福田安次氏の略歴
福田安次さんは、1924(大正13)年8月6日に愛媛県新居浜市多喜浜で7人兄弟の三男として生まれました。
1941(昭和16)年に陸軍兵器学校へ入学、1944(昭和19年)に下士官として暁部隊へ配属されました。軍では広島市宇品でエンジンと帆を備えた小型船の徴用業務(軍が船を借り上げること)に従事しました。
21歳の誕生日であった1945(昭和20)年8月6日、宇品の桟橋付近で原爆に遭いました。爆心地から離れていたため、福田さんにケガはなく、そのまま被よる負傷者を船で似島へ送る業務にあたりました。市内から運ばれてきた人は、大半が全身やけどの状態でした。3日くらい宇品と似島を船で往復しましたが、その救援活動で一番印象に残っているのは中学生が非常に多かったということです。その後、福田さんは行方不明になった船員を探しに市内に入り、被爆しました。
戦後は軍関係の造船所が民営化されたことに伴い、そこで働き、途中仕事はかわりましたが、以来ずっと広島で暮らしました。
管理職を離れ、どこか満たされない気持ちでいた58歳の時、フラワーフェスティバルの会場で、嵐の中の母子像に捧げられた「変わった千羽鶴」に目が留まりました。それは新聞広告で丁寧に折られた素朴な千羽鶴で、福岡県京都郡犀川町鐙畑小学校児童・父兄・教職員一同と書いたリボンが添えられていました。
福田さんが、花の種や絵ハガキなどと一緒に「広島に修学旅行に来てくれてありがとう」という手紙を出したことから鐙畑小との交流が始まり、福田さんからは毎月絵本が、鐙畑小からは季節の産物と作文がそれぞれ届けられました。
1985(昭和60)年4月、鐙畑小が修学旅行で広島を訪れた時、担任の中尾広治先生からの依頼を受け、福田さんは初めて被爆の実相を語りました。
1987(昭和62)年8月、朝日新聞の声の欄に投稿された福田さんの「苦闘しています被爆エノキ」の文章は、やがて長崎源之助さんの目に留まり、絵本『ひろしまのエノキ』(童心社)の執筆動機になりました。
長崎さんが絵本のあとがきに「福田さんの投書がきっかけ」と記したことから、福田さんは修学旅行の案内役に指名される機会が増え、やがて平和教育に熱心に取り組む学校への被爆エノキ二世(平和の木)植樹に尽力されました。
平和の木を通じた人と人のつながりは、深い縁を結び、全国各地に14本の植樹へと結実しました。これは、自身の被爆体験から発する平和な未来を希求する強い思いと、取組の原点となった鐙畑小の中尾先生との深い友情・惜別の念が支えになったものと思われます。
2015(平成27)年8月、入院中の福田さんは平和記念式典をテレビで見届け、2日後の8日永眠しました。それは、基町由来のエノキ三世が、かつて長崎源之助さんが入院していた旧海軍病院(現・長崎医療センター)に植樹された日でした。
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