FAR EAST RADIO CLUB
For a Beautiful BCL Life!
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HCJB the Voice of the Andes - La Voz 5
資料提供:Tooru Gouhara
La VOZ
No. 146 (1992 3-4)
寿里順平のコーヒー・ブレイク
スペイン語圏の人々は、日本のことを pueblo del Sol Naciente 「日の出ずる国の民」と言います。国名の由来を知っているわけですが、私たちはこれらの国々の名のいわれをどれくらい知っているでしょうか。半分以上わかれば常識ありということになります。(括弧内は国花)
Argentina 銀がとれると錯覚したスペイン人が、ラテン語「銀」に地名語尾をつけた。(ceibo)
Bolivia 南米解放の父シモン・ボリバール将軍の名にちなんだ。(cantuta)
Colombia 航海者クリストバル・コロン(ラテン語でコロンブス)の名を取った。(orquídea)
Costa Rica 征服者コルドバが、緑におおわれ、動植物の多様さから「富める海岸」とつけた。
Cuba 先住民の部落名クバナカンにちなんだ。(mariposa)
Chile 先住民のことばチリ語で「寒い」がなまったもの。鳥の鳴く声とも言われている。
Ecuador 「赤道」を表す地理用語をそのまま国名とした。(flor del Paraíso)
El Salvador カトリック教の「救世主」にちなんだ。(flor del café)
España フェニキア語で「うさぎの多い土地」。(clavel doble)
Guatemala ナワトル語で「木の多い土地」または「水を吐く山」という主語から派生した。
Honduras スペイン語で「海の深み」。近海を通過した航海者が名づけた。(monja blanca)
México アステカ語で「太陽と戦さの神が支配する土地」を意味する。(dalia)
Nicaragua 先住民族ニカラオスまたはニキリアノスの住む土地を表す。(jengible)
Panamá 同じく土語で「魚の豊富な土地」の意味。(orquídea del Espíritu Santo)
Paraguay トゥピ・グワラニー語源の海+凹み+水で海の源を示す。(jazmín del Paraguay)
Perú プレインカ時代の住民のことばで「海洋」と「川」とからできた。(cantúa)
Puerto Rico インディオたちはボリケンと呼んでいたが、征服者レオンが「富める港」に変えた。
Uruguay グワラニー語で「鳥の川」の意味。(ceibo)
Venezuela ベネズエラ湾に浮かぶ水上の家がベニスに似ているところから、「小さなベニス」と名づけた。(flor de nácar または flor de mayo)
寿里順平先生は、早稲田大学法学部教授で、NHKテレビ/ラジオ・スペイン語講師。著書には、「スペイン語の表現」「カリブの国々」「スペイン語コーヒー・ブレイク」「スペイン語続コーヒー・ブレイク」「中米の奇跡コスタリカ」「中米―干渉と分断の軌跡」などがあります。四月下旬には寿里先生の「コーヒー・ブレイク・オン・エアー」を六回にわたって放送しますのでお楽しみに!
放送日:四月二十二日(水) 四月二十三日(木) 四月二十四日(金)
四月二十九日(水) 四月三十日(木) 五月一日(金)
La VOZ
No. 147 (1992 5-6)
この青い星 地球の環境破壊に国境はない
赤道直下に巨大なゾウガメや、海を泳ぐイグアナそれにペンギンまで住んでいるという不思議な島ガラパゴス諸島。この魅力あふれる自然をそのままに保存しておくことに、二十世紀初頭まで人間はなんの役割も果たしていなかったのです。ゾウガメの肉のうまさをあじわった海賊や捕鯨業者たちはおびただしい数のゾウガメを食料として大量に捕獲し、オットセイはその毛皮が珍重されて大量に殺害されていきました。二十世紀に入ってからは空港建設のさいにいたずらにリクイグアナ(写真)が殺害されたのに加えて、もちこまれたハツカネズミがあたかもギャングのようにサボテンの実を食い荒らし、草の根を掘り起こしたため、リクイグアナも食物を失ってしだいに減少し、「リクイグアナの楽園」といわれたバルトラ島には、いまでは一匹の姿もみられなくなってしまいました。その他の島でも、人間が持ち込んだ家畜が野生化して横暴をきわめ、植物が食い荒らされ、ガラパゴス諸島の姿はすっかり変わりつつあるのです。
文化を意味するカルチュアということばは、もともと「耕す」という意味です。本来の意味からすれば、自然のものを生かして実用化することであって、反対に自然を殺してしまっては、そもともを漏らしてしまうことにならないでしょうか。人間は万物の霊長などと威張ってみても、所詮は自然が人間のお手本なのです。人間が地球をつくって住みはじめたのではなく、人間が地球に住むようにあてがわれたのです。宇宙でも最もすばらしい太陽系の惑星に住むことのできる特権を自覚して、それを責任をもって充分に生かすことが、わたしたちの基本的な務めなのです。自然にいどむという人間至上主義はすでに大きな曲がり角に来ています。人類を育んでくれる自然の前にもっと謙虚になって忍耐と勇気と知恵をもって、緑と光と空気につつまれたこのすばらしい地球を保護し、管理し、生かしていくことを、グローバルな視点で考え直す時がやってきたのです。自然と人類が創造主を仰いで「共に生きる」新しい共生の時代をつくりあげることが、物質的、精神的破壊から人類を救い出す唯一の道だと信じています。
天地を創造された神よ、
神はなんと多様の生物や植物を造られたことでしょう。人間もその造られた者に過ぎませんのに、人間は世界の所有物であるかのように、緑を枯らし、戦争で人を殺し、御心を痛めております。
人間がなぜ特別に賢く造られたか、
畏れをもって、主の御声に聞く者でありますように、お導き下さい。
三浦綾子(日本基督教団出版局発行 「祈りの風景」より)
La VOZ
No. 149 (1992 9-10)
アバカに挑む(マニラ麻)
エクアドルの日本人移住地 サントドミゴ農園
一面のアバカ林。バナナとそっくりな大きな葉を茂らせた農園がどこまでも続く。
エクアドルにおけるアバカ栽培のベテラン田辺正明さん(写真左)は、八月十七日、長年の功績により、外務大臣表彰状と銀杯を受賞した。
アバカは、もともとマニラ麻としてフィリピンで大々的に栽培されていたが、戦後、南米に夢を託した古川義三氏(古川拓殖会社社長)によってエクアドルに導入され、生産技術の改良、奨励に努めた結果、製品の輸出によるエクアドルの外貨獲得に寄与するほどまでになった。
エクアドルでは「アバカ栽培の古川」として広く知られており、初代社長の義三氏が七年前の夏、九七歳の生涯を閉じた後は、父の遺志を受け継いだ長男欣一氏(写真左)が古川拓殖会社の経営と実務を行っている。
田辺さんが最初にアバカと出会ったのは十五歳の時。戦前ダバオでアバカ栽培をしていた両親の指導のもと仕事も軌道に乗りかかった折、戦争勃発。召集されてビルマ戦線で終戦を迎えた。引揚げ後郷里広島で勤め、生活は安定していたものの、南米でのアバカ栽培に再び闘志が燃えあがった。
「戦後ダバオ引揚者で作られたダバオ会にたまたま母を連れて出席した折、久しぶりに古川義三社長と会い、誰かエクアドルに技術指導に行ってくれる者はいないかと相談を受けたのが始まりでした。チャンスがあればどこか外国へ出て見たいとずっと考えていました。そこへ自分の経験のあるアバカの指導でという話だったので四五歳という年齢のことも余り考えずお受けいたしました。父は、フィリピンの原野で戦死。大きく持ってやりかけたフィリピンの仕事を、どうしてもやりとげるぞと心に決めました。給与は半減、実績がなく栽培の成否も確認できぬエクアドル派遣を受けたのは、アバカにかける熱意か、はたまた夢に賭ける男のロマンか、あるいはその両方だったのかも知れません。」
あれから三十年。汗と努力の甲斐あってエクアドルのアバカ産業は根付いた。石油危機以来、自然繊維のアバカが見直され、ティーバッグなどの特殊製紙としての需要を回復し、エクアドルの輸出産品のひとつに数えられるまでになっていった。アバカ栽培ひとすじにやっていた田辺農園もアバカの他にアフリカ椰子や有機農業によるバナナ栽培へと事業を広げている。現在仕事はほとんど長男の正広氏(キト国立中央大学卒)にまかせており、親子三代にわたるアバカ栽培は二十一世紀に向かってさらに新しい展開をみせはじめた。毎年恒例の日本人会主催の運動会ではスポーツマン一家の田辺親子がいつも賞品をひとりじめにする。ハイライトである綱引き—この綱がまた百%アバカで出来たもの。アバカ栽培三十年の歴史はそのままエクアドル日本人社会の歩みと言っても過言ではなかろう。
La VOZ
No. 150 (1992 11-12)
アンデス修学旅行 ペルー国リマ日本人学校生徒感想文より
九月十日、午前七時近く、私たちはキトに着いた。冷たい空気がとても新鮮に感じた。午前中は休養して午後から市内見学。旧市街は教会が多く、なかでもサンフランシスコ教会はピカピカ輝いていたが落着いたムードのある所だった。パネシージョの丘はとても眺めの良い所で、空気が薄いということも忘れて走ってしまった。夕方だったので夕日がとてもきれいだった。
二日目。赤道記念碑に出かけ初めて赤道を見ましたが、線一本あるだけで、またいでみてもあまり実感がわかなかった。しかし東西南北と彫られた記念碑を見ていかににも地球の真ん中という感じがした。それからキト日本人学校へ行ったが、リマ日本人学校とよく似ているのに驚いた。そこでは中学生の三人が迎えてくれました。そしてエクアドルの紹介をしてくれたり、一緒にゲームをしたりしてとても楽しいひとときだった。「アンデスの声」放送局では放送している様子など内部を見せていただいてとても勉強になった。エクアドルの子供たちのグループ「小さな星たち」がすばらしい合奏合唱をきかせてくれてとても感動した。私たちもリマ日本人学校の校歌を歌ったが、最初はドキドキ。またそのあとマイクをむけられた時は、緊張してしまい話そうと思っていることが口から出ずに冷汗ばかり。その時の放送はクラス全員できいたが、みんな自分の声をきくのが恥ずかしそうだった。
三日目はオタバロの土曜市。とてもにぎわっていて、ふとペルーを思い出した。インディオの人たちのとてもきれいな衣装と女性がジャラジャラつけている首飾りが印象的だった。おみやげに壁かけと木彫りの人形を買った。近くのサンパブロ湖は高い山々に囲まれたきれいな湖で、あのような風景を見たのは初めてだった。途中でパン人形を売る店に寄って実際に作っているところも見学した。
四日目はコトパキシ登山。世界一高い活火山。山頂には雪がかぶり立派なその山を一層立派に見せてくれる。辺り分布は見渡す限りの草原。富士山に似ている。「富士は日本独特の山というけれど、形が似ている山は世界のどこかに存在するんだなあ。」と誰かがつぶやいた。同感だ。火口には雲がかかっていない、山頂には雪がかぶっている。空はほぼ晴天。正に完璧だった。近くに大きな水たまりがあるのでそこへ行ってみた。水が冷たい、火山石が落ちている。黒いやつや赤っぽいやつなど色々あった。四千米ほどの高さなので空気がとても薄く、話をするだけでも息が切れる。ふと空を見上げると、もうコトパキシの姿はなかった。
今年の修学旅行は本当に楽しかった。昨年は修学旅行が中止されたが、今年はエクアドルで貴重な体験をすることができた。暗いニュースばかり伝わるペルーの中で、この修学旅行はとても明るい話題となり忘れられない思い出となった。キトはいい所だ。もう一度行きたい。
(作文を送って下さった方々:玉城有行、深沢梢、大穣一司、大穣啓司、五所聡史、玉城亮太)
La VOZ
No. 1151 (1993 1-3)
原始境 アマゾンをたずねて
南米大陸の赤道に沿って西から東へ延々と流れる世界の大河アマゾン。アンデス山中の氷の湖に源を発し、無数の川を合わせて流れるアマゾン河は全長六千三百キロ。川というより緑の海となって広がる日本の二十倍もある流域には熱帯の密林が生い茂り、そこには計り知れない資源が秘められているのです。
一五三二年、インカ帝国を滅ぼしたスペインの征服者ピサロ将軍は、かねてから貴金属と香料にあふれた国がインカ帝国の東にあると聞いていたので、そのエル・ドラード(黄金郷)発見に目を転じました。七年後の一五三九年、弟のゴンサーロを指揮官として遠征隊を組織しました。その時の編成は、スペイン人の騎士と兵隊二百名、原住民四千名、カヌー千隻、食用の生きた豚四千頭、弾薬・食料輸送用のリャマ数千頭という大編隊でした。この遠征隊は、エクアドルの首都キトを出発し、東方に連なるアンデス山脈を越えて険しい渓谷に分け入り、難行軍を続けて、八ヶ月もかかってようやくコカ川の源流(現在のアンゾン支流ナポ川の枝流)にたどり着いたものの、兵馬は長途の行軍でくたくたになり、ことに原住民軍は素足のためアンデス吹雪の山嶺を越えたとき、その半数の二千名が凍傷にかかり、あるいは凍死したといわれています。
そこで指揮官のピサロは全軍に休息を与え、副隊長のオレリャナ大尉に命じて、前途の偵察と食料の探索をさせることにしました。スペイン兵、原住民の兵隊合わせて七十名を従え、二十隻のカヌーを連ね、コカ川からナポ川に出て下航を続けましたが、行けども行けども川とジャングルの連続で、食料となるものは何ひとつ見当たらず、ついに対岸の見えない大河のほとりに出たのです。このナポ川下りの途中で、オレリャナ隊は多数のインディオと戦いましたが、ある地点では、勇猛果敢な女ばかりの部族から弓矢で脅かけられました。その後オレリャナ大尉がスペインに帰国して遠征行の報告をした折、ギリシャ神話の女人帝国アマゾーナスに因んで、この大河にアマゾンと命名したといわれています。
ところでオレリャナ隊は、この地点からピサロの待つコカ源流へ引返す気力はすでになくなり、目の前の大河を下航することに意を決し、カヌーではとうていこの大河は下れないと見てとったので、そこに数ヶ月留まって帆船を造ることにしました。船が出来上がると、現在のアマゾン大河に乗り出し、数ヶ月がかりで河口まで下って、それから海岸づたいに北上、カリブ海のアンティル諸島にたどり着くと、便船に乗りかえ、スペインに帰還したのです。オレリャナ大尉の大河発見の報告を受けたスペイン国王は彼を称賛して、新領土の総督に任命しました。そこで彼は、アマゾン流域の領土を確保すべく帆船を連ねてアマゾンへ向かったのですが、その船団が河口のマラジョ島付近へさしかかった時、突如襲ってきた津波のため、全船難破して隊員もろとも船のくずと消え去ったのです。時期が五月の増水期だったことと、アマゾンの自然に対し無知だったためにおこった遭難でした。その後、フランス、ドイツ、イタリアからも探検隊が奥地へと入ったのですが、無事に帰還できたのはわずかで、アマゾンは緑の魔境とまでいわれるようになったのです。
(参考資料:文化過世界の国 全24巻 講談社 1974)
La VOZ
No. 152 (1993 4-6)
日本の援助で 学校にトイレ設置
エクアドル国内二十六校
国際プロジェクト・コーディネーター
内田 芳江 写真/通り(写真キャプション:落成式でテープカットをする内田芳江氏)
今日は一月三十日、快晴の土曜日です。ここエクアドル北部のカヤンベ山(5,700米)のふもとの小学校で日本からの援助で完成したトイレの落成式が行なわれています。男女共学のアピレス校は生徒数三十名余、教師二名、校舎一棟というささやかな山間の僻地校です。家に帰ってもほとんどトイレのない生活をしている子供たちにとって、というよりは村民全員にとっても画期的な出来事となりました。落成式には村代表の役員や父兄たちが正装して次々に挨拶を述べるかたわらで、子供たちも精いっぱいのおしゃれをして整列です。犬やニワトリまで何事ならんと集まれば木の上小鳥たちまで賑やかなさえずりをきかせてくれます。
続いて祝賀パーティのはじまりです。並べられたご馳走は地元自慢の炭火で焼いた取り立てのホクホクのジャガイモに原形をとどめた姿焼きのクイ(別名インカウサギ)。それに手づくりのチチャ(穀類、果実を醸造した飲物)をくみかわしながらお互いの握手と抱擁がつづきます。
出来上がったトイレは村人たち全員による共同作業の結晶といえます。大人も子供も手分けして、穴を掘り、土を運び、セメントを練り、ペンキを塗って完成の日を迎えたのです。民族衣装で着飾った子供たちの楽しいおどりが始まりました。お祝いにダンサ(集団でおどる民族舞踊)は欠かせません。はなやいだ雰囲気の中で三拍子のリズムにあわせてステップがはずみます。トイレ建設の現場監督スリタさんの顔も晴れやかです。工事現場は人里離れた山奥が多かっただけに苦労は人一倍でした。悪路に悩まされ、重い資材を運搬するのにトラックが故障したり、材料置場で盗難にあったり、それでも工期が一ヶ月遅れただけで完成にこぎつけることが出来ました。校舎の横に姿をあらわした新ピカのトイレの外装は黄色、遠くからでもとても良く目立ち、子供たちは新しい教室でも出来たかのような喜びようです。
今回の学校トイレ設置のプロジェクトは、日本の郵政省国際ボランティア貯金の援助によるもので、完成したトイレは新・増築あわせて二十六校、いちおう92年度内に設置工事を終了し、引渡し式を終えることができました。設置校の大半は山間の僻地校で交通機関など全くないところだけに、はるばる日本からの援助ときいた村民たちは最初とまどったようです。「こんな山奥に住む自分たちに援助の手をさしのべてくれる見ず知らずの人たちがいる」「どんな片隅にいようと忘れられた存在ではない」「広い地球のどこかから愛のまなざしが注がれているのだ」こうしたわきあがるような感謝の気持が村人たちの心をひとつに結びつけ、村をあげての共同作業へとかりたてていったのです。きつい肉体労働にすすんで参加する父兄たち、それなりの手伝いをみつけて手伝う子供たち、物と体と心を動かしての地域開発がすすめられたのは、日本の一千万の人々の善意によるものです。心からの感謝をこめてこのレポートをおわります。
La VOZ
No. 153 (1993 7-8)
いま・HCJBは 衛星中継を計画 南米へ橋渡し
「歴史のさまざまな時点で、神がどのように人に働きかけられたかは、聖書の中ではっきりと示されていることです。神は失われているご自分の民を呼びもどすためにあらゆる手段をもちいてこられました。現代技術が生み出したラジオや航空機も決して偶然の産物とは思えません。世界の果てまで福音をとどけるための有力な手段として新しい技術を駆使することを、神はわれわれに願いつつチャレンジしているに違いないのです。HCJBではアンデスの峰をこえてラジオによる宣教を開始して以来、数々の奇跡的な神の恵みの業を目撃してきました。それらはちょうど歳月という紐に通されてつながれた真珠の一粒一粒と言うことができます。」
上の一文は、1946年出版の「Radio, the Modern Missionary(ラジオ—最新の宣教師)」という本に書かれたHCJB創設者のクラーレンス・ジョーンズ博士のことばです。あれから半世紀、いまやHCJBは高度情報化という波の大きなうねりのなかで、衛星放送に乗り出すことになりました。友好団体であるTWR(トランス・ワールド・ラジオ)も全面的に協力することになり、すでに九ヶ国十二都市に散在する各放送局との話し合いも具体化して今年秋の実現へ向かって着々と準備がすすめられています。近年ラテンアメリカ諸国では都市集中現象は異常なほどで、それに比例してローカル・ラジオ局の数も軒並み増える傾向にあります。それだけに局側としては聴取者のニーズに答えられる適切な番組を常時提供してくれる情報サービスを心待ちにしているのです。衛星を利用すればデジタル・オーディオによる良質なサウンドの番組を提供できる他、HCJB/TWR制作スタッフによる自主番組はもとより人気の高い海外番組や世界の動きを正確迅速に伝えるニュースも流すことができます。そのため衛星放送発送基地となるHCJBでは、第9スタジオを衛星放送ネットワーク専用スタジオに指定して急ピッチで改造中です。使用衛星はインテルサットとパンナムサットで、この二つの衛星をつかえば、南米全土はもとより、アメリカ、太平洋地域をカバーすることができます。
HCJB衛星放送の正式の名称はALAS(America Latina via Satelite)。アラスとはスペイン語で「翼」の意味。衛星放送開始予定日は1993年11月25日。この日、ジョーンズ博士の言う真珠のひとつぶ—衛星放送—が、HCJBの歴史の紐に通され、神の福音を乗せたHCJBの電波が新しい「翼」をはって、南米の空に勢いよくはばたいていくことでしょう。
La VOZ
No. 154 (1993 9-10)
世界の子供たちへの贈り物
ワールド・ビジョン・ジャパンがエクアドルの子供を援助
☆峯野龍弘氏(ワールド・ビジョン・ジャパン 総裁)
☆今井省吾氏(財団法人 国際開発救援財団常務理事)
ワールド・ビジョン・ジャパンでは、来年度からエクアドルにプロジェクトを持つことになりました。そこで私自身じかに様子をつかんでおきたいと思い、このたび初めて南米を訪ねました。
そもそもワールド・ビジョンは、今から四十年ほど前にボブ・ピアス博士が中国や朝鮮動乱における孤児救済に乗り出したのがはじまりで、当初は個人的な活動でした。それが多くの方の感動を呼び、支援の輪が広がって、今では開発途上国や緊急災害地でのあらゆる援助活動に参加するようになりました。現在は世界で現地オフィスだけでも九十ヶ国にあり、民間ベースでは最大の援助ネットワークをひろげています。日本の具体的な活動はチャイルド・スポンサーシップです。恵まれない児童たちのスポンサーを募って、医療、教育など身のまわりのことも含めて、せめて小学校を卒業するくらいまでは何不自由なく一所懸命勉強に打ちこめるように援助を続けています。一方、家庭の中の子供たちにとっては両親の生活安定が影響するので、おかれている地域社会のかかえる問題も当然関係してきます。そこで、一番弱い子供たちにひとつの的をしぼりながら、周辺の地域開発を並行させていくというマルチな援助活動が必要になってきます。そういうプロジェクトを今度二百人ほどのサイズのコミュニティをとりあげて、ここエクアドルでご支援ができればと願っている次第です。
具体的には、それぞれの地域の実情にあわせた仕事をしなければなりませんが、それは決して私たちだけの力ではできないことです。むしろ現地の人たちが開発プロジェクトを自分たちの問題として自覚し、それにどういう風に取り組んでいくかを自発的に考え、実行し、究極的には、そのコミュニティが自立できるようになることが私たちのねらいです。(九月の放送番組より)
この記事に書かれているワールド・ビジョンの歴史やチャイルド・スポンサーシップの仕組みについてさらに関心はありますか?また、当時の国際協力や自立支援のアプローチなど、次に詳しく知りたい点があれば教えてください。
La VOZ
No. 155 (1992 11-12)
La VOZ
No. 1156 (1994 1-2)
三十年ぶりの登頂
早稲田大学エクアドル・アンデス遠征隊元隊員 小林 伸吉さん(浜松市)
私は、1964年、エクアドル国立山岳会ヌエボスホリゾンテス(新しい地平線)の招きをうけた早稲田大学第二次エクアドル・アンデス遠征隊に参加、氷と岩に閉ざされたアルタール山のオビスポ峰(5,319米)の初登頂に成功しました。当時23歳。あれから三十年経って今度は雪山アンデスの世界最高の活火山コトパキシ(5,897米)の登頂に挑むことにしました。
11月16日、午前二時。満天の星空のもと山小屋を出発。案内人の先導で底知れぬクレバスを避けながら一歩、一歩足もとを踏みしめてすすめみ、夜が白むと同時に山頂に立つことができました。その日は朝からよく晴れ上がり、遠くの山も近くの山も、すべて頭に白雪をかぶっているのが見え、昔登った懐かしい山も眺めることができ、あんな幸せなことはありませんでした。頂上では、案内人の方とだきあって、ただ一言「Gracias(ありがとう)」。その時流した感激の涙が記念に雪の中に埋まっていることでしょう。下山も気をゆるしてはならないので、案内人とザイルを組んで慎重に歩をすすめました。登る時には星明かりでよく見えなかったクレバスが左右に大きく口をひらいており、こんなところをよく来たと感心したり、さすが、アンデスの雪山だと、それなりにまた感激してしまいました。山の上からもキトの街をはるかに見下ろすことができましたが、逆に都会の雑踏の中から雪山を眺めることができるのもエクアドルならではと思いました。