水原秋桜子 "先輩" と獨協中学・高等学校
2024年7月25日
2024年7月25日
みなさま、こんにちは。
獨協中学・高等学校 吹奏楽部 です。
本日は本校・獨協中楽高等学校の先輩で俳句界の著名人である水原秋桜子 "先輩" についてのコラムを掲載いたします。実は本校正面玄関前には今でも水原秋桜子さんの句碑がありますが、みなさんお気づきでしたでしょうか?
獨協中学高等学校の校舎(2024年7月/獨協吹奏楽部撮影)
水原秋桜子さんは吹奏楽部のOB、というわけではなかったと思われます。大学時代は野球部で三塁を守られていたそうなので野球部だったのかもしれません(部活に所属されてたかご存知の先輩、いらしたら教えてほしいです...!)。
ですが、先週の7月17日が「秋桜子忌」だったということで今回は取り上げさせていただくことにいたしました。
水原秋桜子さん(『俳句あるふぁ』2008年4月号より)
明治期には東大進学率でトップ争いをするほどの名門校だった我が獨協は、数多くの著名人を輩出しているが、その中でも文学者としてひときわ有名なのが水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)だ。
明治25年(1892)10月9日、神田猿楽町(現在の水道橋駅付近)の開業医の息子として生まれた秋桜子(本名は豊)は、東京師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)から明治34(1904)年に獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)へ進学、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)を経て1914年に東京帝国大学医学部へ入学・卒業した。学位は医学博士。昭和56年(1981)7月17日没。享年88。
第二次世界大戦前までの我が国では、教養人・知識人には「俳句」をたしなむ人が多く、水原秋桜子もそのうちの1人。当時の俳句界を牛耳っていた高浜虚子(雑誌『ホトトギス』の発行者)の弟子TOP4のうちの1人で、とても有名な俳人だった。
近代的な明るさと都会人風の洗練された感覚、豊かな抒情を詠うその句風は、それまでの伝統的な俳句の境地を大きく抜け出したものであった。しかし、その主情的な傾向が『ホトトギス』の写実的傾向と一致せず、高浜虚子らと対立し、『ホトトギス』を去る。のち『馬酔木(あしび)』を主宰し、新興俳句の先駆者となる。昭和5年(1930)に代表歌集『葛飾』を発表したことから、秋桜子の作風は「葛飾調」とも呼ばれる。
秋桜子が亡くなった7月17日は「秋桜子忌」と呼ばれ、夏の季語として今なお多くの俳人たちに詠まれている。またの名を「喜雨亭忌」「群青忌」ともいう。
※『ホトトギス』… 総合文芸誌として明治30年(1897)創刊。正岡子規、高浜虚子らが主宰。のちに俳句が中心となり、現在も発行が続いている日本最古の俳句雑誌。夏目漱石が小説『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』を発表したことでも知られる。
本校正面玄関前にある句碑、右手に見えているのは初代校長・西周先生の胸像(2024年7月/獨協吹奏楽部撮影)
<<<正面玄関前の句碑について>>>
木々ぬらし石うがちつひに春の海
(うがち=穿ち 「が」は万葉仮名の可で書かれている)
木々を濡らしていた雨が、やがて奔流となって石を砕き、その流れ着く先には春の海が広がっている。
「木」という目の前の視点から、その視点を上昇・俯瞰させて川の流れを見、その流れ着く先の大きな海を想う。
まるでドローン撮影された「zoom out」の動画のような雄大な春の大景(大きな景色)が詠まれた句。
この同じ句の碑が、葛飾・柴又の帝釈天の境内と、練馬区高野台の長命寺の境内にもある。