘さんからの手紙参照)しかし、きっとモチつきではしゃいでいる子供たちの姿を本人は天国の窓から目を細めてみていたことでしょう。「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」(ジェラール・シャンドリー)
La VOZ
No. 178 (1997 9-10)
HCJB放送局見学と音楽の集い
「うわぁ、HCJBって放送局だけかと思ったら、病院も学校も、印刷所も自動車の修理工場まであるんだ。」局内を一巡して各施設をみた日本人学校の生徒たちの正直な感想。そのあと全員第七スタジオに入って放送の初体験。(写真)
HCJBホールでのコンサートは、第一部がホルへ&道夫コンビによるアンデスのセレナーデ(写真下)とパンフルート奏者サンドロさんによるフォルクローレの演奏。第二部はジャパン・カルバリ・クルセードの福沢路得子さん(写真上)による歌と話し。日本をはじめアメリカ、ヨーロッパのコンサートで活躍中のベテラン福音歌手の歌声は、会場に集まった人々の耳を魅了し、特に外国生活の中で聞く日本語の一言一言は在留邦人の心に、しみいるような深い印象を与えました。
「今から二十年も前、<道端に倒れ死にゆく人に膝をつき手を差し伸べるひとりの女性、マザー・テレサ>の写真集を手にした時から、私は、いつか必ずインドのカルカッタに行きたい、そう願い続けていました。今年二月、その思いが現実のものとなり、私は初めてカルカッタの地に立ったのです。朝五時起床。六時シスターたちとの祈りの時。七時、パンとコーヒーをとり、それぞれ働きの場所へ。「死を待つ人の家」で医療の知識もなく、ヒンディー語もわからない私のできることと言えば、洗濯、掃除、配給。山のように積まれた真っ黒な何百枚もの服、シーツ、タオルをひたすら洗いました。汚物で真っ黄色に汚れた床をこすり続け、汚物がべっとりとついた悪臭ふんぷんの服を洗い、背骨の突き出た背中をそっとさすり、棒のような手足をあたためるようにしてさすりました。何十年もの間、道に寝たきりの人。おしりに大きな穴がふたつあいていて腐っているので、うじを取り出し、汚物をふいて消毒しながら思いました。「神様。彼女も私の姉妹です。」 一歩外に出ると、真っ黒に汚れた子供たちがとびついてきます。その汚れた小さな手の中に、イエス様を見るシスターたち。「現実」というすさまじい世界の中にある「神の国」を見たような気がしました。朝は「死を待つ人の家」、午後からは「孤児の家」でなにしろ精根こめて働き続けました。そうせずにはいられない私の心がそこにありました。それはイエス様ご自身が腰をかがめ膝をついて、私に手を差しのべて下さったことがわかったからです。私の悪臭ふんぷんの汚物を始末して下さったのも、衰え果てた私の身体に手をのべて優しくさすって下さったのも、イエス様だったのです。この人たちのことで神をもっと愛することを、私は知るようになったのです。カルカッタの愛する友へ 心からありがとう...そして、イエス様、ありがとう...」
(赤道で逢いましょう/今週のハイライト放送分より)