FAR EAST RADIO CLUB
For a Beautiful BCL Life!
For a Beautiful BCL Life!
HCJB the Voice of the Andes - La Voz 4
資料提供:Tooru Gouhara
La VOZ
No. 125 (1988 7-8)
ずるずる どしん
伝説の湖について説明してくれるテレサさんは現地ではベテランのひとり。エクアドルの最高峰チンボラッソ山(標高6310米)はブルーアイスに輝く神秘的な雪山。そのふもとにあるコルタ村に古くから伝わる湖にまつわる伝説に今日は耳を傾けてみましょう。
「むかしむかし、この村にゃ湖なんぞなかった。チンボラッソのお山だけは照りつけるお日様に雪肌を青白く光らせておった。ふもとは荒れ地でな、わずかな畑を耕し羊を飼って生計をたてておったのよ。ただひとつの楽しみは、高原を行き交う行商人がここでひと休みするときだった。ロバの背いっぱいにいつも珍しいものをつんでおったわ。
あのことが起こったのはちょうどセマナサンタ(聖週間)の時だった。ひとりの商人がロバの背に大鍋を積んできおったわ。とてつもなくでかい鍋でロバもかわいそうに重くて汗びっしょりじゃ。どれどれここで動物も人もひとやすみと、荷を解いて腰をおろした途端、ポツリポツリと生憎の雨。さっきまでは真っ青な空だったのに、やれやれお山の天気は変わりやすいわいと言っているひまに、すでに本降りじゃ。こりゃかなわんと荷物をまとめて、といっても大きな鍋がひとつ、よいしょ、こらしょとかかえてロバの背に乗せようとしたところ、鍋の中はもう雨水でいっぱいになってびくともせず。それなら鍋をひっくりかえして水を出すほかはないと、よっこらしょ、どっこいしょといくら力をこめても鍋はまるで根っこが生えたよう。こりゃいかん、今度は鍋の下を掘ってころがしてやりましょうと穴を掘ったところ、鍋は水の重みでおしりをずらしてその穴へどしん。反対側をほるとまたどしん。ずるずる、どしん、ずるずる、どしん……。そのうち大雨の姿は水にかくれてあとかたもなく何とそこにはかわいい湖ができとった。湖面には雨上がりのチンボラッソの雪山を美しく映し出していたそうな。」
やがて、岸辺には水草が生い茂りあひるが群れ遊ぶようになったこの湖は、コルタコッチャ(あひるの湖)とよばれアンデス高原を行き交う旅人の想いの水際となったのです。
荒野に水がわき出し、うるおいのない地は水のわく所となる。(聖書)
La VOZ
No. 126 (1988 9-10)
折り紙大使
「わたしは折り紙が大好きです。いつも折り紙のことを考えているので頭の中にもツルがちゃんと二匹います。ツルツル、と帽子をぬいで加瀬三郎さん、ユーモアたっぷりに頭を下げると会場は大爆笑。ここはエクアドルの首都キトの日本人学校講堂。「はい、はじめますよ。第一の三角。次にもうひとつの三角、できましたかあ。」集まった全校生徒が加瀬さんの親切な指示に従って色紙を折りはじめる。みるみるうちにキツネ、クジラ、野球帽が出来上がり、子供たちは目を輝かす。一枚の色紙から思いがけないものが生まれるおどろきと、さまざまな形を作る喜びを子供たちに知らせ、心を通じ合う…加瀬さんにそれ以上の望みはない。
その望みだけのために62才の加瀬さんは写真家の田島栄次さんと二人三脚で7年前からアメリカ、キューバ、ソビエト、バングラデッシュ、インドなどへ出かけて行った。田島さんの役割は、出かけて行く国で通訳をし、折り紙を手伝い、写真をとり、そして特に加瀬さんの目となることだ。加瀬さんは、両目が不自由なのである。小学校のころ、左の目はまだいくらか自由であった。近所の小川でとらえたザリガニや魚の色も形も昨日のことのように思い出せる。しかし、やがて左の目も光を感じなくなってしまった。
折り紙に初めて挑戦したのは29才。ザリガニを折ってみた。母にも教わったことはない。自分で考え出すしかない。指先に心を集め、折り線を確かめつつ折ってはこわし、っては破る毎日。花でも動物でもさわれるものはさわって写生するつもりで折ってみる。指のあぶらは色紙にすいとられかさかさ。信じられないほどの努力だった。こうして折り紙を作る喜びをおぼえた加瀬さんはその喜びを人に分けるようになっていった。人が喜べば、自分の喜びは二倍になってかえってくる。折り紙作家、加瀬三郎さんの表情はいつも明るい。エクアドルでも小学校、障害者施設、在留邦人の集いなど全ての人に手をとって、身軽さで折り紙交流に多忙なスケジュールをこなした。特に、加瀬さんに手を引っ張られツルの折り方を教えてもらったエクアドルの子供たちの心は夢に大きくふくらんだ。言葉は通じなくても、心は通う。折り紙を通じて世界中の人が手を結び合える、世界をひとつにする愛と平和への願いを、子供たちの心に育てることができる加瀬さんたちは、未来の明るい夢を折り出すまさに折り紙大使だ。さらに大きくはばたくことを期待しよう。
La VOZ
No. 127 (1988 11-12)
宣教放送セミナー卒業おめでとう
世界宣教めざし巣立った13人
地球時代の宣教に向けての人材育成を目指した初のHCJB宣教放送セミナーが終わりました。ブラジル、パラグアイ、カナダ、西ドイツ、日本などから参加した十三名が無事卒業。それぞれの国でのこれからの活躍が大いに期待されます。
世界のすみずみまで 日本 浜田真一
キトに着いて一週間のオリエンテーションの後、八週間にわたって宣教と放送にかかわる重要なことを学びました。その後三週間はスタジオに入って教室で学んだことの実習で、卒業制作に「私の見たHCJB」と題したスライド・シリーズを自作自演で完成させました。卒業式にはHCJB西暦二千年世界宣教をテーマにした歌「世界のすみずみまで」を作詞作曲して歌いました。ここキトに来るまでは、宣教放送セミナーを何故わざわざ南米のアンデスでと疑問に思っていましたが、来て見てはじめてその意味がわかりました。それはこのセミナーがHCJBでなければ出来ないものだからです。二百人以上の宣教師がそれぞれの才能を生かしラジオ・テレビ放送、技術、医療、教育などを通して伝道しているところは他にはありません。経験豊かな講義が受けられるだけでなく、ジャングルの医療伝道やインディオへの開拓伝道の実情にもふれることが出来、本当にエクアドルならではの貴重な体験でした。日本でサウンドエンジニアとして就職し、学んだことを生かしたいと祈っています。
最も必要なことを体得 ブラジル 佐藤柱輔
多くの人々に聞いてもらえる放送でブラジル日系人社会に福音を宣べ伝えることは私の夢でした。それだけに今回のセミナーで実習を兼ねてHCJBのスタジオから毎週放送できたことが一番うれしいことでした。
セミナーは充実した内容講義でした。放送に関しては専門技術から番組制作に至るまで、宣教に関しては異文化圏におけるコミュニケーションの諸問題や段階的な個人伝道法などを学びましたが、いずれもこれからの伝道に私が最も必要としていることをいろいろ体得出来ました。特に長い経験を持つ宣教師の方々は自分の持っているすべてを分け与えようとし、また知っている限りを教えようとして下さいました。「気取らず」「威張らず」黙々と与えられた立場で福音宣教ひとすじに奉仕されています。その姿をみるだけで無言の教訓を受けました。主から受けたその霊的なおみやげを持ってブラジルに帰ることができるのは何よりの卒業証書だと感謝しています。
(ナザレ福音教会牧師)
La VOZ
No. 128 (1989 1-2)
この広い空のどこかで
ハイハイきいております 南米アルゼンチン 倉林好一
私は三年前、日本で角膜移植の手術をしましたが、結果がおもわしくなく両眼失明同様の視力障害者です。でも息子、娘、孫達が暖かい慰めの言葉をかけてくれ何不自由なく生活させてもらっているので感謝でいっぱいです。私達家族はアンデスの声に肉親以上の親しみをおぼえております。毎夕七時になるのが待遠しく、時間になると家中のだれかが必ずスイッチを入れにかけつけてくれます。サクラサクラの開始音楽が入ると私の心は落ち着きます。こちらはアンデスの声ですと聞こえてくると、身も心もトランキーロ(安堵)になってカマ(寝床)に横になって一時間を楽しく過ごすのです。先日はボリビアのサンファン移住地の中村静子さんからのプレゼント曲ありがとうございました。番組の中で倉林さんおききでしょうかと聞かれた時は、思わずハイハイ聞いておりますと大きな声で答えてしまいました。熱い感激で目が痛くなりました。私はすぐ冷水で目を洗い痛みに耐えました。まったくあの日は生まれて初めて電波で私の名前を呼びかけられ本当に感激しております。どうかこの放送を末長く続けて下さるよう心からお願い致します。
就寝前 くつろぎの時間 西アフリカ リベリア 大脇英敏
十二年ぶりのレポートを出します。最近BCL(短波受信)が再燃しているようですが小生もそのひとりです。もっとも十二年前は日本でしたが、今は西アフリカのリベリアで聞いています。といいますのは、去年から稲作の指導のため青年海外協力隊員として派遣されて来ているからです。まさかアフリカでHCJBの番組に再会できるとは思ってもいませんでした。就寝前のくつろぎの時間、アンデスからのお話と音楽が心を慰めてくれます。毎日アンデスの声を楽しみにしておりますので、これからも続けてください。
飛んできた 懐かしい声 インド洋 モルデブ諸島 池間豊
BCLブームの時以来、十数年ぶりの手紙です。当時中学生だった私もその後音楽を志ざし音楽大学作曲科を卒業。現在は青年海外協力隊に選ばれ、モルデブ共和国の首都島マーレで軍楽隊の隊長として奉仕しています。以前、東京の浜田山キリスト教会でお目にかかったことがありますが、その時の中学生も十二年経てば変わるものです。つい最近のこと寝つかれず、こちらに来て買った短波ラジオをいじっているうちにとても懐かしい声が入感してきました。地球の裏側から電波は大西洋とアフリカを越えてでしょうか。太平洋それとも北極、南極上空を通ってでしょうか。力強く飛んできました。日本語によるキリスト者との交わりから離れて二年、あと一年この地で奉仕することになっています。今後共、全世界の暗黒(霊的)にいる人々のために光をもたらす電波宣教に励んで下さい。
La VOZ
No. 130 (1989 5-6)
放送開始25周年記念
今日「アンデスの声」が生まれて四半世紀め。南米大陸にある赤道の国エクアドルから日本語放送がはじまったのが一九六四年五月一日でした。日本と南米の重要なかけ橋となって活躍されている移住者のみなさんに、ふるさとの香りとこころの糧を送りつづけて二五年、雨の日も風の日も休まず番組をつくるためのスタジオ通いとリスナーに返事を書きつづける毎日でした。しかし、今日という日が、過去を思い出のうちに、未来を希望に包みこんでくれます。朝に夕に語られる「無限の愛」がまるい地球をかけめぐっていくのです。「見えない方」の優しい手に導かれながら。……
二五年という節目の今、まわりは大きく変わりつつあります。技術が成熟し先行きがはっきりしない不確実時代、人々は立ち止まってさまざまな模索をはじめました。原点に立てば、人間はこころの存在。「モノ」から「ココロ」へと生命の尊厳がみななおされています。「宗教」のラテン語の原意は「結び合わせる」です。ダイヤルをまわすと手と手がふれ、心と心が通いあえる実感がわく。そんな人間と人間が結び合える放送をこれからもアンデスの峰から送り続けたいと思います。
愛と祈りをこめて
一九八九年五月一日 尾崎 一夫 久子
La VOZ
No. 133 (1989 11-12)
自転車世界一周 頑張ります
自然の景観に感動 水谷彰朗(京都)
エクアドル・アンデス山脈を南下、四千メートルを越えて自然のきびしさ、美しさを身をもって感じている毎日です。アンデス山脈を縦走しながら、周囲の山々や湖など、ほんとうに理屈抜きに「すごいなあ」「美しいなあ」と感動してしまいます。それにくらべれば、人間の存在というものは、なんとちっぽけなものかと、思えてなりません。「アンデスの声」の放送は朝早く聞いています。
自分なりの出会いを 間中浩史(茨城)
日本を旅立って二年目、いよいよアンデスの旅のはじまりです。うきうきします。自分なりに途中の出会いを大切にしながら、一生懸命見たり、聞いたり、体験したいと思います。「アンデスの声」の放送を心の糧にこれからの旅をつづけますので、いつまでも良い放送をお願いします。ボクの自転車の名前はMomoTomboです。
世界を自分の足で 菊地幸一(群馬)
夢にまで見たアンデスに来た。千メートルのぼって、また千メートルもくだる旅は自転車では決して楽な事ではない。もう十年以上も前になる、電波という目に見えないものが、世界中に流れている―その世界を自分の足で見てやろうと思った。ロッキー山脈を越え、サハラ砂漠をわたり、シルクロードへ出た。オーストラリアのナラボ平原、ニュージーランドでの五日間の山との戦い、そして、このアンデスへ!ひさしぶりでカレーをご馳走になった、たっぷり日本語でも話した、とてもいい時を過ごせた。赤道直下で決意も新たに希望の未来へ向かって出発だ。愛する「アンデスの声」よ、これからも世界に向けて夢を飛ばせ!海の向こう、山の彼方、大空の果てまで!
NAGATANI-guest on the Voice of Andes
永谷“アンデスの声”を訪問
「すでにHCJBの尾崎夫妻を訪問、偶然、事務局の池本さん(※世界一周中)の71年1月訪問、そして、79年11月、中川朝生が、80年1月、河野政曼が訪問、出演している」が昔、放送された時のインタビュー。“南米の皆さま、おはようございます。ご機嫌いかがでしょうか。こちらエクアドル・キト、アンデスの声ですー”が流れていました。そして、スタジオで尾崎さんとのインタビューが、今度の気(旅)で日本時間P.M 8:30〜9:00の間で紹介されます。JACCの宣伝もしておきました。周波数は31m〜9715KHzか11760KHzです。尾崎夫妻の人柄にふれ、また、南米への旅に意欲が湧いてきました。※永谷彰朗・京都(※88年5月、世界一周へ出発)。
※「アンデスの声」Heralding Christ Jesus' Blessings(世界放送伝道団)は地球の真中赤道の国エクアドルから、日本と南米を結んで日本語放送が届けられ、全世界に向けて番組が流れている。牧師の尾崎一夫さんと久子夫人は、64年5月より番組を続けておられ、在留邦人、日本人の拠り所として評価が高く、尾崎さんは87年7月8日、外務大臣表彰を受けておられる。清水が訪問した当時、4歳の祐二君、9歳の慶子さん、11歳の道夫君、それぞれ立派に成長された現(お)元を離れられ、尾崎夫妻は今も昔も、アンデスにペダルを休める若き旅人へ、"God Bless You!"(神の祝福あれ!)と支援を下さるよき理解者である。感謝。さあ、若き旅人よ!赤道とバナナの国、エクアドルをめざし、尾崎夫妻に会いに旅立とう!
La VOZ
No. 134 (1990 1-2)
太平洋を越えて国際電話で「アンデスの声」に出演
聴取者電話参加番組を同時ナマ放送
12月23日、土曜日、朝6時半、日本向け放送の開始音楽が流れると間もなく電話が鳴りはじめ、まず大阪の植田さんの興奮した声が飛び込んできました。
そのあと次々とつながるリスナーの声がそのまま放送されると、「あれあれ、本当にボクの声がラジオからきこえてきた、きこえてきた。」と山田耕嗣さん。「受話器をもつ手がふるえてます。」と小林哲朗さん。「母もそばできいて驚いてます。」と井坂達広さん。手紙でおなじみのリスナーなのに電話の声をきいて、かえってまごついた場面もありましたが、日本だけでなく、北米の斎藤淳一さんや中米の川口浩子さんも参加して下さり、第一回の国際電話によるリスナーとの交流番組は楽しい雰囲気のうちにおわりました。
La VOZ
No. 141 (1991 3-4)
アンデスの声に出逢うまで 飯尾正宏 氏
(前 東京大学医学部教授)
アンデス山脈は、環太平洋の長い「火の環」の一部である。太平洋に面して六千米をこえる高い峰々が雪を光らせている。首都の高原都市キトの北十八キロ米の赤道記念碑とガラパゴス諸島を赤道が結ぶ、エクアドルはそのような位置である。太古、アリューシャン列島、ベーリング海峡を越えて、東南アジアや日本から移住した東洋系インディオが原住民である。彼らの蒙古斑が民族の出自をしっかりと語っている。キト市の中央銀行五階にある考古学博物館を訪れると、アリューシャン列島を越え、また、直接、黒潮に乗った東洋からの民族移動の経緯が入口に明示され、それは彼らの誇りでもあるという。
キトよりリオバンバまでのアンデスの高原列車一日の旅をした。これは一日一便、オリエント急行に似た赤い車両一両を曳くジーゼル車で、単線である。アンデスの雪山を望む峠を越えて列車は走る。りんご畑が現れ、じゃがいもの白い花が明るい。耕作する女性たちはクワとスキだけで耕土は真っ黒く、馬と牛の昔の日本を思い出させる。雨の中、赤や青のポンチョに傘のような小屋が並び、その表情はゴーギャンの女たちのようだ。
リオバンバ郊外のホテルに泊まる。インディオの小楽団が「コンドルは飛んで行く」を竹笛でろうろうと聞かせてくれた。夜、戸外でアンテナをいっぱいに伸ばしてラジオ日本を聞き、そのあとキトに切り替えた。そこへソニーのビデオをかついだ男の人が来て、何をきいているのかという。「アンデスの声」というと雰囲気がやわらいだ。名刺を出してHCJB TVディレクターという。尾崎を知っているか?会うべきだ!という。こうして偶然「アンデスの声」の尾崎一夫夫妻にめぐり逢うチャンスを得た。日本でたまたま短波放送で「アンデスの声」をききあてて喜んでいたので尾崎氏のお名前は存じ上げていた。一夕、御宅でご馳走になり、乞われるままHCJBスタジオで対談「赤道で逢いましょう」に出演する。遥いアンデスの予期さえしなかった旅の空で、こうしてお目にかかってお交わりできるとは。
私の帰国を待って、地球の裏側の三千米の高原からの高出力で対談を放送していただいた。私はふたたび尾崎夫妻に逢っているような思い出の中でそれを受信した。フェージングと多少の混信は地球が動き生きていることの証しのように耳には聞こえた。尾崎さんが「コンドルは帰って来た」という曲も出来ましたよといわれた。その幻の旋律がフェージングの中に聞こえたように思われた。美しい人生の生き方をエクアドルに識ることが出来た私は、アンデスに向けてアンテナを上げる広がりを感じながら、尾崎夫妻に心洗われて、次なるセミナーのバルセロナへ発って行った。
(お知らせ:飯尾正宏氏との二回の対談は4月17日/24日に再放送します。)
La VOZ
No. 144 (1991 9-10)
エクアドル「アンデスの声」は今
尾崎宣教師 一時帰国
日本では一九七七年前後に、海外の短波放送聴取ブームが起こり、「アンデスの声」も一躍脚光を浴びることになりました。家電業界は、カラーテレビ、クーラーなどの販売が頭打ちになったので、若者向けに短波ラジオのキャンペーンを打ち出したのです。
七六年に一時帰国した折には、ラジオ専門誌で「『アンデスの声』のアナウンサー来日」と紹介され、東京・秋葉原の電気店の店頭は、マニアの小中高生たちで黒山の人だかり。テレビでも放映されました。祈祷公会堂では電気メーカーがスポンサーになって二千人も集まった中で、一時間のゲスト出演をしました。仙台、京都、大阪などのデパートや電気メーカーのショールームでの集会にも招かれ、HCJBの働きのあピールや伝道メッセージを語ることができました。さらにキトに戻ると、今度は日本の少年たちからのファンレターが七千通もきたのにはびっくりしました。全員に返事を書くのに大わらわで、キトに在住の日本人の夫人たちに宛名書きを手伝ってもらいました。
十年以上経った今、その少年たちが社会人になって、聴取者としてカムバックしてきています。「あの尾崎さんがまだ放送している」と懐かしんで、手紙を出す人もいます。
私は一時帰国する時は、日本各地の教会で報告集会をもちますので、事前に聴取者にそれぞれの最寄りの教会の住所を知らせて、未信者の聴取者ができるだけ教会につながるようにしています。小学六年の短波放送マニアで、私が帰国した時の集会で「神は愛なり」とスペイン語で書かれた色紙をもらったという青年は、その後イエスさまを信じて、今年七月催された皆天集会「ジェリコ・ジャパン」の奉仕者となり、キトに訪ねてくれました。また、アマゾンの奥地に入植している方が日本に出稼ぎに来ていて、今回教会でお会いしましたが、十七歳のこの方も、放送によって入信されたとのことでした。
海外旅行ガイドブックに「アンデスの声」の紹介記事が載っており、日本の聴取者や旅行中の青年が放送局を訪ねて来られ、今までに何人も番組に出演してくれました。そんなかたちで福音に触れてもらうことも、種まきの一つだと思っています。
聴取者との個人的なつながりを大切にしてきたためか、日本に暮らしながらこの放送が生活の一部になり、放送から学びつつ共に歩みたい、といわれる人々もいます。「アンデスの声」に手紙を出せば必ず返事がもらえる、という信頼関係が長い間に築かれてきたのです。
同様に番組では、聴取者が手紙で打ち明ける悩みや問題を匿名で取り上げ、信仰的な解決の指針を示すようにしています。深刻な問題になればなるほど、人は意外、相談相手を身近に持っていないのかもしれません。「何のために学ぶのかわからない」と言う大学受験生や、十四年ぶりの手紙で、「生きる目的がわからず、毎日がむなし。いずれ死ぬのかと思うと、生まれてこなければよかった」と訴えてきた青年もいます。また、あるサラリーマンは、「仕事がうまくいかず落ち込んでしまい、死にたいと思い詰めたが、この放送を通して聖書のことばに安らぎを得た」と言ってこられました。職場の人間関係、転職の問題など仕事上の悩みが多く、今の日本の世相を反映しているように思います。
学校教育が知育偏重で、本当の自分を見いだすという目的から外れているために、未成熟のまま社会人になってしまうのでしょう。放送を始めた二十七年前以上に、日本人は生きるよりどころを失っているように見えてなりません。
私は、宣教団の定年まで、元気なかぎりは自分のペースで自分のできる役目を果たしていきたいと思っています。
聞き書き・野口和子
La VOZ
No. 145 (1992 1-2)
南米で活躍する青年海外協力隊
初めてお便りします。私は、青年海外協力隊で南米ボリビア国ラパス市に来ている吉田憲司と申します。HCJBの放送は、殆ど毎日現地時間の午後6時から7時までの放送をきいています。先日、サンファン移住地の松本忠良さんからのお便りが番組で紹介され、電話の増設でそのうちに電話がつくとの話がありましたが、その工事の視察に行って来ました。ラパス市からサンファンまでバスで片道約20時間かかりました。移住地は、気候的にも、場所の雰囲気も夏の北海道の広大な開拓地という感じで、子供の頃にもどったようで大変懐かしかったです。移住地の交換局から距離があるため電話線を引けない家々に、ルーラル無線という方式(沖電気製)で電話を引く工事でした。私自身の職種は「搬送」という、ちょっと変な名前ですが、電話の市外通話をする時に、マイクロウェーブ無線や同軸ケーブル・光ファイバーを使用して長距離に声を束ねて運ぶ仕事です。配属先は、ボリビア唯一の電気通信学園で、デジタル通信方式や光ファイバー通信を教えるのが仕事ですが、言葉の壁は相当厚いものがあります。日常会話は多少ブロークンな言葉でも用は足りますが、黒板に向かって、字を書き、日本語で日本人でも理解しにくい電気通信技術を異文化の人々へ教えなければならないという事はなかなか大変です。
「アンデスの声」と私の出会いは、かれこれ20年余りになります。小学生の頃から、ラジオ少年だった私は、短波バンド付きの5球スーパーラジオで、いろいろな国の日本語放送を、フェージングで音質の悪くなった音を我慢しながら、必死で聞きまくっていたものです。高校生の時にアマチュア無線を始めるために、初めて通信型受信機を購入し、12MHz以上の周波数が受信可能になりました。
その受信機はトリオ(現在のケンウッド)社の9R-42Jという型名で、GT管やメタル管と呼ばれた旧型の真空管が使用されていて、面白い受信機でした。当時(昭和43年頃)四国の足摺岬に近い愛媛県の最南端に生まれ育ち、東京にもまだ行ったことのないような、片田舎の高校生だった私にとって、日本から見て、地球の裏側に近いアンデス山脈から放送されている電波(それも日本語)を受信した時の感激は、今も鮮明に残っています。その私が、妻子を日本に残し、現在アンデス山中のラパス(世界最高の空港のある高山都市)でいま生活しているのかと思うと、本当に不思議な感じがしないでもありません。放送で話されるエクアドルの話題は、ここラパスで聞くと共通点が多くてびっくりさせられます。カーニバルの水かけ遊びも毎年にぎやかです。イースターに出る卵型チョコレートも珍しいので日本へ送りました。来年は一番大きい形のチョコレートを子供に送ってやろうと思っています。 (青年海外協力隊 平成二年一次隊 ボリビア派遣 吉田 憲司)