Digital Earth Art®(デジタルアースアート)の哲学的基盤
―― 感覚倫理が視覚構造として現前するデジタル環境芸術 ――
創始者:槙 武志
成立年:2023年
種別:デジタル環境芸術哲学
商標登録:登録第6827076号「Digital Earth Art®」
要旨
本論文は、Digital Earth Art®を、Sensethics(センセシックス)を根源とするデジタル環境芸術として最終的に定式化することを目的とする。
Digital Earth Art®は、環境問題を説明しない。
環境を理解させない。
環境に対する正しい態度を要求しない。
本芸術が扱うのは、環境が「考える対象」である以前に、「感覚として切り離せなくなってしまう存在」であるという事実である。
Digital Earth Art®は、倫理を主張せず、感覚を構造化する。
1. 序論 ― 環境が遠すぎるという問題
現代において環境は、数値と理論によって語られる。
温度、濃度、統計、予測。
それらはすべて、環境を外部対象として成立させる。
理解は距離を生む。
説明は無関係性を保証する。
Digital Earth Art®は、この距離そのものを無効化する。
環境を「見る立場」を成立させないこと。
それが本芸術の出発点である。
2. Sensethicsという根源
Digital Earth Art®の根源はSensethicsである。
倫理は判断ではなく、感覚において先行的に発生する。
守るべきかどうかを考える前に、壊せなくなってしまう。
Digital Earth Art®は、この倫理が発生してしまう条件を、視覚構造として生成する。
倫理を教えない。
倫理を伝えない。
倫理が起きてしまう場を成立させる。
3. デジタル環境の再定義
Digital Earth Art®におけるデジタルとは、技術領域を指さない。
デジタル環境とは、感覚と世界が即座に接続されてしまう環境である。
遅延のない視覚。
距離を挿入できない現前性。
この環境においてのみ、感覚倫理は不可避的に立ち上がる。
デジタルは手段ではない。
必然である。
4. 肖像の非表象性
Digital Earth Art®における肖像は、個人を表さない。
自己を語らない。
人格を象徴しない。
肖像は、見る主体を成立不能にするための構造である。
「誰かを見る」という立場が崩壊したとき、視覚は意味を失い、感覚へと転位する。
5. 地球の非環境性
Digital Earth Art®における地球は、環境を表さない。
自然でも、資源でも、対象でもない。
地球は「守るべきもの」ではない。
地球を見る立場そのものが成立しない。
見ているはずの地球が、見ている側へと反転する。
この反転によって、環境は外部であることをやめる。
6. 視覚構造の交差
肖像と地球は意味的に結合されない。
象徴的関係も持たない。
二つの視覚要素が交差することで、鑑賞者は二つの立場を同時に喪失する。
地球を見る主体としての立場。
自分を見る主体としての立場。
この二重喪失によって、視覚は情報装置ではなく、感覚の場として立ち上がる。
7. 問いとしての環境
Digital Earth Art®は、環境問題に答えない。
答えを提示した瞬間、環境は再び外部化される。
本芸術が行うのは、問いを消去することではない。
問いを引き受けられなくなる地点へ鑑賞者を移行させることである。
なぜなら、切り離せなくなった感覚には、問いが成立しない。
8. 評価・理解・正しさの不在
Digital Earth Art®において、鑑賞は理解行為ではない。
共感も不要である。
正しい読み取りは存在しない。
感覚が発生したかどうか。
それ以外の基準は設定されない。
評価は遅すぎる。
9. 芸術としての不可逆性
一度感覚が発生すると、元の距離には戻れない。
納得しなくてもよい。
同意しなくてもよい。
否定してもよい。
しかし、なかったことにはできない。
この不可逆性こそが、Digital Earth Art®が芸術である理由である。
10. 定義
Digital Earth Art®とは、Sensethicsを根源とし、肖像と地球の視覚的交差によって、環境を理解対象から感覚として切り離せなくなってしまう存在へ転位させるデジタル環境芸術である。
11. 結論
Digital Earth Art®は環境を救わない。
人類を啓発しない。
未来を提示しない。
ただ一つ、環境を外部として扱えなくする。
そこに倫理があるかどうかを問わない。
なぜなら、感覚がすでに倫理だからである。
Digital Earth Art®は主張ではない。
感覚倫理が視覚構造として現前してしまった結果である。