FAR EAST RADIO CLUB
For a Beautiful BCL Life!
For a Beautiful BCL Life!
HCJB the Voice of the Andes - La Voz 6
資料提供:Tooru Gouhara
La VOZ
No. 157 (1994 3-4)
吾輩ハ ジャガイモ デアル
スペイン語でジャガイモのことはパパ(Papa)です。日本語では父親のことをパパと呼びますが、南米ではアクセントを変えないと、父親がみんなジャガイモに変身しかねません。つまり父親の場合は発音に注意して後のパを前のパより強く高くあげてPapaと言うのが正しいのです。
それではジャガイモの原産地はどこでしょう。こたえは南米のアンデス山地。インカ民族が栽培したのが始まりといわれています。1537年アンデス山中のソロコタ村で、初めてジャガイモと遭遇したスペイン人の探検家が「不思議なインカの野菜」を欧州に持ち帰りました。日本は十六世紀末にジャワからオランダ人が伝えたのでジャガタラ薯と呼ばれ、それがつまってジャガイモ(馬鈴薯)となったのです。わずか六、七十年で南米から欧州経由で日本に到着したことになります。フランス人は大地のリンゴと呼びますが、ビタミンCが発育につれて増加し、成熟時にはナツミカン並みの含有率になるため、冬場、野菜のないときに十分野菜のかわりになり、冬の長い欧州や、荒涼としたアンデス山中で珍重されたのも当然でしょう。四千米の高地では、ジャガイモは夜になると凍り、日中にはもとの状態にもどります。そしてこれを何べんも繰り返すうちにジャガイモの水分はまったくなくなり、堅くて軽い干しジャガが出来上がります。今から何世紀も前にアンデスで世界初の冷凍・乾燥食品がつくられていたことになります。またインカの人々は生のジャガイモを薄く切って骨折したところに貼ったり、頭痛をなおすために頭をこすったり、リュウマチ予防の貼付け薬にしたり、あるいは消化不良の予防に他の食物に混ぜて食べたりしていたとも言われています。
一見、ジャガイモは澱粉のかたまりで太る食物とみられがちです。しかし、実際は体重を一キロふやすためにはジャガイモを十一キロも食べなければならないほどの低カロリー食品なのです。かりにジャガイモ料理だけの食事をしたとすると、人間の体に必要な1日分のビタミンBはすべてカバーし鉄分はその2倍、ビタミンB1とニコチン酸は3~4倍、ビタミンCは10倍以上も摂取できます。アンデス高原の質素な野菜ジャガイモは低カロリーで栄養分のバランスもこの上なく良く、特に減量に悩む人には最適の野菜なのです。しかもアルカリ性食品ですから酸性の肉料理には欠かせません。食生活の西洋化とともに日本でも乳児から子供まで動脈硬化の症状が広まっているといわれます。肉は食べてもつけ合わせのジャガイモはそれほど食べないという偏りが原因ではないでしょうか。さあ今晩からおおいにジャガイモを食べて健康維持にはげんでください。ただしジャガイモを油で揚げますとカロリーは四倍にもなるそうですから、その点はくれぐれもご留意の上ほどほどに。
La VOZ
No. 158 (1994 5-6)
HCJB日本語放送 『アンデスの声』三十年の歩み(1964年〜1994年)
1964年 日本語放送南米向けに毎日三十分放送開始
1965年 日本語放送日本向けに毎日三十分放送開始
1972年 DXレポート・コンテスト実施
(五十通達成者 143名 四百通達成者 8名)
1975年 BCL(短波受信)が日本で記録的ブームを呼び日本からの受信レポートが月平均七千通を越える
1976年 フジテレビ「エクアドルにアンデスの声を見た」を放映
NHK『こちら情報部』『海外ウイークリー』で紹介
1986年 「太平洋放送協会海外電波宣教を支える会」が解消し新たに「アンデスの声を応援する会」が設立
1987年 日本外務省より「日系人の心の処り所」としての日本語放送活動を評価され外務大臣表彰
1988年 ブラジル日系キリスト教連盟より長年の放送に感謝状
1991年 「アンデスの声」コンサート」日本各地で公演
1993年 「アンデスの声」コンサート」ハワイ・北米各地で公演
1994年 放送三十周年記念特別企画—聴取者電話参加番組を生放送
—— これからも声をお届けします。 ——
La VOZ
No. 159 (1994 7-8)
—— 南米エクアドルのマニラ麻産業三十年 ——
アバカ会館落成
古川拓殖会社社屋・社宅・日本庭園を新築
第二次大戦前のフィリピンでマニラ麻産業にめざましい活躍をみせた古川拓殖会社の古川義三社長は、戦後もその夢を捨てきれず、すべてをかけて70歳という高齢にもかかわらず南米へ飛び、結局アマゾンではアバカ栽培地が見つからず帰路立ち寄ったエクアドルに有望地を得て、マニラ麻会社を再建しました。
あれから三十年、エクアドルに導入されたアバカは生産技術の改良、奨励に努めた結果、エクアドルの外貨獲得に寄与する産業として根付いたのです。昨今、自然繊維のアバカが見直され、ティーバッグをはじめ、タバコのフィルターやソーセージを包む特殊製紙としての需要も伸び、目下アバカはエクアドルの主要輸出産品のひとつに数えられています。初代社長の古川義三氏は1985年、97歳の生涯を閉じましたが、父の遺志を継いだ長男欣一氏(写真上)の手で事業は着実な実績をあげ、このほど「アバカの古川」を象徴する地上四階建の近代的新ビルがアバカ栽培の中心地サントドミンゴ市の入口に完成し、「アバカ会館」と命名されました。(写真左)
六月十五日、初代古川義三社長の誕生日にあわせて、快晴のもと「アバカ会館」の落成式が行われました。席上、欣一現社長は「アバカへの情熱をかけた戦父及び、あとに従って行った企業移民ひとりひとりの努力なしにはここまで来ることは不可能でした。完成した社屋、社宅、日本庭園はみなさまに利用していただくためのものです。」と挨拶しました。また午後は、アバカに囲まれた古川義三メモリアル・パークでエクアドル唯一の日本庭園も開園、池に日本鯉五十匹が放流されました。戦前マニラ麻ひとすじに情熱をかけてきた義三氏の胸像もこの日ばかりは微笑んでいるかのように感じられました。「私には逃れ得なかった運命であろう。エクアドルでアバカの栽培を始めたのが七十の坂を越し、長年かかる農事を縁もゆかりもない外国で再び始めるなど世界にその例は少なかろう。…… 長男欣一まで後を継ぐとは、私とアバカは切っても切れぬ前世からの約束ではなかろうか。」(古川義三著 エクアドル開拓記)
戦後没収されたフィリピンの日本人経営マニラ麻会社の中で唯一古川拓殖だけが戦後に再建され、今もエクアドルで立派な業績をあげているのは何故でしょう。それは他でもなく、自分の仕事を天職と考える確固たる使命感ではなかったでしょうか。その点、この世で大切なもののひとつは、どうしたら自分が、自分のものになりきれるか、を知ることと言えるかもしれません。
この記事に書かれている古川義三氏の生涯や「エクアドル開拓記」についてさらに関心はありますか?また、サントドミンゴ市に造られた日本庭園の歴史など、次に詳しく知りたい内容があれば教えてください。
La VOZ
No. 160 (1994 9-10)
ハワイからジャングルへ
無医村を巡回して無料奉仕
ハワイ在住 日系人歯科医 チャールズ田場夫妻
エクアドルに来られたのは? 今回が五度目で、これまでに北部、南部、太平洋岸を巡回したので、今年は東部ジャングルのアマゾン源流で三週間奉仕しました。 どんなところですか? ナポ河流域で、両岸は高い灌木が生い茂り珍しい草花や動物昆虫類が目につきました。雨が多くて地面はぬかるみでしたが、湿度はハワイと変わりなく、ただハワイのような湘風は吹いていませんでした。 交通機関は? カヌーです。といっても漕ぐのではなく、後尾にエンジン二基をつけているのでかなりなスピードで河を上り下りできます。浅瀬や倒木を避けながら走るので河の様子を熟知していなくては危険です。 住んでいる人たちは? ケチュア族ですが、首狩り族でも裸族でもありません。おとなしくて恥ずかしがり屋で、特に女性は歯の治療を受けながらでも質問するとくすくすよく笑います。でも行儀よい親切な人たちです。
体形的には? 小柄、筋肉質、髪の毛は黒々として白髪はいませんし肥満体質の人もみかけませんでした。食生活のせいでしょう。 食事は? 主にグリーン・バナナ(料理用大型バナナ) ユカ芋、ニワトリ、ツサー(大ネズミ)、ワンガナ(野生豚)、チョンタ・クロス(椰子の実) 川魚、モノ(猿肉)などです。猿は頭や手足がバラバラになって出てくるので、よりどりみどりでした。亀の肉も食べました。 飲物は? チチャと呼ばれるユカ芋を発酵させてつくった飲み物です。アルコール分が含まれているので飲みすぎないようにしました。 甘味品は? バナナ、砂糖キビだけでチョコレート、ガム、キャンディー類はありません。 それなのに歯が悪いのは? 理由はよくわかりませんが、歯の悪い子供たちが多く、虫歯、抜け歯で歯ぐきしか残っていなかったり、前歯のない人たちも目立ちました。生まれてから一度も歯医者などにはかかったことはないのでしょう。せめて子供たちには歯を磨くことを励行させてやりたいと思い、三百本程歯ブラシを持ってきたのでプレゼントしました。基本的には治療は抜歯とアマルガム充填に限られます。発電機、モーター・コンプレッサーの他に治療用椅子を一脚持ち込みましたが、人々は見せ物の国に円陣をつくって座り込み一日中治療しているのを眺めていました。 夜はどこに寝ましたか? 高床式の草葺き家屋で、床や天井もすべて椰子の葉で編まれていますが雨は漏りません。トタン屋根のように熱を持たないので家中涼しくとても快適でした。ハワイのようですが、ただジャングル特有の虫や鳥の鳴き声だけはにぎやかでした。 一日何人くらい治療しましたか? 人数はその日によって違います。いちおう八時から五時までが治療時間ですが長い時間順番を待っていた人を帰すわけにもいかないので、つい遅くなりがちです。予約もなくひっきりなしに来るので、適当に打ち切らないと一日が終わりません。みんなお礼の言葉を言った後でユカ芋、ニワトリ、魚などをとどけてくれます。動物の頭蓋骨や毛皮をもらったこともあります。
来年ももどってきますか? そのつもりです。私にとってやり甲斐のある仕事です。ハワイに来た宣教師によって私は神の愛を知ることが出来ました。今私自身がそれに参加できることは大きな喜びです。与えられた使命として続けたいと願っています。
La VOZ
No. 161 (1994 11-12)
キト日本人学校弁論大会 わたしにできること
私は、幼稚園の先生になるのが夢です。ふつうの幼稚園ではなくて、体の不自由な人たちのための幼稚園です。昔、住んでいた家の近くに体の不自由な人たちの幼稚園がありました。私は、そこに通う人たちを一生懸命助けている先生の姿に心を打たれました。そして「私も体の不自由な小さな子たちと一緒に過ごしたいなと思うようになりました。もちろん苦しいこともあるだろうけど、子供たちに楽しいなって思ってもらえるように努力したいと思うのです。一緒に過ごすことで子どもたちに、運動の楽しさ、汗をかくことの気持良さ、のどが渇いた時に飲む水のおいしさを教えてあげたいのです。子どもが疲れたら、心から励ましてあげたいのです。そして心も体もたくましくなってもらいたいと思うのです。その子たちがお母さんと一緒にいてもらえなくても一人でやっていける人になってもらいたいのです。その子たちがどんなに苦しくっても我慢できる、そして、そのことをはねかえす強い心をもってもらいたいのです。私は、子どもたちの体を直すことはできません。でも、困った時に、どうすればいいかを教えてあげることはできます。子どもにとっては辛いことかも知れないけど、自分でできることはやってもらいます。子どもたちに経験する楽しさを教えてあげたいのです。経験する中でいろいろな人にも出会ってもらいたいのです。悪口をいわれてもこらえられる強い心を持つ人に育って欲しいのです。体を良くすることはできなくても、心を支えてあげることはできます。その子たちがくじけそうになったり、あきらめそうになった時、私なりに一生懸命に励ましてあげたいのです。
それができるのは、私にもいろいろな経験があるからです。教えてもらうことの有難さ、教えてあげることの難しさ、いじめることの気のまずさ、いじめられることの淋しさ。私は学校生活でたくさんの経験をしてきました。だから、人にいろいろなことを教えるのは面倒だということも知っています。例えば、私もときどき父や母に「漢字をつかいなさい。大きくなって困るのは裕己だよ。」といわれることがあります。そう言われた私は、むっとします。むっとした時は何もやりません。私には自分のことは自分で出来る、人には何も言われたくないという気持があるからです。だから、人から何かを指摘された時に反抗したくなる気持がよくわかります。たぶん私がいろいろなことを教えると、体の不自由な子たちもむっとすることもあるでしょう。私が口ごたえした時に父や母が感じるいやな気持を私も感じる時がくるに違いありません。でも精神的に自立してもらうためには私は、やさしく、時にはきびしく教えてあげようと思います。こんなわがままな私だけど、その子たちとずっと一緒にいて心の支えになってあげたいのです。時には抱いてあげ、やさしく、たのしく遊んであげたい。その子たちがくじけそうになったりしたら「がんばろうね、」と励ましてあげたい。いろいろな場面で、その子たちのことを助けてあげたい。手伝ってあげたい。自立をうながすことを一緒に経験させてあげたいのです。その子たちが、強い心を持ち、自立してくれることが、わたしの夢であり、希望なのです。
そんな幼稚園の先生になるためには、私自身もっともっと多くの経験が必要になるでしょう。これから苦しいこと、悲しいことを乗り越えなくてはなりません。私に出来るかなという気持もありますが、中学卒業まであと六ヶ月。それまでは、キト日本人学校のみんなの役に立って、楽しい学校生活を送ります。自分の将来は自分で決めます。私はみんなの役に立つ人になりたいのです。(10月21日放送より要約して転載)
La VOZ
No. 162 (1995 1-2)
94HCJBコンサート ゲストシンガー ROBIN HIBSCHMAN 追い求め 救い給う 神の愛
父が牧師だったため私は教会で育ちました。何よりも教会を大事にする環境の中で、私自身は見捨てられた思いにとらわれ、両親を神にうばわれたことに怒りさえおぼえました。そのため高校では反抗的になり麻薬におぼれたほどでした。しかし、何も知らない両親は、私を常識的にテキサス州の大学に入学させましたが、クリスチャンばかりに囲まれて息苦しくなった私は、とうとうある晩、同室の生徒に走り書きのメモを残しフロリダ州に逃げ出すことを決心し寮を飛び出しました。大学構内のはずれで一台の車が近付いてきましたが、私をみると声をかけてきました。「どこへ行くのかね。」「私、フロリダに逃げ出すの。空港まで行きたいのだけど。」「それは一大事だ。行動する前に祈らなくてはね。」おやおやせっかく逃げ出そうとしている矢先、クリスチャンとばったり会うなんて。でも彼は親切に空港まで乗せてくれ航空券まで買ってくれたのです。「君のために祈っているよ。」が別れのことばでした。
フロリダに着いた私は、友人のデビーの家をさがしてドアをたたきました。真夜中近くなのにデビーは待っていたかのように姿をあらわしました。「まあ、本当に神の導きだわ。祈っていたのよ。」家の中に入ると同時に電話のベルがなりました。何と父からだったのです。「ロビン、いいから家にもどって来なさい。」その父の声をきいた瞬間、私は急に家に帰りたくなりました。
結局、飛び出した大学に舞い戻ることになった私は、何とかして立ち直ろうとしましたが、どうしても自分自身をとりもどせず、ついに食事ものどを通らなくなりました。骨と皮になった私はある晩、苦しまぎれに近くの薬局に行き手当り次第薬を買い込むと、それを全部飲んで寝たのです。翌朝、目が覚めると全身が麻痺して意識もはっきりせず、立つことも、座ることも、這うことすら出来ませんでした。わたしは「死」を直感しました。皮肉なことに、その時よりはじめて「自分は生きたい!」という気持がわきあがってきたのです。「神様、私は自分を台無しにしてしまいました。こんな私になってしまって…」その時です。神様は私にこう答えたのです。「ロビンよ、やっと私にあなたを愛させてくれるんだね。これからは私があなたの面倒をみてもいいんだね。」その瞬間、私は変わりました。私が支配する人生は終わったのです。私の存在そのものが神の愛のうちにあることがはっきりわかったのです。暗闇から光の世界にひっぱり出されたような気持でした。その後、健康も急速に回復し、大学院も修了出来、教師になった私は、結婚して三人の子供にも恵まれました。現在は音楽の賜物を生かして歌と共に救われた体験を証ししながら世界各地でコンサートを開いています。
わがたまを いつくしみて 追いもとめ救いたもう
たぐいなき 主のまことは とうときかな (賛美歌 277番)
La VOZ
No. 163 (1995 3-4)
コンドルは飛ばず
♬飛べ飛べコンドル 無限の空を
アンデス高原の影よ 南アメリカの象徴
インディオ民族の血 ・・・・・ ♬
スペインに滅ぼされたインカ帝国とその末裔であるインディオの象徴—「コンドル」 1917年にペルーの民族音楽家アロミアス・ロブレスによって民族オペラとして発表されて以来、被征服者となったインディオの嘆きと自由への渇望が切々と歌いあげられたこの歌は、アンデスの自然をバックとして聞く者の心に深い感動を与えつづけているのです。
最近、コンドルの姿がエクアドルでもめっきり少なくなり、自然環境保護団体では七月七日を「コンドルの日」として定め、保護鳥コンドルの実態調査や飼育を積極的にすすめることになりました。現在エクアドルでは、生息するコンドルの数は75羽と保護されているもの20羽のあわせて百羽足らずしか確認されていません。では百年前にはどのくらいのコンドルがいたのでしょうか。当時、エクアドルのアンデス未踏峰に挑んだ世界的登山家エドワルド・ウィンパー氏の記録をのぞいてみましょう。「エクアドルの最高峰チンボラッソ(6,310米)に登った時のことだが、大きな鳥がたくさん飛び交っていて恐ろしいようだった。上を見上げてもその黒い大きな鳥が我物顔で飛んでおり、下をみても十二、三羽が大きな翼をひろげて飛んでいた。その鳥は毎日見られ、大空の端から端をゆっくりと泳いでいる感じだった。」
空を飛ぶことのできる陸鳥のなかでは最大のコンドルは翼を広げると三メートルを超し、南米の山岳地帯を中心に生息する鳥です。隣国コロンビアやペルーでも、やはりコンドルの数が減ってきたということです。そこで関係者はコンドルを保護するとともに人工飼育してその数をふやすことを考えていますが、コンドルは繁殖率が低く、一年おきに一羽のヒナをかえすだけで、しかも一夫一妻制を守っていることが支障となっています。もう一つはエサの問題です。体の重いコンドルは、太陽の熱で起きる山の上昇気流を利用して四千五百メートルあたりまで上がり、上空からするどい視線で動物の死体をみつけて腐肉をエサにしています。ところが地域開発がすすむにつれて野生の動物たちが姿をみせなくなってきたのです。またコンドルの住む地域が国立自然公園に指定されると、観光客やピクニックの家族連れなどで人の往来がはげしくなるのも原因のひとつになっています。地域住民たちが家畜を飼っても、自分たちのため外敵の餌食にならないよう守ってしまうので、ますますコンドルの口には入らなくなってしまうのです。動物の腐肉を食べてくれるコンドルは残飯整理役。地球汚染の残留物の掃除をしてくれるコンドルは自然環境の管理に重要な役割を果たしている鳥といえます。頭に赤い王冠をいただいた、するどいくちばしと首のまわりの白いえりまきはまさにアンデスの王座にすわる鳥としてふさわしい風格を備えておりエクアドルの国章にもつかわれています。王者でありながら僕として仕えるコンドル。しかも民話では「コンドルは老いると高所の湖で水浴して若返る」という言い伝えも残っています。青く澄んだ無限の空をコンドルが群れをなしてゆうゆうと舞う姿が一日も早く見られるよう願わずにはおられません。
La VOZ
No. 196 (1995 9-10)
南米ふれあいの旅 HCJBリスナーをたずねて<ボリビア編>
南米大陸のほぼ中央に、千六百人の日本人が入植しました。ボリビアの日本人移住地サンファン — 世界最高の首都ラパスから東へ千キロのサンタクルス市、そこから西北へさらに百三十キロ。アマゾン源流ヤパカニ川に沿った原始林を伐採し、焼き払い、作物を植え付けながら開拓して今年で四十年。八月のサンファン祭では、特別に内外から多くの関係者を招いて、日ボ交流会館、移民資料館、慰霊碑などの落成祝賀式が行われました。
私たちが訪れたのは、入植四十周年祭の直前でした。コロニア・サンファンと書かれたアーチ状の門をくぐると、そこに文化会館、病院、農業組合、学校がかたまってあり、その一隅の川原食堂の二階で特別集会を二晩つづけて行いました。(聴取者)リスナーとは三十年来、文通だけで、はじめて顔を合わせたのですが、お互いに長年の知己を再会するような親しみを覚えたのは不思議でした。放送で語りかけてきた私たちの想いと、それに答えてくれたリスナーの人たちの気持ちが、広い空のどこかでひとつに溶けあっていたのでしょう。
「苦しい開拓時代の日々は、電気も何もなかった当時のこと。ただラジオできくアンデスの声が唯一の楽しみであり、私たちの希望でした...」熱っぽく語られる開拓家族の苦労話の端々にきかれるこの言葉は、私たちの心に強くひびいてきました。苦労は無駄ではなかったのです。家の戸口にアンデスの声の古いステッカーをみつけました。悲劇と犠牲がつきものといわれる移住をここまで定着させた一世、今は、その後を二世が立派に継いでいる姿も、私たちの目にはとてもたのもしくうつりました。移住地の最奥地では、子供たちの資金援助で新築したばかりの洋館をみせてもらったあと、移移住地訪問の記念にと前庭にスターフルーツの苗木を植樹してきました。(聴取者)この木が育って実を結ぶ頃には、さらに移住地も繁栄していることでしょう。隣へ行くのに四、五百メートルは普通という移住地をぐるりと回った帰り道、夕闇せまる雨空に見事な半円型の虹がかかり、地平線から地平線までくっきりと七色の輝きを二重にみせてくれました。あまりの天然の美しさにジープを降りて眺めていると、道端の垣根から顔を出した農夫に声をかけられました。「アンデスの声、わたしもきいていますよ。」
La VOZ
No. 167 (1995 11-12)
南米ふれあいの旅 HCJBリスナーをたずねて<ブラジル編>
海外最大の日系社会を抱えるブラジルと日本との間に修好条約が結ばれて、今年でちょうど百年。さまざまな思いを胸に第一回移民が笠戸丸に乗って海を越え、この遠い「約束の地」に足を踏み入れて87年が経過しました。そして現在のブラジル在住日系人は百三十万人で全人口の一パーセント弱を占めるほどになりました。そのうち一世は十二万余りで、かつては大半が農業に従事していましたが、いまでは都市生活者九割。それでも一世が黙々と築いてきた日本人としてのイメージ「勤勉と正直」はどんな奥地でも不滅です。
故郷日本をあとに南米に雄飛し、裸一貫でスタートした開拓者農民は例外なく、仮小屋住まいで、森林を伐採し、山を焼き、耕地を広げていくという苦境を切り抜けた人たちばかりです。広大な土地で、気候、風土の違いにとまどいながら永年作物を植付け、短期作物で生計をたてるという試行錯誤をくりかえしてきました。おまけに人力が労働力となる開墾の仕事はまさに重労働の連続。水道も電気もなく、隣へ行くのに四、五百メートルは普通という開拓地で、日暮れと共にその日の疲れをいやしてくれるのが日本語放送だったのです。
移住者だからといって、特殊な日本人になったわけではありません。異郷に住めば日本が懐かしくなるのは当然です。特に島国育ちなのに他国人と接触して現地に溶けこまなくてはならず、外国語も大人になっておぼえるのでは努力もひとしおです。こうした人々から「アンデスの峰をこえてくる日本語放送に心とかされ、新天地で生き抜く決意と新たな希望に立ちあがることができた」と聞かされました。電波を通じて神がさしのべられた愛のみ手を感謝するものです。
La VOZ
No. 168 (1996 1-2)
南米ふれあいの旅 HCJBリスナーをたずねて<ブラジル編>
聖書を枕に 異名サムライ高嶋総元氏の回心談
戦後五十年ということで、私自身の過去をふりかえっておりますが、神様の憐みによって、今日まで生かしていただいていることを痛切に感じます。
私は下級幹部として内地で敗戦を迎えましたが、当時すべての計画、指針がくずれてしまい本当にやけくそになっていました。私の兄がアマゾン移住していましたので呼び寄せてもらって渡伯したのも、そんな生活から抜け出したかったからです。ところがジャングルの生活が馴染めず、何とか仕事をみつけて町に出たものの思うようではなく自暴自棄になってしまい、ピンガという強い酒を毎日一本空けないと落ち着かない状態でした。
そんな時でした。勤めていた建築会社の同僚の母親が一冊の聖書を下さったのです。何か心の支えでもとせっかく救いの手をさしのべてくれたのに、私の方はその聖書を読むどころか昼寝の時の枕替わりに使って高いびきをかいていたのです。
相も変わらず毎晩飲み歩く毎日が続いていましたがある日、サンパウロの中心街で飲んで帰る時、自分の上着の横にあった人様のジャンバーも一緒に持って帰ってしまいました。家ではうるさい父親で通っていましたから自分が間違ったなどといえばけじめがつかないので「バスの中に酔払いがいて置いていったので持ってきたんだ」と自分を棚にあげてその場はつくろったんですが、それが私の良心にひどくこたえました。その時から、横になれない、食事も水ものどを通らないで三日間、体ががたがたふるえてきました。そしたら神様でしょうか、「お前のような奴は死ぬ」という声がきこえてくるんです。神がかりみたいですが本当なんです。わたしが死んだら家族が困るので何とか助けて下さいとお願いするんですが、駄目だと言うんです。しかし、もしお前が助かりたいならお前が枕にしている本(聖書)に書いてあるようにしなさい。こう言われて私は一回も開いたことのない聖書をぱっとあけたら、こう書いてあるのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦しすべての悪から私たちをきよめてくださいます。(ヨハネ第一の手紙1章9節)」私はこれだけはしたくないと思い、他のヶ所を読もうとして聖書をひらいてもいつも同じところが出るのです。寝られない、食べられないでふらふらになっていますから、このままではいけないと決心して「実は嘘をついたのは私だ。悪い夫であり、父親であった」と家族の前に手をついてあやまりました。そうしたらすう〜と良くなりました。早速家にある世界中の酒を全部流してしまいました。酒もタバコも欲しくないのです。がまんしているわけではないのですが、変えられたんですね。次の日曜日、教会は今まで前まで連れて行かれても入らなかった私ですが、自分から入って行きました。どうせ高島は三日坊主だろうと言う人もいましたが、もう三十年を越しましたので三日ではなかったようです。これはすべて神の憐みです。その業をなしてくださった方に感謝するのみです。
「アンデスの声」との出会いは、どなたか忘れましたが毎日一時間の日本語放送があるよと教えていただいたので早速短波ラジオを買って聞き始めたのですが、それは良く聞こえました。サンパウロ市内の放送局よりも良く入ってきました。あれからずっと時間になるとスイッチを入れるのが習慣になりました。ブラジルには「アンデスの声」をきかれて教会に導かれた人が多くおられます。今後も世界中の日本人のためにお働き下さいますようお願い致します。 (1995年11月22日、29日放送)