昭和21年4月,私は戦後初の小学校入学者として,暫定教科書(折りたたみ方式 別項参照)を使った試行錯誤的な義務教育を経験することとなった.
熊本市西部(島崎,横手地区)に位置する城西小学校の1年は2クラスで男子組,女子組に分かれていた.講堂は無く二つの教室の間のアコーデオン式の折りたたみ壁を開けて入学式が行われた.南側廊下の窓際の柱に米軍機の機銃掃射によってえぐられたギズがあったのを鮮明に覚えている.終戦から7か月しか経っていないこともあり,学用品,制服,学生帽,ランドセル等が手に入る社会状況ではなかったので,身なりなど気にすることもなかった.それでも学生帽ぐらいはどうにかならないかと両親が探していたら,警察官をしていた叔父が古い警官帽子を持ってきてくれた.帽子屋に頼んで学生帽に直してもらったことを後になって聞かされた.
1年生の男子組担任は,女の先生(タゾエ)で,しばしば相撲を取らされた記憶が残っている.体育館など存在しない時代,机椅子(一体型)を教室の後ろに寄せて,空いたスペースを使って頻繁に相撲を取らされた.米軍占領下,突然軍国主義教育を否定され,さらに体育用具不足の中,先生方も相撲ぐらいしか思いつかなかったのだろう.クラスメート間のスキンシップ,小学校近くにある「石神神社の祭」に行われる子供相撲大会では大いに役に立った.
2年生になると男女共学になり,女性の代用教員(多久)が担任になった.子供心に「本物の先生ではない」の意識があり,学習に身が入らず,機械いじりに熱中しはじめた.2年生の夏休み前の通信簿を見た父にいきなりビンタをはられた.1年生の時は優等褒状をもらっていたので,期待を裏切ってしまった.その時のことを,満州から引き揚げ我家に間借りしていた叔母(叔父は警察官で,15年後安保反対のデモではちあわせした)が見ていて,私が成人した後もずっと話題にしていた..
3年生からは卒業するまで二人の男性教師(堤,西村)が担任になった.5,6年生担任の西村先生は病気療養により途中休職されたため,別クラスと一緒に学習するなど変則的な授業を経験した.この間の学校記憶は,勉強に関することではなく,脱脂粉乳,マカロニ給食の開始,のみシラミ防除のためのDDT散布,外国人少女の朝礼乱入などの出来事である.
城西校は市内でも最も少ない生徒数だったため,脱脂粉乳給食の実験校に指定され,1日1~3回脱脂粉乳を飲まされ,1月ごとに体重測定が実施され追跡調査された.脱脂粉乳はドラム缶に詰められて,米軍トラックでやって来た.校門から玄関までのアプローチ(奉安殿,二宮金次郎像は撤去されていた?)に整列し,手作りの日米国旗を振って歓迎させられた.皆,栄養失調気味であったが,給餌法確立のためのモルモット代わりにされ多い時には1日3回飲まされたため,脱脂粉乳が嫌いになった友人もいた.私も体重が増加していないということで,医師(国立病院?)にいろいろ訊かれた記憶がある.
戦後の不衛生のため,家庭内にノミ,シラミが発生する事態となり,学校でDDTの人体散布が実施された.DDTの散布は校庭に列ばされ,大きな注射器のような散布器を使って,麦の粉のような粉末を頭皮にふりかけ,さらに首筋,両袖,緩めた腰ベルトの隙間から注入散布された.男子はほとんどが坊主頭であるため,少ししか散布されなかったが,女子は悲惨だった.胡麻塩頭になり,急にオバーチャン化してしまった.先生たちは散布されなかったのは不思議だった.その後,家庭用のDDTやBHC殺虫剤,さらには農薬として広く使用され,日本中が有機塩素系殺虫剤に汚染?されることとなった.DDTの功罪が理解できたのは大学で有機化学を学んでからである.現在,DDTは環境汚染物質になっているが,マラリア防止効果を考えると功罪相半ばしているといえる.DDTと構造類似のo,p'-DDDは副腎皮質癌の治療薬である.
頭
首筋 前後
両袖
ズボン ベルト裏 前後
ミトタン(mitotane)
副腎皮質癌の治療薬
グレーな記憶が多い中で強烈に印象に残っている出来事は「馬に乗った米少女の朝礼乱入」である.何年生の時かは定かでないが,全校生徒が朝礼のため,校舎の敷地より一段低い運動場で整列し校長の話を聞いている最中,突然ポニー?に乗った外国人少女が校舎横に現れ,駆け下るや我々の周りを回り始めた.物資欠乏で履物,着る物等まともではない,みすぼらしい身なりの敗戦国児童の集団とこれまでに見たことのない美麗な格好をした外国人少女のコントラストを想像してみてほしい.
朝礼と米国少女のイメージ図
後で分かったことであるが,城西小学校から数百メートル離れた石神通りに古荘家(旧財閥,一部現存)の洋風の邸宅があり,財閥解体後進駐軍に接収されていたが,そこに住む米軍幹部の娘であったらしい.
外観は昔と変わらない,門前の通りの行きあたりは石神神社(Google ストリートビュー)
進駐軍幹部の生活
父は山崎町で開局薬剤師をしていたが,空襲を避けるために先祖代々住んでいた島崎の隠宅へ疎開した.終戦後,米軍が進駐してくる際,何をされるか分からないというので,その時のために青酸カリが入手できないかと親戚が訪ねてきたことがあった.その時,父は西洋人は噂のような野蛮人ではないと説明していたのを覚えている.父は九州学院中学(大正11年卒,12回生)で米国人の宣教師と接していたため,確信があったようだ.進駐後は,町で米兵を見掛けることはあっても,その家族の生活ぶりを知ることは容易ではなく,ブロンディの漫画で間接的に知る程度であった.石神通りにある高い塀に囲まれた邸宅の中は大きな門の隙間から垣間見ることができたが,そこには別世界が展開していた.そこから飛び出してきた乗馬姿の少女の風貌を近くで見たときは皆びっくり仰天した.我々のみすぼらしさとの対比は,子供心に敗戦の意味を実感させるには十分過ぎるものだった.成人して外国映画を観る機会が増え,「風と共に去りぬ」の中で,少女の乗馬シーンを観た時,「米少女朝礼訪問」の記憶がよみがえってきたのを覚えている.もし,神様が「誰かに会わせてやる」ということになれば,その時の少女に会って,その時の気持ちを聞いてみたいものである.
5,6年生担任の西村先生は病気療養により途中休職されたが,世界名作全集(巌窟王(モンテ・クリスト伯),三銃士,小公女等々)を読み聴かせてくれた.学校に図書室は在っても本がないため,生徒の家から借りた本を利用していた.聴きながら脳裏に描いた光景は,後に映画やテレビの映像から得たシーンより豊かなものであった.文学の楽しみを教えてくれた点では感謝している.
西村先生の長男は電波高校への進学を目指していると聞かされ,先生は私の興味を理解してくれていると思っていた.しかし,給食のことで酷く叱られたことから,先生との距離が遠くなってしまった.当時,おかずのみの給食(副食)が実施された時期があった.家からおかずのない弁当(主食)を持参すべきところ,持っていくのを忘れてしまったことがあった.給食のおかずだけを食べている私を見つけた担任は皆の弁当から一箸づつ供出させて自分のアルミ弁当の蓋に集めてくれた.食事開始前のまだ弁当に手を付けていない時ならともかく,半分くらい食べていた頃だったので,私の潔癖性はそれを食べることを許さなかった.私が 食べていないことを知った担任は烈火のごとく怒り,机にしがみ付く私を机もろとも教卓近くまで引きずり出し,何発か叩いた.担任は着任挨拶の時,「戦中は生徒を殴ることが仕事だった,これからは殴らない」と生徒に約束していたので許せなかった.弁当は,先生の目を盗んで中庭に飼われていたアヒルに与えて先生をだました.小学校の間,姉の影響でルーテル教会の日曜学校に通っていたので,この間の出来事は子供心に罪悪感を感じることとなった.給食時の出来事は担任から母親に伝わっていたことを後になって知った.担任は私の趣味や適性に気づいていたが,「薬屋の跡継ぎ」としての親の意向を重視して私の適正に合った対応はしてくれなかった.この傾向は面談などを通して高校まで続くこととなった.
何の娯楽もない時代,年に一度程学校行事として,映画鑑賞,サーカス見物,相撲見物につれて行ってくれた.城西小学校から新市街や通町の映画館まで全校生徒が徒歩(3~3.5㎞)で各種見物に出かけた.映画で覚えているのは,「鐘の鳴る丘」だけである.忘れられないのは極寒の相撲見物,例年熊本の地方巡業は年末の寒い時期であった.当時,熊本にあって全国の力士・行司を支配下に置き,横綱の免許を与えた ていた吉田司家(昭和六十年代に破産後,相撲協会とは断絶)が幅を利かせていて,毎年吉田司家の土俵で奉納相撲が行われていたので子供の間でも話題になっていた.相撲取りを一度は見てみたいと思っていたので,小学生招待に参加したが,寒風吹きすさぶ二の丸公園広場で防寒服なしで長時間じっと見物する相撲は私にとっては拷問みたいなものであった.なぜ何回も仕切り直しをするのか不思議でならなかった.相撲の禁じ手を面白おかしく紹介する見世物 である「初っ切り」も寒さと空腹で楽しむ余裕はなかった.熊本城から家まで3km弱を息を切らして駆け帰り,掘炬燵に潜り込んで母の用意していてくれた蒸し芋を貪り食った.それ以来,相撲を見物したことはない.
宇土櫓しか存在しない時代
小萩山(7.5㎞,2時間),高橋稲荷(4km,1時間),花岡山(2km,30分 )遠足が定番だった.新入生は6年生とペアになり面倒をみてくれたが,普段は近寄りがたい存在であったガキ大将が頼もしく思えた.逆の立場の自分はまったく覚えていない.高学年では片道15キロメートル,3時間半の河内町へのみかん狩りに出かけたことがある.途中,漱石の草枕で有名な鎌研坂,峠の茶屋,宮本武蔵が五輪書を書いた洞窟、霊巌洞 ,肥後耶馬渓(現 岩戸の里公園)等があり,阿蘇山と同じ形成史を有する金峰山カルデラ内を歩くたいへん魅力的なコースだった.当時,金峰山は「死火山」だから噴火することはないと聞かされていたが,歴史時代の活動の記録がない火山を死火山とする分類法が無意味であることを知ったのはかなり後になってからである.このハイキングコースは以後,歴史,文学,地理に興味を持たせてくれる原動力のひとつになった.お土産に買ったみかんの重かったことが記憶に残っている.現在,河内は熊本市西区に編入された.
島崎5丁目には,叢桂園,釣耕園などの名所旧跡があるが,隣接して古荘公園(元古荘健次郎氏の別荘,少年の家),三賢堂公園が存在する.両公園内の住居は市長官舎として使用されていた.当時,熊本市には海は無く,水泳の練習ができないため,古庄公園内の泉水等で泳いでいた.そのような状況を知った市が三賢堂前の土地に25mプールを造ってくれた.我家から見下ろす位置(標高差16m,直線距離100m)のバス通りにプールができたのは望外の喜びだった.ただ,プールの水は湧水を利用していたため,非常に冷たかったのを憶えている.プール開きには,肥後古典泳法の小堀流踏水術(熊本県の重要無形文化財)が披露された.立ち泳ぎをしながら,墨筆で文字を書いたり,武具を着けて泳ぐ姿にびっくりした.その泳者のひとりが,数年後に姉の嫁ぎ先の姉になる人とは思いもしなかった.このプールのお陰で泳げるようになり,泳げない者は特訓が待っている済々黌高校や熊本大学で苦労することはなかった.経済の高度成長に伴い,各小学校にプールが設置されるようになり,三賢堂前のプールは御役御免になり養魚場に変わったと聞いていたが,詳細ははっきりしない.注)肥後国誌によると,この付近は肥後三代藩主綱利 (1643-1714) の八橋御茶屋の跡との記載がある.
湧き水を使ったプール
立游での書道
小学校の思い出はグレーなものが多いが,小学校の勉強より,早く家に帰って,時計,蓄音機,写真引き伸ばし機等の機械いじり,鉱石ラジオや四球ラジオの分解,組立の方が楽しかった.父が購読していた「科学朝日」に連載(昭和24年 (1949)」されていた「ラジオ工作AからZまで」が,私の「科学する心」を育ててくれた.毎日毎日,急いで帰宅し,庭木の間に10m位のアンテナを張って放送を受信するのが楽しみだった.そのような私を理解してくれる教員に巡り合うことは小中学校を通していなかった.ラジオの配線図について先生に質問しても分かる先生はいなかった.子供にできることをなぜ先生が理解できないのか不思議でならなかった.自分の適性を薬学領域で活かす可能性を垣間見たのは.熊大薬学部3年次の製薬第二研究室が担当する電気化学実習であった.その後,九大大学院に進学し研究者になって電子計算機に巡り合ってから自分探しが一段落したと言っても過言ではない.
鉱石ラジオの配線図
10m 位のアンテナで,コイル,バリコン,ゲルマニウムダイオード,クリスタルイヤホンのみで,AM放送を聴くことができる.電力を必要としない究極のエコラジオである.
並四式ラジオの配線図
アンテナの長さ,向きで受信感度が変わる
城西小学校正門の近くに,六代前に分かれた分家(千原原野)の広い屋敷があり,雨が降り出した時は.傘を借りることができた.現在は屋敷の多くは西廻りバイパスになり,小学校正門寄りに新しく建て替えられ,昔の屋敷の面影はない.その屋敷の横から坂道を下ると田圃沿いに段山橋へ向かう近道があった.市電の段山停留所を降りた先生達は,三角形の二辺である石神通り経由を避けて,近道を通り学校へやってきた.その様子を観察して,先生間の関係(男女)が生徒間で話題になった.高学年になるとそういうことに興味を持ち始めるものである.
3年生の時,可愛い頭のよい女子が父親の転勤で遠くへ転校することになった.そのことを先生が皆に説明した際,涙を流しながら「虎の子を奪われる」と表現したのが妙に印象に残っている.先生に受けのよい生徒とそうでない生徒が存在することを強く意識させられた.昨今,我が国からの技術流出が話題になる中,虎の子の炭素繊維の技術が某国に奪われようとしている等の文字をみると,その時の先生の表情を思い出す.小学生は白紙の状態であるから,先生たちの一挙手一投足の与える影響の大きさは甚大である.
我々の世代が大学進学の際,教育学部の合格レベルは最低であった.高校の教諭が「こんな成績なら教育学部しか通らないぞ」と言ったものだった.戦後教育の試行錯誤状態が現在も尾を引いているといっても過言ではない.「ゆとり」,「英語」,「プログラミング」等の発想は教育現場から生起したものではないという.原点にもどり,小学校の教育改革を本気でやるべきである.
小学校の友人たち
今回,小学校時代のことを書いていたら,70年前の友人の名前を次々に思い出した.今井(石神通り入口),三角(日向崎),島田(島田美術館,故人),木下(古庄邸裏),藤井(石神通り,レイメイ藤井),中島(三軒家手前),栗原(城西校手前),田辺(栗山),石村(栗山),米原(霊樹庵手前),武内(城氏屋敷内霊樹庵),藤島(荒谷,全日空パイロット,故人),山田(荒谷),渡辺(荒尾),飯田(横手),永田(横手),野崎(横手)君である.女性は三上君だけしか思い出せない.その他,名前を思い出せない友人1名(石神神社傍).完全に忘却の彼方にあったはずである.脳科学的に興味ある不思議な現象である.
城西小学校昭和25年度卒業記念写真(昭和27年3月撮影)
注)丸顔の少年は化学描画ソフトChemDawを用い,マウスで描いた.乗馬少女のイラストは映画の一コマを線画に変換し手を加えたものである.朝礼のシーンはホームページに掲載されている写真を参考にした.脱脂粉乳は一般社団法人 Jミルクの画像.プールは学校イラスト無料素材を使用.そのほか岡本一平の「新らしい漫画の描き方」(昭和5)を参考にした.相撲の図は「学生紳士相撲の取方と見方」(大正6)を参考にした.
関連ブログ
私の戦争記憶(自分史)
空襲の写真(米軍撮影, 島崎, 1945年) 2020年掲載
済々黌(私が通った創立75周年頃)(身近な歴史)
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135年前の同志(西南の役の戦友)(曾祖父関連, シリーズ島崎)
往生院と放牛地蔵 (父方祖母関連,県立図書館 縣政資料,近代DL)
曾祖父の半生を追う(曾祖父関連, 県立図書館 縣政資料, シリーズ島崎)
栗山のお観音さん (シリーズ島崎)
資料
初級ラジオ工作(昭和24年) 国会図書館デジタルコレクション
科学朝日連載「ラジオ工作AからZまで」は著作権の関係上,目次のみが公開されている.
西山中学校 (工事中)
中学校は城西小学校の校区に古くから栄えた新町に在る一新小学校の校区を加えた西山中学校に進学した.新町の商業地区としての特殊性を生かすことに重点が置かれていて最初から抵抗を感じた.具体的には,普通高校より実業高校に進学するものが多いため,職業教育を重視する指定校になっていた.そのため,早朝から算盤の練習をする必要があった.私は算盤は使えればよいと思っていたので,超スピードの読み上げ算に付いていけず,職業家庭の成績はクラスで最低であった.