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BBC日本語放送の歩み
資料提供:青木茂紀様
BBC日本語放送の歩み
◆BBCの極東委員会
「日本語を始める理由は日本の世論に強い影響を与えるためである。これは日本の戦争参加を防ぐ強力な手段のひとつとなる」
1941年4月29日付けのBBC部内資料はこう書き出している。この日か、少なくともこの数日前にBBCの極東委員会が会議を開いた。議題は「日本語放送の開始」。この資料はその会議の内容をまとめたもので、積極的に「GO」を打ち出している。
ここで、ある日本人が登場する。ミスターX。新聞特派員である。日独伊枢軸国政策に批判的な意見を持っていたこの人物はBBCから日本語放送に協力を依頼され喜んで引受ける。
当時BBCが計画していた日本語放送は週1回。 これにミスターXの原稿を使うというアイディアだった。
しかしミスターXとはいったい誰なのか。実は、BBCの資料にも本名は出ていない。「名前は極秘扱い」との注意書きまではいっている。
準備は順調に進み、放送開始日も1941年7月1日と決った。毎週木曜日、グリニッチ標準時午前10時半から15分間。タイトルは「ジャパニーズ・ニュース・レターズ」。
ところが、スタートまであと一週間と迫った時に、すべてがご破算になった。内務省がミスターXの採用に「NO」を出したのだ。こんなぎりぎりの段階になって拒否するとは、いったいどんな理由があったのだろうか。だが、現存する資料でこれについて明らかにしているものは一つもない。
この年、1941年12月8日、日本がハワイの真珠湾を攻撃し、アメリカ、イギリス、オランダに宣戦を布告。 戦火の拡大を大きく報じる12月9日付の英新聞「デイリー・スケッチ」の片隅に、次のような記事が出ている。
「現在ロンドンには日本の新聞特派員が五人いる。そのうちのひとりが、昨夜、東京の本社に『会社を辞職する』と電報を打った。彼は英国に留まることになろう。」
この特派員が実はミスターX。当時読売新聞ロンドン支局長だった簗田●次氏である。“パール・ハーバー”のあとも故国日本に帰らず、戦争中に英国籍を取得。戦後はロンドン大学で教べんをとり、多くの英国人に日本語を教えた人である。
その教え子の中にひとり背の高い青年がいた。柔道がめしより好きだったが、腰を痛めてやむなく断念。かわりに日本語をマスターしようと張切って入学したのだ。 この青年がジョン・ニューマンさん。 1963年のことだった。当時28歳。 しかしこの時は、後に日本語部に籍を置くことになろうとは夢にも考えていなかった。
ジョン・モリス氏放送開始の責任者となる
話はさかのぼる。
第二次世界大戦が太平洋に拡大した直後、日本軍は破竹の勢いで勝ち進む。これに合わせるように、日本は電波対策を強化した。この頃、NHKの対外宣伝放送は23ヵ国語、放送時間は一日のベ30時間に達している。
一方、英国外務省も日本語放送の開始を真剣に検討しはじめた。そうした時、この仕事にうってつけの人があらわれる。
ジョン・モリス氏である。日本の宣戦布告までは東京文理科大学、慶応義塾大学などで英語を教えていた。しばらく日本に抑留されていたが、1942年7月に帰国。経歴を買われてただちにBBCにはいり、日本語放送開始の責任者となる。
仕事はまずスタッフ捜しからスタートした。
当時、当然のことだが英国に日本人はほとんどいなかった。いたのは、英国に永住し、英国籍を持っている人だけ。
モリス氏は何人かと会ったが、「放送」と聞くと皆尻込みした。その上、ほとんどがかなりの年輩。日本語を忘れているというわけでもないのだが、 モリス氏の耳にさえ、その日本語は奇妙で古くさく聞こえた。
アメリカに出かけて日本語のできる二世にも当ってた。しかし、モリス氏のメガネにかなう人はなかなかいない。
スタッフ捜しは何回も暗礁に乗りあげたが、とうとう英国でひとりの日本人女性を見つけ出し、やっと放送開始にこぎつけることができた。 スタッフはモリス氏以下トンキン、ホーレイ両氏とクラーク夫人のたった4人。
このうちクラーク夫人だけが英国籍を持つ日本人だった。
初めての日本語放送
1943年7月4日、グリニッチ標準時で午前9時半。ロンドンから初めての日本語放送が短波に乗って流れ出た。内容はすべてニュースで15分間である。
スタジオはオックスフォード通りに面した大きなビルの中。当時BBCの海外放送部門はすべてここにあり、24ヵ国語で一日のベ31時間の放送をしていた。
このビルは現在デパート「C&A」に姿を変えている。
日本語放送といっても、日本語で読むのは一週間のうち4日だけ。残り3日は英語だった。その頃のニュースをひとつピックアップしてみよう。
「グアム島における米国第21爆撃隊より発表の広報によりますと、およそ600機より編成されたるB2超爆撃機隊は、今早朝、日本本州及び九州を襲撃し、4000トンの焼い弾を投下せり。」(1945年7月3日放送分より)
日本語のアナウンスを担当していたのはクラーク夫人。日本名は伊藤愛子さん。 放送上では「メリー」。1945年7月3日付けのイギリスの新聞「イブニング・スタンダード」は次のように伝えている。
「黒い髪、オリーブ色の肌をした日本女性 メリークが、ロンドンから日本に向け放送している。内容はストレートニュース。これこそ日本の指導者層が最も恐れているものだ。」
トレバー・レゲット氏部長に就任
日本語放送は開始後1年5ヵ月、1944年12月31日から30分間に延長。 この内20分は日本語のニュース、残りは英語によるコメントだった。
第二次世界大戦は、この頃までに日本軍が大平洋戦線で敗走を重ね、日本本土も米空軍の連続爆撃で大きな被害を受ける。1945年8月、広島、長崎に原爆投下、14日、日本でポツダム宣言受諾し、第二次大戦に終止符が打たれた。これに先だって、BBC日本語放送ではポツダム宣言の全文を3回に分けて放送している。
日本の敗戦の直後、8月16日から日本語放送は英語がまったく姿を消し、すべてが日本語になった。日本人スタッフもぐんと増え、クラーク夫人のほか、カワイ、ミカミ、オーノといった名前が見られる。いずれも英国籍を持つ日本人だ。
1946年3月、トレバー・レゲットさんが日本語部長に就任した。 モリス、レン両氏につぎ三代目である。レゲットさんは当時の思い出を次のように話している。
「BBCにはいった時、私は『ニュースや番組の内容は政府からまったく干渉を受けない』と聞きました。でも私はひそかに「もし政府とBBCが正面からまともにぶつかり合ったらどうなるんだろう』との懸念を持っていました。その頃、 ニュースは日本語部長が選び、編集していました。部長になってまもなく、私は極東局長のモリス氏にたずねてみたことがあります。もし政府が「それは放送するな』とか、「これをぜひ取り上げてくれ』とごり押ししてきたらどうしたらいいでしょうか。するとモリス氏は平然と答えたものです。『君はまず机に座りたまえ。そして辞表を書く。次に私も自分の辞表にサインする。さらにBBCのすべての職員、会長からタイピストまで全員が辞表を書くだろう』」。
日本から英国を訪れる人々
1948年8月、日本聖公会の八代斌助主教が英国を訪れた。日本人としては戦後初の公式訪問である。もちろんジェット機はなく、双発のプロペラ機。途中何度も休みながら飛んできた。
「私は22年前、6週間を費やしましてこの英国にまいったのでありますが、この度は滞空時間たった52時間でロンドンに到着いたしたのであります。あまりにも文明の進展の速さに驚くものがあります。」
八代主教を皮切りに、日本から英国を訪れる人がぼつぽっと増えはじめる。日本語部では、これらの人々を次々とスタジオに招き、フレッシュな印象を日本に送り届けた。
戦後まもなく首相を務めた日本社会党の片山哲氏もそのひとり、ヨーッパ各国を視察したあと、1949年7月、ロンドンにも立寄った。
「私は、今、ロンドンより懐しき故国に向かって放送をいたしておるのであります。 戦争のなかったスイスは別として、西ドイツもフランスも英国も戦争の災害を多分に受けております。しかしながら三国とも、過去を繰り返して語るにあらずして、将来に向かって雄々しく立ち上っている強き姿を見るのであります。」
日本の敗戦から5年、1951年11月、NHKから初めて神谷勝太郎さんが日本語部に派遣された。日本の放送人としてトップ・バッター。 神谷さんは毎週日曜日に「週間の話題」 を担当していた。 月曜日がアラブえみ子さんの「ミュージック・アルバム」。火曜日は伊藤愛子さんの担当で「イギリス便り」。 水、木曜日はトピックの解説など。 金曜日 「イギリス経済通信」。土曜日は「ンドン今日此の頃」。これがニュース以外のライン・アップだった。
エリザベス女王の戴冠式
1953年。この年最大の話題はエリザベス女王の戴冠式だった。
第二次世界大戦が終って8年。戦争で大きな被害を受けた英国は、長い耐乏生活からやっと抜け出そうとしていた。「女王の御代に繁栄する」とのジンクスに明るい期待をかけ、英国民は6月の式典をわくわくしながら待っていた。
日本語部も事前番組を次々と放送。 そして、当日はもちろん式のもようを生中継した。これを担当したのが藤倉修一さんである。
6月2日。世紀の戴冠式当日は、あいにく朝早くから荒れもようの天候だった。時折り横なぐりの冷たい雨も降りつける。
式場のウエストミンスター寺院前には、やぐらを組んで特別放送席が設けられた。高さ20メートル。パレードが良く見えるのはいいのだが、なにしろ寒い。 レインコートを着ていてもガタガタ震える。しかも、ディレクターもアシスタントもいないワンマン放送。右手にマイ左手ではミキシングをしなければならない。その上、ストップ・ウォッチもなし。 腕時計をにらみながらの原始的な実況放送である。
まあ、それでもエリザベス女王と天皇陛下のご名代皇太子殿下のご到着の実況はどうやらうまくいった。ところが、肝心かなめ、儀式の実況放送で思わぬハプニングが生ずる。
寺院の中で行なわれる式は、表向き実況放送ということになっていたが、実はやぐらの上に置いたテレビを見ながらしゃべるいわゆる実感放送だ。いざ放送が始まって一番困ったのは、テレビカメラがいつも女王さまの姿をとらえてはいないこと。
ウエストミンスター寺院の中には、BBC始まって以木という10数台のカメラが動員され、これで画面が次々と切り替えられて行く。 テレビ中継としてはそれでいいのだが、それを見ながらしゃべる藤倉さんとしては、儀式の順序や流れがしばしば中断されてしまうので大弱り。苦心して調べあげた式次第の原稿を唯一の頼りとししゃべっていたが、とうとう式がどこまで進んでいるかわからなくなってしまった。
そうこうする内に、30分間の放送時間が終りに近づく。 しかも運の悪いことに儀式の進行が予定より少し遅れたため、クライマックスの「戴冠の儀」はわずか1分の差ではいらなかった。
エリザベス女王の戴冠式の頃から、日本では海外に出かける人が次第に増え始める。英国にも政治家、財界人、学者、芸能人らが次々と姿を見せた。
琴の宮城道雄さんがロンドンを訪れたのは戴冠式の直後、1953年7月のこと。羽織はかま、白足袋姿で威儀を正し、BBCのスタジオで琴に向かった。この時演奏されたうちの一曲が「ロンドンの夜の雨」。これは宮城さんがロンドンで作曲したもの。 13本の弦でロンドンのイメージを見事にうたいあげている。
この年の暮、橋本忠正さんがBOACの4発プロペラ機でロンドンに着任。到着早々、濃いスモッグの洗礼を受けた。 先が4,5メートルしか見えない。よく「豆スプのような」と表現されるが、橋本さんには墨汁を流したように感じられた。
この頃、日本語部の部屋はブッシュハウスにはなかった。ストランドの通りからテームズ川に向かってくだる細い通り、サレー・ストリートの古いビル。狭い石の階段を3階まであがり、右側のドアを開けたところが日本語部だった。
一番奥の部屋にレゲット部長。その手前がアラブえみ子さんとタイピスト。入口に近い部屋に藤倉さん、橋本さんら日本人スタッフ4人が陣取っていた。
このオフィスでの最大の悩みは、放送用スタジオが同ビルの中にない、ということ。スタジオはストランド通りをへだてたブッシュハウスにあった。だから、放送用の原稿をかかえて走らなければならないことになる。交通量の多いストランドの大通りを横切るのは時間がかかる。その上、冬のスモッグの時などには走って来る車がわかりにくく、ひやっとすることもあった。
サレー・ストリートのオフィスは1954年の秋に終り、日本語部の部屋もブッシュハウスに移る。
当時の放送は1日1回、日本時間で午後8時から30分間だった。これが、翌年1955年5月29日から1日2回に増えた。日本時間で午後6時が新たにスタート。15分間で、「イギリス事情」、「世界の動き」、「ミュージック・アルバム」などを放送。これを同じ日の午後8時から、ニュースのあとに再放送していた。
1955年6月、日本とソビエト両国間の国交回復を目指す交渉がロンドンで開始された。交渉は中断をはさんで約10ヵ月続いたが、領土問題の扱いをめぐって行き詰り、無期休会にはいる。
しかし、この間、橋本さんの原稿はしばしばBBCの海外ニュースや国内ニュースにも使われ、日本語部の取材が貴重なニュースソースとなった。
ある日のこと、橋本さん宛に小切手が届いた。差出人はBBC。「特ダネ賞」である。日ソ交渉取材での活躍ぶりをBBC上層部が高く評価したのだ。金額も当時としてはかなりの額だった。BBC本部からボーナスが出たのは異例のことである。
民間放送から初出向
1956年12月、ラジオ東京(現TBS)から長谷川哲夫さんが日本語部のメンバーに加わった。民間放送から初出向。その頃のスタッフは部長のトレバー・レゲットさん、アラブえみ子さん、それに日本人4人、このほか2,3人が手伝っていた。
当時ロンドン大学で勉強中の若泉敬さんもそのひとり。日本語部での仕事は週1回。英文の原稿を翻訳しマイクの前で読む。15分間の放送1回について報酬は5ギニー。これが丁度2食付き下宿代一週間分と同額。苦学生には貴重な収入だった。
取り上げるテーマは時事解説。専攻の国際政治関係のものが多い。その点、皿洗いのアルバイトなどとは違ってやり甲斐もあった。しかし、マイクの前でしゃべるのは生まれてはじめて。 時間調整がなかなかどんぴしゃりといかず、慣れるまではずいぶんと冷汗をかいた。
担当は毎週火曜日。 英国時間で朝9時からの生放送だった。
ある日のこと、若泉さんは寝坊してしまう。「しまった」 慌てて飛び起き地下鉄へ。長いエスカレーターを駆け上がり、ブッシュハウスのスタジオに飛び込む。タッチの差でセーフ。
だが、オン・エアには間に合ったものの、やはり慌てていた。
「日本の皆さん、お早ようございます」とやってしまった。この時間は英国では朝だが、日本は夕方だ。その上、本番中にも2,3ヵ所とんだ読み違いをした。
レゲットさんが首をかしげている。若泉さんは放送が終るやいなや、「アイ・アム・ソーリー」を連発して早々に退散した。
「ああ、これでもうクビだろう」覚悟を決めて次の週おそるおそる顔を出す。しかし、レゲットさんは、「これからは気を付けてください」とやさしくひとこと。若泉さんは寝坊した日の解説原稿のタイトル「英国の国防政策」と、その時のレゲットさんの表情を今でも覚えている。
1960年1月、歌手兼女優として人気のあった宮城まり子さんが日本語放送に出演した。
この交渉をしたのは大谷乙彦さん。なぜか出演を渋る宮城さんを強引に口説いて、ブッシュハウスに来てもらった。 スタジオでインタビューを始めたが、話題がパリの印象になったとたん、急に涙声になった。
声をつまらせたまま、しばらく沈黙が続く。 しばらくして宮城さんは「ごめんなさい。 兄が死んだとの知らせをパリで受けたばかりなので….……….」。
大谷さんはあとでこの録音テープを聞きかえし、沈黙の部分をカットしようかと考えたが、まり子さんの人柄が良く出ているように思えたので、そのままオン・エアした。 出演者が録音中に泣き出したのは、日本語部の歴史の中でも珍しいことだ。
この年、1960年4月3日から日本時間の午後6時の放送が中止され、午後8時からの30分間だけになった。
放送時間は短縮されたが、リスナーのお便りは逆にぐんと増える。1960年は一年間で約1800通。前年の3倍近くもはね上がった。
イギリスの芸能便り
1961年6月、日本航空の北極路線東京=ロンドン間が開設。日本の翼が直接英国と結ばれる。その一番機「KAMAKURA号」でロンドンを訪れた島津貴子さんのインタビューも、さっそく日本語放送の電波に乗った。
翌年、秋山雪雄さんが赴任。 「イギリス芸能便り」を担当する。エジンバラ芸術祭、世界演劇祭など大きな催しをレポートしたほか、シェイクスピア生誕400年を記念して、代表作をコンパクトにまとめて放送。
さらにリバプール出身の4人の若者グループ「ビートルズ」をいち早く日本に紹介したのもこの番組である。
当時、日本ではまだビートルズのレコードは発売されておらず、1963年春来英した、渡辺プロダクションの渡辺美佐さん、作曲家の宮川泰さんのふたりもまだビートルズを知らなかった。
秋山さんから話を聞いた渡辺さんらは、ビートルズのレコードをごっそり買い集め、大切にかかえて日本に帰った。スパイダース、タイガースなどいわゆるグループ・サウンズがヤングのアイドルになったのは、それか間のなくのことだ。
1964年、オリンピック東京大会開催。白い帽子、ライトブルーのスーツに身を固めた派遣チームの中にジョン・ニューマンさんの姿があった。
ただしこの時はすでに現役を引退しており、柔道の監督兼コーチ。 残念ながら成績はふるわなかったが、ニューマンさんは気をとり直して「えいやっ」と人生のともえ投げ。日本語部にプロデューサーとして入社。1964年11月のことだった。
チャーチル元首相の死去
1964年には、吉田元首相が訪英した。チャーチル元首相の90歳の誕生日を祝うためである。吉田さんは日本語放送のマイクに向かった。
「サー・ウィンストンは政界を退かれても、なお依然として全英国民の敬愛の的となっておられるのは、英国民の気質、気持を最も良く代表しておる人物であるからと思います。いかなる困難な事態に直面してもユーモアを忘れず、初心を貫ぬくという大胆な態度こそ、大英帝国が数世紀にわたって近代欧州政治、いや世界政治に残した偉大な歴史の原動力であるからであります。」
しかし、英国と日本、それぞれひとつの時代を画した宰相の出会いはこれが最後となった。
1965年1月24日、チャーチル氏死去。 英紙「ザ・タイムズ」は一代の英雄の死をいたんで、第一面全部をこの元首相の写真で飾った。
葬儀の日は朝から、今にも降り出しそうな暗い空。 吹きつける風も冷たく、身を切るような寒さだったが、遺体が安置されたウエストミンスター・ホールからセントポール寺院まで3キロの沿道は、最後の別れを惜しむ達でびっしりと埋った。
日本語部では葬儀のもようを放送。秋山さんがテレビを見ながら実況中継した。
チャーチル元首相の国葬の翌日、1965年1月31日から日本語放送は時間を延長される。日本時間で午前7時から15分間。 これで午後8時の放送と合わせて一日45分間となった。
イギリスのニュー・アイディア
今でこそ、ホーバークラフトといえばどんな乗り物かわかる。しかし、1966年8月、 ポーツマスの近くで第1号機の展示会があるまでは、英国人でさえも想像がつかなかった。
この取材に出かけたのは中条司郎さん、内部もすごい騒音だったが、スピードはさすがに速い。 ビジネスなど先を急ぐ人にはもってこいだ。
「これは今後の海上輸送に大きく貢献し、輸出増大を目指す英国にとって貴重な財源のひとつになるだろう。」とレポートした。今、英仏海峡を結ぶ速くて太い足となっている。
ところで、英国で開発された新製品を紹介する「イギリスのニュー・アイディア」が始まったのは、1967年4月。今は科学担当のスタッフが紹介しているが、その頃はいわば専門外の人たちが頭をひねりながらまとめていた。
ニュー・アイディアだから、当然それまでこの世の中にない物ばかり。短い英文の説明だけでは、いったいどんな代物なのか、まったく見当もつかないこともあった。
三原明さんは、ある日難物にぶち当る。何回読んでもどうしてもわからない。イメージがつかめないのだ。原稿を家に持って帰っていろいろ考えてみたが、まだダメ。
しょうがないので隣家の元中学校長宅にかけ込む。教育者の面子にかけて必死に取っ組んでくれたが、とうとうお手上げ。次の日、ニューマンさん以下スタッフ全員が頭をしぼっても、さっぱりわからない。あげくのはてにとうとうボツになってしまった。
第二次世界大戦から20年以上、日本が〝昭和元禄"などと浮かれている頃、英国人は極東の経済大国にどのような気持を抱いていたのだろうか。水庭進さんは、一度悲しい思いをしたことがある。
ある日、日本語部の仲間とパブに行った時のこと。ひとりの英国人が喰ってかかった。
「お前たち日本人は我々の職を奪った。けしからん。」
水庭さんはこの人の気持もわからないことはなかったのだが、少しむっときたので、言い返した。
「私たちは英国のために日本語で放送しているのです。もしあなたがかわってこの仕事ができるのなら、いつでも喜んでかわりますよ。」
その英国人はしばらくだまっていたが、やがてぶつぶつひとり言をいいながら、立ち去って行った。
もうひとり、中条さんは今でも忘れられない大切な思い出を持っている。
自宅の斜め向いにキンバーさんという定年まぢかの夫婦が住んでいた。しかし、はじめの1年間は朝夕のあいさつも無し。2年半ほどしてそろそろ「グッド・モーニング」が出て、3年目にやっと家にも呼ばれるようにった。
帰国の日が決まり、荷物の整理をしていたある夕方のこと。キンバーさんがきちっとスーツを着てやって来た。
「はじめはあいさつもしませんでしたが、これは小さい時から人の生活に干渉してはいけないと教えられて来たためです。英国滞在が短い人はこの時期に帰国してしまうので、「英国人はとっつきにくい、冷たい』と云われます。あなたが今度英国に来られる時には、私はもうこの世にいないかもしれません。外国の方とこんなにいろいろとお話ができたのは、一生のうちでこれが最初で最後でしょう。どうぞお元気で…。」
レゲット部長が勇退、ニューマン氏があとをついだ
1969年10月、トレバー・レゲットさんが日本語部長を勇退、ジョン・ニューマンさんがあとをついだ。
レゲットさんは第二次大戦が終った翌年、1946年からこの時まで23年間も日本語放送と共に歩んできた。 部長就任直後、テーマ音楽を「ルール・ブリタニア」から今の「イギリスの海の歌ベンボー"」に変更するなど新しい方針を次々と打ち出した。
番組についても、日本語部のスタッフが自分の目で見た事を自分の文章で伝えるよう奨励した。自分で直接取材したものは、文章ひとつ書くにしても、またそれをマイクの前でしゃべる時にも当然生かされてくる。こう考えたからだ。そして、これは今、日本語部の伝統となっている。
さまざまな思い出
レゲットさんについては、日本語部に関係した人がさまざまな思い出を持っている。そのひとり、1968年から5年間在籍した重松彬さん。
重松さんがレゲットさんの名前を初めて聞いたのは、京の英国大使館の二等書記官からだった。彼はレゲットさんの柔道の弟子。師匠の話をする時、心の底から敬愛していることがありありとわかる。
なんでもその人は、20歳前に大学の法科を卒業し、ピアノはコンサートピアニストの道を選ぼうかと迷ったほどの腕。 チェスはBBCのチ ンピオン。柔道は外国人として最高の段を持ち、禅や将棋にも造けいが深く著書もある。筆を持てば書も良くする。 独身というのもいかにも英国人らしい。重松さんは一度ぜひ会ってみたいものだ、と思うようになる。
そんな時のある日、その二等書記官が「BBCで働いてみないか」と持ちかけて来た。重松さんは、もし転職するとすれば仕事の内容、上司、給料のみっつのうちふたつが満されればいいと考えていたので、一も二もなく「OK」。このふたつというのは仕事と上司。給料は「BBCのことだからたいしたことはないだろう」とあきらめた。
出発が近づいた時、BBCの人事部から手紙が届き、「ヒースロー空港に迎え出す」 とある。しかし、ひとりでもホテルを捜せるよう、朝ロンドンに着くBOAC便を予約。 BBCにも一応到着便を連絡しておいた。
ところが飛行機が予定より8時間以上も遅れ、ヒースローに着いた時はもう夜。重いスーツ・ケースをさげて空港の人混みの中を出て行くと、上の方から低い声が落て来た。
「東京カラ来マシタカ」
黒いアノラックを着た背の高い英国人が、かがみ込むようにして聞いている。「イエス」と云うと、その大男はだまって重松さんの手からスーツケースを引き取って歩き出した。
「誰だろう、この男。BBCの守衛かな。それとも運転手だろうか。それなら制服を着ていそうなものだが、アノラックとはおかしい。」
重松さんが「おかねを両替えしたいので、ちょっと待ってください」と声をかけると、大男は振り返って
「私が5ポンド貸シテアゲルカラ、アシタ銀行デカエタラドウデスカ」と言う。
でも、まさか運転手から借りるわけにもいかないので、アノラックに待ってもらって両替えを済ませた。
外に出ると2階建てバスが止まっている。大男はスーツケースをぶらさげたまま、さっさと2階へ。「車は持って来なかったのか」と不審に思ったが、 男について上がり、隣に座った。
ひと息つくとアノラックは首をひねってこちらを見た。
「ステプトウ、ハ、元気デスカ」
重松さんは「あっと息をのむ。ステプトウとは、あの二等書記官のことだ。
(そうか、この大男がレゲットさんなのか。)
「あなたが日本語部長のレゲットさんですか」
「ソウデス」といって、その人はにこっと笑った。顔が輝き、少年のような表情だった。
これが重松さんとレゲットさんの最初の出会い。ひざの上に置かれた手を見ると、小さなバナナほどの指のあちこちにかなりの傷がある。これがピアノの達人の指かと意外に思った。
日本語部にいる間にいろいろ話し合う機会があったが、ピアノの話題はついぞ出たことがない。ゴルフの話も、チェスのことも、それに柔道についても、その5年間にただのひと言も聞かれなかった。それがまたいかにもレゲットさんらしい、と感じられた。
天皇、皇后両陛下がロンドンをご訪問
1971年10月、天皇、皇后両陛下がロンドンをご訪問。在位中の天皇としては、初めての外国旅行である。もちろん、日本語放送の歴史の中でもビッグイベントのひとつ。ご到着の日は、ガトウィック空港、ビクトリア駅などから中継するなど、スタッフが総がかりで天手古舞を演じた。
ところがこの大騒ぎの最中、ロンドン警視庁につかまった日本語部員がいる。 林原博光さん。とんだハプニングだった。話はこうだ。
両陛下がお乗りになった特別列車が着くビクトリア駅には、エリザベス女王、エジンバラ公がお出迎え、このほか、ヒース首相、ヒューム外相ら首脳も顔をそろえている。プラットフォームには真紅のじゅうたん。
定刻、両陛下が列車からお降りになった。
林原さんはこのビクトリア駅のもようをレポートすることになっていた。 放送まであと10分足らず。 駅から50メートルほど離れたところにいるBBCの中継車に向かおうと、近くの扉に手をかけた。そのとたん、警備の警官が立ちはだかった。
「ドコニ行クンデスカ」
「その先の中継車までです」
「NO!ダメデス。イケマセン。コノドアノ外ニハ白砂が敷キツメテアリマス。ソコニ最初二足ヲオロサレルノハ、日本ノ天皇陛下トエリザベス女王デスソレ以外ノ人が足を踏ミ入レルノハ許サレマセン」
「でも、ぼくはその中継車からナマ放送しなければならないんです」
「ソレハアナタノ都合デス。私ニ関係アリマセン」
「じゃあ、どうやって行けばいいんですか」
「アノ先ノドアカラ出テ、駅ヲヒトマワリスレバイイデショウ」
「何分ぐらいかかりますか」
「30分モアレバ行ケマスヨ」
「そんなことしてたら放送に間に合わないじゃないですか」
「シカタアリマセン」
「そこをなんとか大目に見てもらうわけにはいきませんか」
「NO! 絶対ニダメデス」
押し問答が続くが、かんぬきのかかった鉄の扉に体当りしているようなもの。一向にらちがあかない。このにも放送時間は刻々と迫って来る。もう、あと5分もない。その時警官がむこうを向いた。
「今だっ」
扉のノブを廻す。そっと押す。 音もなくあいた。白砂の上を走る。中継車が見えた。
「間に合った!」
と思った瞬間、突然からだが動かなくなってしまた。 忍法金縛りの術に合ったよう。それもそのはず。ふ
たりの大男が林原さんの両腕をがしっとかかえ込んでいるのだ。
ひとりが手帳を出す。「ロンドン警視庁」。男達は私服警官だった。
「コッチへ来イ」
あわれな小羊を引っぱって行こうとする。しかも中継車とは反対の方向へ。
「同じ連れて行かれるのならなんとか中継車の方へ...」必死にもがく。これが効を奏した。 両腕を取られたぶざまなかっこうのまま、やっとこさ車にたどりつけた。放送30秒前、滑り込みセーフ。
マイクに向かっている間も、ふたりの私服はがんばっている。オンエアが終ってからこってりと油をしぼられたが、日本語部の歴史上初の逮捕”はまぬがれた。
天皇、皇后両陛下のロンドンご訪問の直後、1971年11月にトニー・ライトリーさんがプロデューサーとして加わりました。
この年、リスナーからの便りは年間5000通を突破した。
ヒース英首相が日本を訪問
1972年9月、ヒース英首相が日本を訪問。現職の首相としては初めてのことである。
首相にインタビューした原二郎さんは偉い人の前に出るのが大の苦手。そのため、年に1回催されるエリザベス女王ご招待の園遊会もほかの人に譲ったほどだ。しかし、ヨット・レースに出場したり、オーケストラの指揮もするというヒース首相は、隣のおじさんのような態度でしかも威厳を失なわず質問に答えてくれた。
ヒース首相の日本訪問に合わせるように、日本語放送はこの年1972年9月16日から、日本時間の午前7時の放送をさらに15分間延長。 これで午後8時と合わせて一日の放送時間は1時間となった。
エリザベス女王の日本ご訪問リスナーからのお便りは1971年以降、毎年2倍から3倍の割合いで増え続けた。1975年にはとうとう14万通を突破。この4年間で実に30倍近くも伸びたことになる。毎日どっさり届けられる手紙の洪水に、スタッフはうれしい悲鳴をあげた。
1975年、この年は日本と英国を結ぶ大きな出来事がいくつかあった。
そのひとつが、5月のエリザベス女王の日本ご訪問。衛星中継で送られて来る日本の熱烈な歓迎ぶりをテレビで見て、英国の人々はびっくりした。皇居でひらかれた晩さん会でエリザベス女王は英国と日本との深い関係とその協力を強調された。
「世界は今緊張がみなぎり複雑な問題をかかえています。先進国は力を合わせてこれらの問題の解決に努力しなければなりません。日本と英国はあらゆる分野で共通点を持っています。日英両国が協力して問題の解決にあたれば、世界のために大きく貢献できるでしょう。」
そしてスポーツ。
7月、ウインブルドンの全英オープン・テニス選手権大会で、日本の沢松和子さんとアメリカのアン・清村さんと組み女子ダブルスで晴れの優勝を飾った。この大会で日本選手が優勝したのは1934年の混合ダブルス以来41年ぶりのこと。 沢村さんは中村哲夫さんのインタビューに答え「世界一のトーナメントで優勝できたなんて、まだ信じられません。 夢みたいです」
と感激していた。この声はもちろん日本語放送で電波に乗った。
同じ年の8月、三笠宮崇仁殿下がロンドン大学の招き英国を訪問。さまざまな制約をくぐり抜けて日本語部が単独インタビューに成功した。
日本と英国の共通点のひとつは、共に君主国であるということだ。 BBCのスタジオで神田秀一さんが、日本の皇室と国民との結びつきについて殿下のお考えをきいた。
「エリザベス女王が日本にいらした時のテレビもロンドンで拝見したり、いろいろと感ずるところがあったんですが、まあ日本側から見れば英国の王室のあり方を参考にして、日本の皇室の、あるいは皇族のあり方をこれから研究して行くべきだろうと思います。」
歴史家としても知られる宮さまは気さくな方で、このほかほとんどすべての質問に答えてくださった。録音は30分を超えてしまう。神田さんは、あれも欲しい、これも入れたいと編集に大変苦労した。
シルバー・ジュビリー
1977年はエリザベス女王が即位されて丁度25年。この年英国はシルバー・ジュビリー(即位25周年記念)の行事でわき立った。
6月、ロンドンでは記念式典が盛大に挙行され、華やかなパレードがバッキンガム宮殿からセントポール寺院に向かう。
「イギリス海兵隊軍楽隊の演奏する英国国歌にのりまして、今、ステーツコーチがエリザベス女王をお乗せしてバッキンガム宮殿を出発しました。沿道の観衆の歓迎に女王はにっこりとお笑いになって手を振ってこたえていらっしゃいます。 左側に女王、右側にはエジンバラ公がお乗りです」
中村哲夫さんのテレビを見ながらの変則実況中継した。
ハロー・サッポロ
これより前、この年の2月には、日本語部にとって画期的な出来事があった。日本と英国を結ぶ二元放送が初めて実現。雪まつりでにぎわう北海道・札幌とロンドンのスタジオが電波を通じてがっちりと握手したのだ。
雪まつりの会場には、寒さもいとわず短波受信機をかかえたBCLファンが大勢つめかけ、目の前でくり広げられる日本語放送に熱心に耳を傾けていた。
「ハロー、サッポロ サッポロにいるニューマンさん」
「きょうは暖かくなったということですが、雪まつりの雰囲気はいかがですか」
「スゴイデスネ。大勢の人が集マッテイマス。 キョウハ特ニニギヤカデスヨ」
「ビッグベン雪像は見ましたか」
「ハイ、何回モ。ソシテ、今、大勢/BCLファン、ソレカラ観光客モビッグベンノ前ニ集マッテ放送ヲ聴イ
テイマス」
新・英語でどうぞ
この二元放送は、放送局とリスナーが一体となって作りあげたものだが、日常番組面でも送り手と受け手のキャッチボールを生かした工夫がいろいろと登場している。
そのひとつが福田均さんの「新・英語でどうぞ」。
リスナーからの質問に答える形をとり、親しみやすい内容で英語についての関心を深めようと狙った。固苦しい英語講座ではなく、番組としての面白さも出るような演出も試みている。
ニューマンさん、ライトリーさん、レゲットさんが先生3人がそれぞれ持ち味を生かしたユニークな英語のレッスンだ。この中でライトリーさんは時に得意のものまねを披露して好評だった。
ロビンフッドの冒険
トニー・ライトリーさんの特技はほかの番組でも発揮された。1977年から78年にかけて放送された「ロビンフッドの冒険」では、選曲と効果音を担当、大乗りに乗って格闘シーンではひとりで叫び声も入れたりした。
この番組の仕掛人は辻川一徳さん。 「西洋講談みたいな」ヤツができないかなと言い出した福田さんと相談して、「ロビンフッド」と決定。 翻訳と脚色もふたりで担当した。
放送開始に先立ってPR写真を撮影。 貸衣裳で身を固めたロビンフッド・辻川さん、悪代官・福田さん、マリアン姫・秋島百合子さんの3人がハムステッドヒースで大芝居を演じた。
英国に初の女性首相
アンクル・ジムが鉄の女のアッパーカットで吹っ飛んだー
1979年5月に行なわれた総選挙で、保守党が労働党に大勝。英国に初の女性首相が誕生した。
この年の6月、東京で開かれた先進国首脳会議に出席するサッチャー首相に細川幸正さんがインタビュー。史が首相就任後はじめて単独会見である。
実はこの日、細川さんはコベント・ガーデンのオペラ「ラ・ボエーム」の切符を買っていた。しかし仕事となればいたしかたない。
残念ながらあきらめて、ニューマンさんと首相官邸、ダウニング・テンにむかう。
案内された控え室は3階の格調高い部屋。ビクトリア風の調度品が具合良く配置されている。世界の注目を浴びている女性宰相に会うと思うと、さすがに落着かない。 やたらノドが乾く。時計を見る。あと10分。
こんな時にはえてして何か起こるものだ。案の定、なにやら催してきた。
「トイレに行きたいのだが…」
隣りに座ったニューマンさんにささやく。
「ミー・トゥー」
官邸には前に一度来たことがあるが、たしか1階にあったはずだ、という。ふたりでかけ降りた。しかし、いくら捜してもそれらしい所はない。うろうろしている内に時間はどんどん過ぎて行く。しかたなくふたりは目的を果さず控え室にもどった。
約束の時間を10分過ぎた頃、サッチャー首相があらわれた。写真で見るよりすらりとして背が高い。
「ハウ・ドウ・ユー・ドゥ」
情けないことに語尾が震えている。与えられた時間はたった6分間。無我夢中で録音を終えた。
首相官邸を出てタクシーに乗った時には、全身汗びっしょり。くたくたになってしまった。だが、不思議なことにトイレの欲求は消え去っていた。
エイプリル・フール
「ビッグベンの大時計がデジタルに変わる!」1980年4月1日、エイプリルフール特別番組を放送した。
日本語部のスタッフが総出演。ビッグベンの番をしている人物の話をでっちあげたり、ロンドンを訪れた日本人観光客に「ビッグベンがデジタルになるがどう思か」などとインタビューしたり…...........。 浜野崇好さんは「英経済の地盤沈下に悩むサッチャー首相が英国のイメージチェンジのためにひねり出した奥の手だ」などともっともらしい解説をつける。
おまけに、「日本語部では解体するビッグベンの針4本をもらい受けることになった。これをリスナー4人に先着順でプレゼントする」と放送した。
するとどうだろう。まず、大平洋を航海中の貨物船の乗組員から「ビッグベンノハリキボウ」と電報が飛び込んで来た。その後、「ぜひ欲しい」との手紙が速達で続々と届けられ、とうとう300通に達した。
大時計の針は長さが長針で6.5メートル、短針で4メートルもある。とても日本へ送るわけにはいかないのに、放送の内容が大まじめだったこと、エイプリル・フールの番組だと断ってなかったことから、リスナーはすっかり信じ込んでしまったようだ。
あまりにも見事にだまされたリスナーに申し訳けないので日本語部では特別の受信報告書を作成し、全員に送届けた。
サプライズショー
ジョークといえば、毎年クリスマスに放送する「サプライズショー」もすっかり名物になった。
1980年は「ロンドン忠臣蔵」。47士が雪のンドンに勢ぞろいするとの想定だ。日本語部関係者オールスターズが総出演。 なぜかジャイアント馬場や野球解説の故小西得郎さんも登場するというシッチャカメッチャカの内容だった。
「なにがなんだか良くわからない」とのお便りもいただいた。が、この「サプライズショー」は、平素はしごく真面目なスタッフが年に一度の忘年会"。なにとぞ平にお許しのほどを。
そしてこれからも、BBC日本語放送をどうぞごひいきに。すみからすみまで、ず、ず、ずいーっ、と。
(一花俊 )
一花さんに
この原稿を書いていただいた御礼を申し上げたいと思います。 一花さんはABC朝日放送)の仕事の上に時間をさいて書いて下さったので、大変ご苦労があったと思います。感謝致します。
ジョン・ニューマン
後記
「日本語放送の歩 とまとめてみないか」とニューマンさんから話があったのは、1980年の春。諸先輩にお願いして原稿を送っていただいたのに、私の怠慢のため脱稿が予定よりかなり遅れてしまいました。数多くの皆様からいただいた原稿全部を生かし切れず、まことに申し訳なく思っています。
(一花俊 )
4月24日、東京で行なわれた文化懇談会(司忠行主宰)に出席した30名近くの人たち(日本人 ・イギ
リス人・アメリカ人)が1945年6月7日のBBC日本語放送のテーブを聴きました。
編集・制作にあたって
この刊行物は英国放送協会(BBC) の日本語部で出版され、日本の数多くの聴取者の手に渡るものであるため、また、変化する国際情勢のもと『日本と英国の友好親善をより一層よくするための配慮』にもとづき、「写真でみる日本語放送の歩み」を追加し、駐日大使の序文をいただき、日本語部長の協力も得てここに出版することが出来ました。最近、1945年6月7日の「BBCの日本語放送(AIRからも中継)」の録音テープを聴きました。アナウンサーの声も現在の人のもののように生き生きとしており、あの頃の日本語放送を自分自身でも聴いた記憶もあり、大変に興味深く感心しました。
BBCの放送が今後もより多くの皆さんにとって有益なものとなることを祈っております。
1982年5月
BBC日本語放送 オナラリー・アソシエイト
司 忠行