鶴江台は第一次と第二次の浦上村の信徒達が2年ぶりに感動的な再会をした場所であり、殉教者の最初の埋葬地である。彼らの苦難と強い信仰を証しするため、1982(昭和57)年、萩教会主任司祭アルバレス神父により「殉教者の平和の十字架」が建立された。その後2010年、浦上信徒の子孫が残された遺骨の発掘調査を行い、この十字架のすぐ下の藪から流配者の遺骨が見つかり注目を集めた。現在、殉教者名記念碑や長崎浦上四番崩流配者葬地跡の碑がたっている。
平和の十字架紹介動画
荒野の十字架
平和の十字架紹介動画
ハレルヤバージョン
「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリシタン弾圧で、長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど、その過酷さと陰惨さ・残虐さは言語に絶する恐ろしい行為だったという…
1873年(明治6年)2月24日、日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した。配流された者の数3394名、うち662名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くしたという。
正義の為に迫害される人は幸せである 、天の国は彼らのものだからである
正義の為に迫害される人は幸せである 天の国は彼らのものだからである(マテオ<マタイ>5-10)
明治元年(一八六八)につづいて明治三年、政府はキリスト教弾圧政策をとり、長崎浦上全村約四千人のクリスチャン を全国各地に流利した、これがいわゆる「浦上くずれ」で ある、このうち約三百名が萩の地に流罪となった、下関に上陸した第一陣六十六名は歩いて萩に着き、大島と羽島に流された後、堀内の岩国屋教(現キリシタン墓地)に閉じ込められた。
第二陣の者二百二十六名(男九十二名女子供百三十四名)は、明治三年五月二十八日鶴江台の小港に上陸して、二年前に流された同胞と感動的な出会いとなった。信仰なお厚い彼らを改宗させる為に、三年間つづけられた残虐な拷問と飢えによって四十四名が英雄的な殉教を遂げた。
彼らは、仮にこの地に埋葬されたが後、明治二十五年ビリオン神父によって、堀内の岩国屋教跡に建てられた記念碑のもとに荘厳に埋葬された。信教の殉教者になった波らの信仰と勇気を記念して、ここに十字架を建てる。 昭和五十七年五月二十八日 萩カトリック教会
「殉教者の平和の十字架」説明書きより転記
キリシタン遺骨
140年ぶり対面
キリシタン遺骨 140年ぶり対面
2010年3月16日
明治初期、政府のキリシタン弾圧政策で長崎・浦上から萩に流刑され、拷問や飢えで亡くなったキリシタン信者らが埋葬された萩市椿東・鶴江合の荒れ地で、長崎市からやってきた子孫らによる遺骨の発掘が進められている。15日までに遺骨の一部が見つかり、子孫らは約140年の時を隔てた対面に「長い間、放置して申し訳なかった」と涙ぐんだ。発掘はしばらく続けるという。
発掘をしているのは長崎市辻町の無職岩永勝利さん(74)ら親族3人と萩市瓦町のキリシタン研究家宮木忠雄さん(86)。
宮本さんによると、キリシタン弾圧政策をとった明治政府は、長崎・浦上の約3千人のキリシタン信者を全国各地に流刑した。「浦上四番崩れ」といわれ、萩には1868(明治元)年に第1陣として66人、1870(明治3) 年に第2陣の226人が流された。
萩カトリック教会が1982年に鶴江台に建てた「殉教者の平和の十字架」には「3年間続けられた残酷な拷問と飢えによって4人が英雄的な殉教を遂げ、この地に仮埋葬された。信仰と勇気を記念してここに十字架を建てる」と記されている。埋葬された一部は明治の中ごろ、ビリオン神父によって市内堀内の岩国屋敷跡に埋葬されたが、ほかはそのまま放置されたらしい。
岩永さんによると、萩に流刑になった先祖一族の名が名簿に載っていたことから萩を訪れ、竹やぶになっていた埋葬地とみられる場所の周辺を今月5日から切り開き、約1㍍の深さまで発掘を続けていた。岩永さんは「本当にこの地に遺骨があるのか分からなかった。投げ捨てられたような状況を見て、ただ泣けてくる。遺骨はちゃんと供養したい」と話していた。
朝日新聞より転記
┄┄┄
信徒の山田さんの先祖も「旅」の経験者だ。山田さんは子どものころ聞いた先祖の苦難を詳しく知ろうと、十数年前から文献などを調査。父方の曾祖父やその両親が金沢に流されたことや、母方の先祖も鳥取に流されたことを突き止めた。
さらに今年3月、信徒の仲間とともに、流刑地の一つだった山口県萩市で浦上信徒が埋葬されたとみられる竹やぶの発掘を始めた。週末を利用して長崎から通い、約2カ月かけて数々の人骨を発見した。今後は追悼のための場所を整備する構想を描いている。
「苦難を経験した浦上信徒をとむらいたい」と話す山田さん。先人の揺るがぬ信仰が禁教令を廃止するきっかけになったことについて「浦上の信徒がいなければ、日本にはいまだに信教の自由がなかったかもしれない。苦しかっただろうが、その一生は無駄ではなかったはず」と思いをはせる。
〇〇〇〇より転記
殉教者のエピソード
「ツルの“寒ざらし”」
長州萩に流された、本原郡山中の清四郎の娘ツルの寒晒しの拷問は後年の語り草になるほどの苛酷なものであった。
明治二年、ツルはまだ二十二歳の若い娘であった。なお父清四郎は明治二年津和野で殉教。五十五歳であった。
裸の体に積もる雪
「今日から勝負だ。その着物は着せておかれぬ。」「これは人から貰って着ているのではありません。脱げません。」 神官は炊事夫を呼んで着物を脱がせようとする。ツルは柱に抱きついて脱がされまいとしたが、弱り切っているツルには抵抗の力もなく、腰巻一枚にされてしまった。冬のさなかで、寒い北風が吹き通っている。「日本の石を一つ貸しておく。あちらに行って膝を立てろ」と、腰巻一つのままの裸で、外庭の石の上に端座(正座)させられた。朝から晩まで一粒の飯も与えず、そのままである。
歯を食いしばり、膝を押しつけても、五体がふるえて、膝まで飛び上がろうとする。それに雹までバラバラと吹き付けてくる。ツルはしかし辛抱していた。夕方になると裸のまま室に帰すが、翌朝はまた寒晒しである。
一週間もそれがつづいた。 その一週間目に、目も口も開けぬほどの大雪となった。ツルもいよいよ死を覚悟した。同室の婦人たちは、ツルのためにオラショ(祈り)を唱えて、神の助けを求めようとしたが、先立つものは涙で、声を出しうるものがない。やっとの思いでオラショを一区切り終わり、外庭に目をやるとツルの姿が見えない。いよいよ凌ぎ通すことができず改心者の部屋につれて行かれたのかと、がっかりしてよく見ると、黒い髪の毛が白雪の上に見えるではないか。雪に埋もれてしまっていたのである。
浦川和三郎司教「旅の話」より
その後夕方まで雪に埋もれ、死にそうになったツルを見て、とうとう役人が根負けして部屋に入れて暖めてやり、この日を最後に女性への拷問は行われなかったのだそうです。
生き残ったツルは、禁制が解かれた明治六年に帰郷して修道女となり、岩永マキが創立した十字会に入って孤児の養育と自己修養に励み、生涯を神のために尽くした。大正十四年十二月、浦上の十字会で逝去。享年七十八歳。
長崎の浦上天主堂に安置されている
「拷問石」
山口藩に流配され帰郷後、司祭・修道女になった人々
霊名/氏名/出身地/帰天日
カロロ/岩永正象/本原郷平/1925年3月28日(66歳)
カタリナ/辻本ハツ/本原鄉辻/1911年7月20日(50歳)
マリア/真田キミ/中野郷橋口/1924年3月28日(62歳)
アンナ/溝口ベン/本原鄉平 /1940年10月10日(74歳)
カタリナ/岩永ツル/本原鄉山中/「寒ざらし」のツル 1925年12月28日(78歳)