1 2024年9月26日、静岡地方裁判所刑事部(國井恒志裁判長、谷田部峻、益子元暢各陪席裁判官)は、いわゆる袴田事件の再審に対して無罪判決を言い渡した。
私たちは、法学研究者として、同時に司法問題に関心を持つ市民として、本件に関心を寄せ、冤罪として救済されるべき事件と考えてきた。この度の判決により、袴田巌氏の雪冤が果たされたことを歓迎し、再審請求に尽力された関係者ならびにこれに応えた裁判所に対し、深く敬意を表するものである。他方、検察官におかれては、本件無罪判決を早期に確定させるべく、控訴手続を取らないことを求める。
さらに、本件は雪冤まで58年余りの日時を要したが、誤判救済がより迅速になされるよう再審法改正が進められるべきこと、誤判を生まない刑事司法に向けた改革が進められるべきことを、司法関係者・国会関係者に対して併せて求めたい。
2 再審判決は、「三つのねつ造」を指摘して、これらを証拠排除した。すなわち、
① 袴田巌氏の検察官に対する自白調書は、黙秘権を実質的に侵害し、肉体的・精神的苦痛を与えて供述を強制する非人道的な取調べによって獲得され、犯行着衣等に関する虚偽の内容も含む点で「実質的にねつ造されたもの」であり、任意性に疑いがある。
② 5点の衣類は、事件から相当期間経過後の発見に近い時期に、本件犯行とは無関係に、捜査機関によって血痕を付けるなどの加工がされ、 みそタンクに隠匿された。
③ 5点の衣類のうち鉄紺色ズボンの共布とされる端切れも、捜査機関によってねつ造されたもので、いずれも証拠の関連性を欠く。
④ 本件の事実関係には、被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない、あるいは、少なくとも説明が極めて困難である事実関係が含まれているとはいえず、袴田巌氏が犯人であるとは認められない。
というものである。
本件では、捜査のあり方ならびに袴田巌氏が犯人であることについて確定一審の段階から深刻な疑問が抱かれてきた。再審開始決定もこれらの疑問を明確に指摘し、「拘置をこれ以上継続することは,耐え難いほど正義に反する状況にある」として袴田巌氏を釈放する決断をした。これらの疑問点を改めて指摘した再審判決は、一面で当然であるとはいえ、捜査手続の問題性ならびに「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則を意識しての判断として、評価に値する。
3 このような無罪判決に対して、検察官が控訴を提起することがあれば、袴田巌氏の雪冤を一層遅延させることとなる。
無罪判決に対する検察官の不利益上訴が憲法39条の観点から許されるか否かについては、学説上争いが存在する。しかし、検察官上訴が許容されるとの前提に立っても、検察官が本件において控訴の手続をとることは許されるべきでないと、私たちは考える。
すなわち、憲法39条は、「二重の危険の禁止」を被告人の基本的人権と定め、被告人に対する裁判のむし返しを禁止している。本件においては、袴田巌氏は確定判決において死刑判決を宣告され、これが確定することにより、有罪の危険を現実化させられた。再審請求によっても、確定審で有罪判決を受けたという事実(第1の危険)を消し去ることはできないのであり、再審無罪判決に対して控訴することは、被告人を第2の危険にさらす結果となる。
また、本件においては、検察官は、確定判決、第1次・第2次再審請求の各手続段階を通じ、多数の証拠を提出して袴田巌氏の有罪立証に努めてきた事実がある。本件再審無罪判決も、そのような検察官の主張・立証を踏まえてのものである以上、攻撃防御はすでに尽くされたといってよい。従って、仮に検察官が再審無罪判決に対して控訴手続をとるとすれば、それは、適正手続の理念(憲法31条)のもと、訴訟上の権利の誠実な行使を求め、その濫用を禁ずる(刑訴規則1条2項)刑事訴訟手続の趣旨に反するものといわざるをえない。
さらに、本件は事件発生から58年、第1次再審請求から44年と極めて長期間が費やされている。袴田巌氏ならびに第2次再審の請求人である姉・袴田ひで子氏は、60年近くも事件に翻弄され、巌氏はその結果、精神を病むという状態に追い込まれている。仮に検察官控訴によりこのような状態が一層長期化するとすれば、迅速な裁判を受ける被告人の権利(憲法37条1項)を侵害するのみならず、法理を超えた人道問題であるとすらいえる。検察官控訴は、検察の歴史や名声に汚点を残すこと以外の何物でもない。
以上の点から、本判決に対し、検察官は控訴権を行使すべきでない。
4 最後に、本件があるべき結論に到達するまでに極めて長期間を費やした背景には、明白性の判断方法といった実体的基準、請求人の権利保障・証拠開示などの審理方式、再審開始決定に対する検察官抗告の問題など、再審請求・再審公判に関する現行刑訴法・刑訴規則の規定の不備が存在している。
そして、起訴前の長期の身体拘束、連日にわたる長時間の苛烈な取調べ、執拗な追及による虚偽自白の獲得、捜索・押収過程の不透明性と事後検証の困難さ、検察官による被告人に有利な証拠の不開示、違法・不当な捜査に対する裁判所のチェックの弱さなど、袴田事件においてみられた刑事手続の問題は、現在も残存しており、誤判を生みだす要因となっている。
私たちも、かねてからこれらの問題を指摘してきた。本件を契機として、このような問題点の改革と無実の者を迅速に救済する再審制度の確立に向けた立法府の決断を期待する。また、私たちは、そのための協力を惜しまないものである。
2024年10月8日
発起人代表
村井敏邦(一橋大学・龍谷大学名誉教授)
大出良知(九州大学名誉教授)
川崎英明(関西学院大学名誉教授)
白取祐司(北海道大学名誉教授)
高田昭正(大阪市立大学名誉教授)
呼びかけ
葛野尋之(青山学院大学教授)
笹倉香奈(甲南大学教授)
新屋達之(福岡大学教授)
高平奇恵(一橋大学准教授)
田淵浩二(九州大学教授)
豊崎七絵(九州大学教授)
中川孝博(国学院大学教授)
渕野貴生(立命館大学教授)
松宮孝明(立命館大学教授)
三島聡(大阪公立大学教授)
水谷規男(大阪大学教授)
事務局:新屋・笹倉・豊崎