尊厳学の確立
B05 先端医療技術政策班
(科研課題番号:23H04857)
ゲノム編集や iPS 細胞等の先端医療技術や尊厳死等の問題を尊厳の毀損の観点から分析
先端医療技術の進展は目覚しい。しかし同時にそこに深刻な倫理問題が潜むことも明らかになっている。iPS細胞研究も当初はES細胞研究の倫理問題を克服できると期待されていたが、現在ではそれ以上の問題を抱えていると指摘されている。本研究では、こうした先端医療技術の倫理問題を中心に医療そのもののあり方や医療の社会的影響を「尊厳」の毀損の観点から分析する。その上でこれらの研究成果を踏まえてゲノム編集(ゲノム治療)・尊厳死(安楽死)・感染症による医療逼迫時のトリアージ等の諸問題に取り組んで、海外の諸研究も踏まえながら、それらの課題に関して一定の解決の方向性を示す。そして少なくとも『PLAN 75』で示されたような社会不安を解消できるための学術的な橋頭堡を「尊厳」概念に基づいて築く。こうした社会不安には先端医療技術も無関係ではなく、むしろ大きな要因の一つであると言えよう。本研究班はこうした社会不安を解消して社会統合の新たな理念となり得る概念として「尊厳」概念を鍛え上げ、これらの問題に関して具体的な提言を行う。
田坂さつき:尊厳死(安楽死)/トリアージ/ALS患者ケア問題/ジェンダー学
美馬達哉:臨床神経学/ニューロエシックス/医療社会学
石井哲也:ゲノム編集
香川知晶:生命倫理学全般/ES細胞研究/iPS細胞研究/「死ぬ権利」論/尊厳死
笹月桃子:小児緩和ケア/治療中止
阿久津英憲:ゲノム編集
松原洋子:優生学研究
まずは国際的な重大事件が発覚したゲノム編集から見ておきたい。治療法が未開発の難病患者が遺伝的疾患のない子を生むための技術として、生殖細胞系列へのゲノム編集の基礎研究およびゲノム治療の基礎研究が推進されている。生殖細胞系列のゲノム編集については、世界的に臨床応用は禁止されているが、2018年に香港で開催された「第二回ヒトゲノム編集国際サミット」でゲノム編集ベビー出産の研究報告がなされて、国際的に大きな波紋を呼んだ。ゲノム編集が小規模クリニックでも導入できる技術であることを考えると、生殖補助医療の中で、カップルの要望を受けて同様のことが実施される可能性も十分にあるからである。その一方で、生殖系列細胞のゲノム編集基礎研究によって最近明らかになっているのは、ゲノム編集が難病治療に貢献する可能性であり、したがってゲノム編集やゲノム治療の単純な規制は難く、しかも必ずしも合理的ではない(Schöne-Seifert「ヒトの生殖細胞系列に対するゲノム編集研究」2019)。
現在日本では、先端医療技術(iPS細胞研究・ゲノム編集等)の社会的受容(拒否)の問題が先鋭化している。特に日本の場合、「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」第3条は「何人も、ヒトクローン胚、ヒト動物交雑胚、ヒト性融合胚又はヒト性集合胚を人又は動物の体内に移植してはならない」と規制しているが、しかし「ゲノム編集胚」は規制の対象外である。海外では生命倫理法等で包括的な基本的考え方を規定しているが、しかし日本ではヒト胚ゲノム編集の臨床応用を禁止したり規制したりする法律が欠けている。個人的利害を超えて社会的利害のことを重視するとやはり法的な規制は不可欠であり、それによって多様性を維持すると同時に、個人を平等に尊重することが求められる(魏偉/李亜明「中国におけるゲノム編集の倫理学的議論について」2022)。そうした中でむしろ最近は、生殖細胞系列に手を加えるのではなく、体細胞系列に手を加えるゲノム治療の基礎研究を推進しようとする動きもある。その結果として、「治療」と「増強」の区別等を適切に法的に規制して社会的にコントロールすることなく推進してしまうと、「ゲノム編集で生み出された子供の同意不可能性」等といった多くの重大な社会的問題を引き起こす(ハーバーマス『人間の将来とバイオエシックス』2012)と同時に、とりわけゲノム編集のような先端医療技術の責任の所在をどう考えるのかという重大な問題も引き起こすことが危惧される(石井哲也「生殖細胞系列ゲノム編集により生み出された人々に対する責任の所在」2022)。同様な問題は、iPS細胞研究に関しても妥当する。この研究も当初はES細胞研究の倫理問題を克服できると期待されていたが、それ以上の問題を抱えていると指摘される一方で、治療法のない難病関係で臨床応用は進められている。この先端医療技術も国家プロジェクトになっているので見えにくいが、一度立ち止まってその倫理問題を考える必要があろう(香川知晶『命は誰のものか』2021)。
こうした先端医療技術の裏面には、高齢者や難病患者等の尊厳死・安楽死の問題があり、これらを総合的に論じてゆく学術的必要性が指摘されている(Schöne-Seifert 2019)。
本研究は先端医療技術の社会的受容の原則として、「尊厳」に着目して、先端医療技術の導入が「尊厳」の毀損を引き起こさないこと、また、たとえ実験的医療が実施される場合でも、患者へのインフォームド・コンセントが適切になされるなど、患者の「尊厳」を適切に尊重することを重視してその具体的条件を先端医療に携わる自然科学者たちと探究する。こう考える理由は、例えば、ゲノム編集という先端医療技術のもたらす根本的問題は、特定の遺伝特性を持つ胚あるいはヒトにその遺伝子を破棄あるいは治療することが内包する優生学的な問題をどのように捉え直し、この問題をいかに解決してゲノム編集やゲノム治療を社会的に受容してゆくべきなのかという「問い」に見出されるからである。
確かに近年強調される「リベラル優生学」は旧来の優生学とは異なり、国家による強制ではなく、個人の自由な選択に定位するので、旧来の優生学のような仕方で弱者を排除するわけではない。しかし、こうした優生学的問題を適切に克服しておかないと、先端医療技術を暴走させてしまう危険性がつねにつきまとい、それが社会的不安を引き起こすのではないだろうか。実際、日本では、障害者を支援する法律はあるが、海外と同様に患者の権利を守る法律がなく、その制定は以前から要望されていた。こうした整備していくべきものの中には、現在治療法のない難病で療養生活をしている患者が治療を強いられない権利、つまり、先端医療技術を用いた治療を受けない権利も含まれる。したがって、先端医療技術によって患者の「尊厳」が毀損されないために、先端医療技術を使った遺伝子操作または遺伝子治療における倫理問題を析出することが本研究の課題である。その核心をなす問いは「先端医療技術により患者の「尊厳」が毀損されることがないような倫理基盤の構築はいかにして可能か」ということになる。
2023年度:研究遂行体制を構築する。9月に東大で実施される「尊厳概念史の諸問題」、12月に法政大で実施される「各国憲法の中の尊厳規定」に出席する。班内で個別的にオンラインも含め研究会等を実施して役割分担の確認等も行う。
2024年度:7月に「安楽死と尊厳死の諸問題」について、B05班主催のワークショップを立命館大学で実施する。12月には、「iPS細胞研究/ゲノム編集と治療の諸問題」について、本研究班主催のワークショップを立正大学で行う。さらに2025年3月に「人権と人間の尊厳」について、B01とB02との共同主催でシンポジウムを立命館大学で行う。
2025年度:本研究班として個別的に研究会を継続して相互の研究成果を共有するとともに、他班の企画にも積極的に参加する。特に3月に開催予定のB班合同の「生命倫理(法)と尊厳概念」と総括班主催の「臨床現場から問う尊厳概念(3)」のシンポジウムに班内からもパネラーを出して他班の研究と連携する。海外からもゲノム編集等の研究者を招聘し、海外での国際会議や国際ワークショップにも参加する。
2026年度:総括班主催の「臨床現場から問う尊厳概念(4)」に班内からパネラーを出すとともに、本研究班独自の研究成果の取りまとめを開始する。
2027年度:研究成果の取りまとめに主眼を置き、研究成果の発信を積極的に行う。また、8月に総括班主催の「臨床現場の尊厳問題(5)」や9月にボン大学で開催予定の「尊厳研究の現在」等のシンポジウムに班内からパネラーを出して本研究班の研究成果を明示すると同時に、他班の研究成果も共有する。
「PLAN75 シネマカフェ―映画を見て語り合いましょう。未来社会について、安楽死についてー」
1. 主催
B05班
2. 日時
2023年9月30日(土)
3. 場所
立正大学品川キャンパス
4. 形態
対面
5. プログラム
13:00-13:10 開催挨拶
13:15-16:10 映画上映
16:30-18:00 シネマカフェ
6. 参加者数
74名
7. 概要と振り返り
早川千枝氏が監督し、倍賞千恵子氏が主演した映画『Plan75』は、第95回アカデミー賞・外国語映画部門に輝いたように、現代の日本を映す鏡である。ここで登場するのは架空の法律である。それは75歳以上が自らの生死を選択できる<プラン75>という。少子高齢化が一層進んだ近い将来の日本では、満75歳から生死の選択権を与える制度<プラン75>が国会で可決・施行された。様々な物議を醸していたが、超高齢化問題の解決策として、世間はすっかり受け入れムードとなる。当事者である高齢者はこの制度をどう受けとめるのか? 若い世代は? これは<プラン75>という架空の制度を媒介に、人は何を選択し、どう生きていくのかを問いかける作品である。本企画は、この作品を観て、映画『PLAN75』について自由に語り合うシネマカフェを通して、参加者がみんなで、日本の超高齢化社会における死のあり方について一緒に考えるものである。
映画上映前に、鳥取大学医学部准教授安藤泰至が安楽死の倫理問題について15分ほど話をした。またシネマカフェのセクションでは、1グループ10名、カフェにはNPO法人「こども哲学おとな哲学アーダコーダ」から専門的な訓練を受けたファシリテータに業務委託し、立正RAと院生・学部生が対話の記録係となった。
参加者全員に、イベント前、レクチャー後、シネマカフェ後、イベント後、社会が死の選択肢を用意することについて意見を聞くアンケートを実施した。学生には、同様の趣旨の記述式リアクションペーパーを課した。
アンケートとリアクションペーパーは、立正大学文学部社会学科の教授・専任講師に解析を委嘱し、その報告書を立正大学文学部HPおよび、尊厳学HPで公開し、共著本に論文を執筆する予定である。なおこれに加えて、2024年1月18日に、シネマカフェをせずに、映画だけ観てリアクションペーパーを書く授業を実施する。これと対応させ、2023年9月30日の学生のリアクションペーパーと比較して分析することも計画している。
さらに『PLAN75』のシネマカフェは告知期間が短かったために、第二回の開催要望がある。報告書を分析した上で、次年度以降の開催も合わせて検討したい。
「ドミニク・ウィルキンソン教授とのラウンドテーブル」
1. 主催
B05班
2. 日時
2023年10月12日
3. 場所
立命館大学衣笠キャンパス創思館3階、303・304号室
4. 形態
ハイブリッド
5. プログラム
第1部:“日本の終末期医療”
16:20 – 田中美穂(日本医師会総合政策研究機構主任研究員・立命館大学大学院博士後期課程学生)“The feeling of being a burden to others at the end of life: focusing on policy and social/cultural characteristics in Japan”「終末期における他者への負担感:日本の政策と社会・文化的特徴に着目して」
16:40 – ディスカッション
第2部:“苦しむ子どもの倫理”
17:10 – ウィルキンソン教授によるショートプレゼンテーション
17:30 – ディスカッション コメント
笹月桃子(西南女学院大学保健福祉学部)
高橋花子(同志社女子大学看護学部看護学科・立命館大学大学院博士後期課程学生)
18:30 – 閉会の辞 田坂さつき(立正大学文学部)
6. 参加者数
約40名
7. 概要と振り返り
医療において当人の意思が尊重されるべきか、家族や両親の意思が尊重されるべきか。ラウンンドテーブルでは、第一部で終末期医療について、第二部では小児科の医療について議論がなされた。
第一部では、田中美穂氏が「終末期における他者への負担感」と題して発表し、これに対して、オクスフォード大学より来日したドミニク・ウィルキンソン教授がコメントをすることで、比較文化的な視点がもたらされた。日本医師会研究所のシニアリサーチャーを務める田中氏は、日本の医療制度について概観し、高齢化比率が29.1%と世界最高にあたること、健康保険と長期介護保険制度の位置を示した後、終末ケアや看取りに関して法的な規定がないことを指摘した(終末期ケアのガイドラインは2007年に厚生労働省が発表したが、法的な強制力がなく、知られていないことも多いという)。その上で医師が安楽死を幇助した例として、川崎協同病院と、射水市の事件を田中氏は紹介した。
問題となるのは、他人に負担をかけているという感覚である。これは患者が自宅で亡くなるケースが2割以下という、日本の現状の背景として示された。田中氏は論点として、⑴迷惑をかけたくないという感情の背景、⑵本人が意思決定するのではなくて、家族全体で意思決定することの是非、⑶政策上の取り組みを挙げた。その上で田中氏は、終末期のケアや治療は、国が全体で画一化した枠組みを当てはめるのではなく、今後は各人の意思を確認し、個別化していくことが重要であると結論づけた。
ウィルキンソン教授からは、⑴告知がなされていないという問題、緩和ケアが家でできないという事情などが論点として補足できるとした上で、⑵迷惑をかけるという感覚が国際的に共通していること、⑶終末期に入った際に本人がどのようにしたいかが示されていないという問題が指摘された。この上で教授は、ACP(Advanced Care Planning)の問題は、例えば心肺蘇生を望むか否かではなく、「家で過ごしたい、看護師によるケアを受けたい、家族に負担をかけたくない、機械に繋がれて死にたくない」といった具体的なことを表現しておく必要性があると述べた。また司会の美馬教授の質問に応答する中で、ウィルキンソン教授は、アジアでは家族が意思決定することが多く、欧米では個人が意思決定することを指摘した。
第二部では、小児科医でもあるウィルキンソン教授が、新生児が脳死している場合の医療の諸問題を説明し、イギリスのケースを示した。教授の理解によれば、赤ん坊の「最善の利益」とは、技術的に生命を維持させることではなく、その子の人生の量、権利の範囲、生活の質、快適さにこそある。そうしたことを考慮する中で、赤ん坊の治療を行わず、死に任せることも判断するケースがあると教授は示した。
小児神経科医で、緩和ケア・臨床倫理・生命倫理の領域で実践と研究・教育に従事する笹月桃子教授は、ウィルキンソン教授の論点を認めつつも、「最善の利益基準とは別に、無危害原則という境界線」があるのではないかと指摘した。ウィルキンソン教授からは、当人に残された時間を考えた上で、治療と緩和医療のどちらを選択するべきかを決めることができるのではないか、と提言がなされた。また質問に答える中で、同教授からは、同じ問題は高齢者に対しても適応できるのではないか、という示唆がなされた。
看護師の経験を有する高橋花子氏からは、重度の心不全のために短命が予想された13トリソミーの乳幼児の臨床経験を念頭に、重度の認知障害を持ち、短い予後が予想される乳幼児の主観的な意思を知ることは、明確な声明がないため困難であり、当人ではなく、親の意思が重要になることが指摘された。その上で、「幸福感」をめぐって、⑴赤ん坊当人の快適さ、親の願い、当人の痛みは誰も知らないなどの要因が複雑に絡み合っていること、⑵医療の進歩などによって赤ん坊を取り巻く状況が変化し、寿命の見積もりが変化することが問いかけられた。ウィルキンソン教授からは、ケースを切り分けて考える必要性、できることとできないこととを峻別して判断していくこと、また並行して複数のプランを立てて柔軟に対応することの重要性が説かれた。
質疑応答では、司会の美馬達哉教授が主導する形で、「臨床倫理委員会」が医療従事者と家族とを調停していくことの可能性が取り上げられた。
1. 主催
B05班
2. 日時
2025年2月17日
3. 場所
立正大学品川キャンパス 13号館 第13会議室
4. 形態
ハイブリッド
5. プログラム
16:00~18:00 ゲノム医療推進法に基づく基本計画
講師:武藤香織(東京大学 医科学研究所 教授)
特定質問者:石井哲也(北海道大学 安全衛生本部 教授)・吉良 貴之(愛知大学 法学部 准教授)
6. 概要
良質なゲノム医療の提供を促進し、生命倫理や差別の問題に適切に対応するために 2023 年 6 月 16 日にゲノム医療推進法が公布・施行されました。今回は、東京大学医科学研究所の武藤香織教授をお招きして、日本におけるゲノム医療の推進についてお話をうかがい、その倫理問題などを議論します。