論集の構成をとる本書の内容は、タイトルから明らかなように近代における人文学の形成を、日本を中心に取り上げたものである。一言で「人文学」と言っても、その内容は実に多岐にわたるものであり、必然的に本書が採録する各論文の内容は多分野にまたがるものとなっている。小稿ではその概要を歴史学研究との関わりより紹介することにしたいが、まず全体の構成は、以下のように三部に分かれている。
第一部「「学知」編制の系譜」
第二部「越境する言葉と概念――他者との邂逅」
第三部「蔵書形成と知の体系」
それぞれの部がどのような内容提示を目的とするのかは、表紙に記された以下のようなコピー文が参考となろう。
「第一部…日本の近代人文学の学知がいかに編制され、アカデミズムにおいてどのように学問が構築されたか」
「第二部…過去や異文化という他者との邂逅が、翻訳・翻案などの営為を伴い、いかに新たな知を創造していく力となるか」
「第三部…近代図書館においていかに蔵書が形成され、新しい知の体系化がなされたか」
このような問題提起をふまえ、全体で17本の論文が掲載されている。その内容は実に多彩であるが、やはり中心的な内容となるのは、明治以後の日本において今日的な意味での「人文学」がどのようにして形成されていったのかを取り扱う第一部での諸論考であろう。たとえば最初に掲載された廣木尚「「国文」から「国史」へ」では、帝国大学での学科編制の変遷を手がかりとして、当初の「国文」という人文学を包括的に扱う学問の枠組みの中から、どのようにして「国史」が独立を果たすに至ったかを追ったものである。こうした近代における人文系の学問の枠組みが確立していく過程をめぐっては、陣野英則「明治期の「文学」研究とアカデミズム――国文学を中心に」も文学の側より取り上げており、新川登亀男「戦後現代の文・史・哲と人文学の世界」がその後の今日に至る人文学の変遷過程を概観していることと併せて、まさに本書の主題がこれらの論考を通じて具体的に明らかにされている。
本書の意義として指摘できることは、日本においてどのように近代の人文学の枠組みが成立していったのかが、これらの論考を通じて改めて明らかにされたことであろう。言うまでもなく、近代日本の学術の枠組みは欧米からの移入をもとに確立され、その過程では帝国大学史学科で教鞭を執ったドイツ人リースなどお雇い外国人教師が大きな役割を果たしていった。こうした既知のプロセスが改めて取り上げられる一方で、伝統的な学術の枠組みも決して過去のものとなったわけではなく、とりわけ自国の文化を対象とする人文系の学問においては江戸時代からの継続の上で、こうした西洋由来の近代学術との接点が模索されていったことが明らかにされている。
こうした本書の内容は、中国史を研究対象とする評者にとっても非常に興味深いものであった。これも指摘するまでもないことであるが、近代以前の日本の学術がほぼ全面的に依拠してきたのは伝統中国社会における学術のあり方であり、そこでは儒学を柱とする古典教養の習得が知識の大前提とされた。そのことは、近代に至っても中国の古典が日本人にとっての古典として改めて位置付けられていったことを論じる渡邉義浩「日本の古典としての漢籍」の内容からも明らかであろうが、こうした学術のあり方を受容してきた近世末期の日本の知識人にとって、明治以後代わって欧米に由来する学術体系に全面的に移行することが求められるようになっても、それまでの自らの学術・学知のあり方を全く抛棄することは極めて困難であり、伝統的な学術知識を基礎として近代の学術を受容していったことが様々な面から指摘できる。そのことは、たとえば西周ら哲学者による翻訳を取り上げる第二部掲載の上原麻有子「創造する翻訳――近代日本哲学の成長をたどって」などからも明らかにできるが、西洋に由来する概念を日本語に取り入れるにあたり、漢字を用いて漢語化するという手法が一般的にとられたことは、その受容を容易ならしめたと同時に、ある特定の漢字を訳語としてあてはめたことで、原語には本来なかった含意を持たせていく機会ともなったといえる。そのことは、本書が主題とする「人文学」という概念をとらえる上でも大きな意味を持つといえよう。前掲の陣野論文が論じているように、明治期においては人文学に相当する概念は長く「文学」と称され、そしてそれは西洋のliteratureに対応する訳語として用いられた。そしてもともと「文学」という言葉は、古代中国以来の長い歴史を有するものであるということも指摘されているが、最も根源的な概念である「文」という字が本来どのような意味を有していたのかということは、他の論考も含めて必ずしも十分には説明されていない。
甲骨文字までさかのぼる「文」の意味は、literatureと同様に多義的かつ多層的であるが、以下のような用例をその最も広範な含意として挙げることができる。
天地を経緯するをこれ文と謂う(『資治通鑑』巻二百一十三、開元十九年三月丙申条)。
司馬光による評語の一節であるが、「天地を経緯する」とは宇宙の森羅万象を秩序立てるというほどの意味であり、この上なく大きな意義が「文」という言葉に込められている。たとえば「天文」という言葉もこうした意味からの用例であり、今日における理系の諸学問も、本来は「文」という概念に包摂しうるものなのである。こうした言葉を近代学術の一分野に冠することで、そこには伝統的な「文学」という言葉をそのまま引き継いでいるように見えて、実は大きな意味の転換が生じていったということを、本書ではより深く考究することができたのではないかと思う。
その上で、こうして日本において成立していった近代人文学の学問体系は、その後漢字文化を共有する周辺の東アジア諸国へと伝播していくこととなった。その一端は、第三部に掲載された河野貴美子「中国の近代大学図書館の形成と知の体系――燕京大学図書館を例として」より知ることができるが、まさに学問体系と対応する図書分類が、20世紀に入るとともに伝統的な「経・史・子・集」の四部分類から日本などを参考にした近代的な分類方法へと移行していったことが取り上げられている。こうした学問体系の近代的再編をめぐっては、前掲の新川論文も近代以降の東アジア各地域における大学の学部学科編制を題材に論じており、中国においても近代的な高等教育体制が確立された20世紀初頭に人文系学部の「文・史・哲」の枠組みが成立していったことが指摘されている。まさに本書が主題とする近代人文学の形成は、日本のみにとどまらず、東アジア地域全体において「近代人文学の学知がいかに編制され、アカデミズムにおいてどのように学問が構築されたか」ということにも関わるものといえよう。そうした大きな問題提起にもつながる豊富な成果を含むものであることを最後に紹介して、この小稿を終えることとしたい。(千葉正史)