フィレンツェ2日目のお昼は駅名にもなっているサンタマリアノヴェッラ聖堂を見て、近くでお昼。昼からはウフィツィ美術館を見学。見学後は駅東に戻って捨て子養育院へ。
写真右のオベリスクは、1821年から1870年までの独立戦争の間に祖国のために亡くなった人を偲び「1848-1849年の戦争の退役軍人協会」により1880年に委託された。 全高約15メートルの塔は1882年5月29日、イタリア・ニテラーナ広場に完成した。7つの溶岩石に記念碑文とブロンズ(プラーク、王冠、フェストゥーム、ワシ)で構成される。化学的劣化による保全の不安定な状態で、イタリア統一150周年記念を見越し2008年にフォンダツィオーネ・パー・ニ・ベニ・カルチュラル・レスタルテによって復元された。
1219年、フラ・ジョヴァンニ・ダ・サレルノに導かれた12人のドメニコ会修道士がボローニャからフィレンツェに来て、1221年にサンタ・マリア・デッレ・ヴィーニェ教会(ぶどう畑の聖母マリア教会)を入手。当時この地は市壁の外に位置しこの地域は耕作地だった。写真は教会内の墓地(Il cimitero)
1242年に改築を決定、1246年に改修工事に経済的援助をした者に対し贖宥(罪を教会が免除すること)する許可を教皇から獲得。1279年10月18日、聖ルカの祝祭日にゴンディ家礼拝堂において礎石を敷く儀式が行われ、ラティーノ・マラブランカ・オルシーニ枢機卿(1235-1294)が聖別した。新しい教会は南側にファサードをもつ構造となり、建設は14世紀半ばに完了。教会建設の後に実施された鐘楼と修道院の建設は1420年になってようやく正式に教皇マルティヌス5世により聖別された。
白色と緑色(蛇紋石)の大理石に飾られた美しいファサードは1470年に完成。1565年から1571年に開催されたトレント公会議以降、教会はジョルジョ・ヴァザーリの指揮下で改装され、聖歌隊席の囲いが外され、側廊を飾る祭壇画が改められた。1575年から1577年までにジョヴァンニ・アントニオ・ドシオによりガッディ家礼拝堂が建設された。1858年から1860年にかけて更なる改装が建築家エンリコ・ロモリによりなされた。2000年の聖年に向け、1999年に改修工事がなされ、さらに2006年4月から2008年3月にかけてファサードの修復が行われた。
12年の歳月を掛けて修復されたジョットの「キリスト磔刑」(1290年頃制作)は、1421年まで設置されていたと考えられる中央身廊の最奥、地上45メートルの高さに2001年に設置された。。中は撮影禁止で他のHPから借用。ここには12時から15分程度で見学
イル・ブセットは2004年にミラノのマウロ・ゴッビによって設立。長年の皮革貿易や皮革製品の製造を行ってきたのち、木製の型で縫い目の無い小さな革製品の生産を可能にする技術を身につけた。HPはこちら
primo(前菜),secondo(メイン) contorno(副菜) 、servizio(サービス料)
12時45分から13時30分までゆっくり出来た。
パスタ
メインはシチュー、カツレツ
メインはこんなのもあった
メニューには書いてなかったが出てきた
マリノ・マリーニ(1901-1980)。イタリアの彫刻家、ピストヤで生まれ、フィレンツェで美術を学び、教師としてモンツァに移り、最後にミラノのブレラ美術アカデミーに。サン・パンクラツィオの古代教会を利用した博物館は、故郷の博物館の次に多くの作品を収容。
右の建物。1466年11月にフィレンチェに戻って来た銀行家でメディチのライバルであるフィリッポ・ストロッツィ長老のために、ベネデット・ダ・マイアーノによって1489年に建築が始まった。フィリッポ・ストロッツィは1491年、1538年に建設が完了するずっと前に亡くなった。しかもコジモ・イ・デ・メディチは同じ年にそれを没収し、30年後までストロッツィ家に戻さなかった。この通りもストロッツィ通り(Via degli Strozzi)で西にスパーダ通り、昼食したコンタディーノ食堂があるパラッツオーロ通りにつながる。左の建物の1階にはブルガリが入る。奥の通りをまたぐ建物はレップリカ前の建物でアップルストアが入る
左の写真から1ブロック東に進んで西側を見る。奥の三角の建物の左がスパーダ通り
左の写真からもう1ブロック東に進んだところから、下はDolce&Gabbana
1つ前の写真の筋向い。このHP作成現在移転しルイヴィトンが入っている。
このHP作成時(2022/10)もストリートビューを見るとこのメリーゴーランドはある。右奥の建物はミラノのドゥオーモの横にもあった百貨店のリナセンテ。
リナシャンテ
パステルで描いている。でもなぜオランダの画家なんだろう?
ウフィツィ美術館から。
2:①チマブーエ『サンタ・トリニータの聖母(荘厳の聖母)』(1290-1300)、②ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ『聖母子と六天使(ルチェライの聖母)』(1285)、元はサンタマリアノッベラにあった。③ジョット・ディ・ボンドーネ『荘厳の聖母』(1300-1305) ジョットの鐘楼のジョット
3: シモーネ・マルティーニ『受胎告知』(1333)、 アンブロージョ・ロレンツェッティ『キリストの神殿奉献』(1342)
7:ピエロ・デラ・フランチェスカ『ウルビーノ公夫妻の肖像』(1473-1475)
8:フィリッポ・リッピ『聖母子と二天使』(1460-1465) ボッティチェリの師匠。マリアは妻となった修道女、
10-14:サンドロ・ボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』(1485) 、『プリマヴェーラ』(1480)、『東方三博士の礼拝』(1480-1485)、『パラスとケンタウロス』(1480-1485) 『受胎告知』(1481)(1489-90)
15:レオナルド・ダ・ヴィンチ『受胎告知』(1472) 『東方三博士の礼拝』(1482) 、アンドレア・デル・ヴェロッキオ『キリストの洗礼』レオナルドの師匠。レオナルドが天使や背景を描いた
18:トリブーナ(Tribuna) 八角形の部屋でフィレンツェ政庁として利用されて時のメディチ家所有の美術品を展示する部屋
25:ミケランジェロ・ブオナローティ『聖家族』(1505-1506) 、ミケランジェロがパネルに描いた絵画3枚のうち1枚。この絵を描いた後、システィーナ礼拝堂天井画を描くため、ヴァチカンへ向う。
26:ラファエロ・サンティ『アーニョロ・ドーニの肖像 / マッダレーナ・ドーニの肖像』(1504-1507) 、ヒワの聖母』(1506)
28:ティツィアーノ『ウルビーノのヴィーナス』(1538) 『フローラ』(1517)
43-45:レンブラント・ファン・レイン『老人の肖像(老人ラビ)』(1665) 、カラヴァッジオ『バッカス』(1598) 『イサクの犠牲』(1603) 『メデューサ』(1597)
13:50-15:55で見学、事前にネットで買った証明書を忘れ二度払い。ここも撮影禁止。鑑賞後Museo Naz.d.Bargello(バルジェロ美術館。フィレンツェの象徴であるドナッテロの「ダビデ像」がある)にダッシュしたが閉館1時間前で窓口は閉まっていた。写真はカフェのテラスから
(ウフィツィ美術館の2階にあるカフェ
ビスケット4枚1.5ユーロ、パニーナ(サンドイッチ)4ユーロ。HP作成時にはコーヒー4ユーロ。
カフェのおこぼれを授かりに
1890年創業の教会向の仕立屋。フィグリーン・ヴァルダルノが設立し、1915年にフィレンツェに移転。1990年に孫のジャンニ・セルティ(販売)と彼の妹シンツィア(生産)が父アルドから引継ぎ、トスカーナの全地域に供給。バルジェッロ美術館の北180mのところにある
バルジェロ美術館からドゥオーモにつながるプロコンソロ通り。セルティの前から
セルティ北隣の文房具店
セルティの前から手前の写真はプロコンソロ通りの南側でこちらが北側
ドゥオーモ北側の聖パウロ教会の本屋
聖パウロ教会の本屋の西3軒隣にある
Family Tree 家系図
このHP作成時(2022/1)は15ユーロ
il Papiroの西隣。ワインバー。
右端がワインバーのシャンティ
イルパピロとシャンティの間の建物にあった
フェルディナンド・イ・デ・メディチの馬術像はフィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ広場に位置しています
捨て子養育院。絹織物組合が1914年にブレネスキに依頼して建てられた。1445年2月5日、当時の聖人に敬意を表しアガタ・スメラルダの名前が新生児の入口に名付けられた。入口で匿名で残された子供はこの病院の看護師に委ねられた。そして基礎教育を受け、その後、貿易を学ぶため店に送られた。1552年から1580年まで、ヴィンチェンツォ・ボルヒニは、彼らに音楽と絵画の研究だけでなく、そろばんの教えも提供した。読み書きをほとんど学ばなかった少女たちは、代わりに縫って織るように教えられた。17世紀には、女の子が家の中で働くことが出来るよう織機を設置した。
海の怪物の噴水。1626年にリヴォルノ港の装飾としてピエトロ・タッカに委託された。1627年から弟子のバルトロメオ・サルビーニとフランチェスコ・マリア・バンディニがフォローし製作が開始されたが1641年にピエトロが死去し当地に移転。
Andrea della Robbiaアンドレア・デッラ・ロッビアが設計した赤ちゃんのレリーフを持つガラス張りの青いテラコッタ・ラウンドルがあり、建物の機能を示唆し
ボッティチェリの初期の作品
Domenico Ghirlandaio
包帯で巻かれているのは背骨が曲がらない様にするため
この下に窓がある。ポストと知らずに撮影したので写っていない。