原作:井上 靖
【登場人物】
山本勘助(やまもと かんすけ):大林勘助。幼名は源助。30代前半。隻眼で片脚を引き摺る浪人者。
ミツ:葛笠村の百姓の娘。伝助の妹。20歳前後。偶然出会った勘助と心通わせていく。
伝助(でんすけ):ミツの兄。20代後半。葛笠村の百姓。
平蔵(へいぞう):葛笠村の百姓。20代後半。ミツに惚れている。
太吉(たきち):葛笠村の百姓。20代後半。
-武田-
武田晴信(たけだ はるのぶ):後の武田信玄。10代半ば。
武田信虎(たけだ のぶとら):甲斐の国主。晴信の父。40代前半。
大井夫人(おおいふじん):信虎の正室。晴信の母。30代後半。
板垣信方(いたがき のぶかた):武田家家臣。40代前半。晴信の傅役。
甘利虎泰(あまり とらやす):武田家家臣。40代前半。
原虎胤(はら とらたね):武田家家臣。30代後半。「原美濃」「鬼美濃」とも呼ばれる。
諸角虎定(もろずみ とらさだ):武田家家臣。40代後半。次郎(後の武田信繁)の傅役。
小山田信有(おやまだ のぶあり):武田家家臣。甲斐・郡内領主。信有の父は、武田と戦い敗れている。
前島昌勝(まえじま まさかつ):武田家家臣。
駒井政武(こまい まさたけ):武田家の近習。晴信の側近。20代前半。
-その他-
山本貞久(やまもと さだひさ):勘助の実兄。今川方、花倉城主・福島越前守の家来。30代後半。
【配役】♂6:♀2 約40分
勘助/小山田(♂):
ミツ/大井/侍女A(♀):
伝助/信虎(♂):
平蔵/甘利/貞久(♂):
太吉/諸角/駒井/前島(♂):
晴信/原(♂):
板垣/武士A(♂):
ナレ/侍女B(♀):
------【 本 編 】------
■甲斐・葛笠村■
ナレ 「天文5年。故郷を捨て、駿河を追われ、再び浪々の身となった勘助は、甲斐に戻ってきた。
ミツの家で食事をする勘助。飢饉による寂しい食卓と、ミツの大きなお腹が気になっていた」
勘助 「……相変わらず、食うものに困っておるのか」
ミツ 「去年の秋も、ほとんど実りは無かっただ。こんなもんしか無(ねぇ)くて、申し訳ねぇだ」
勘助 「……その腹、飢えて出ている訳ではなかろう」
ミツ 「え? あはは、違うずら。ボコが居(お)るずらよ」 ※ボコ=子供
勘助 「誰の子じゃ?」
ミツ 「……勘助が戻ってきて、嬉しいでごいす」
勘助 「わしは、三河で仕官することは叶わなんだ」
ミツ 「ほうけ」 ※ほうけ=そうですか
勘助 「お前の所に帰ってきたわけではない」
ナレ 「そう言うなり、まだ口を付けていない椀を置き、出て行こうとする勘助」
ミツ 「勘助! これを、取りにきたずら?」
ナレ 「ミツは、首から下げていた摩利支天を勘助に渡した」
勘助 「……伝助は、いずこじゃ?」
ナレ 「表戸を開けた勘助。しかしその先に、伝助・平蔵・太吉が居た。勘助は、伝助たちに家の中へ押し戻される」
伝助 「勘助。なんで甲斐へ戻ってきたぁだ」
ミツ 「兄(あに)やん!」
伝助 「なんで戻っただ!!」
勘助 「……府中に、用があってな」
伝助 「……なんだと?」
勘助 「武田家に、仕官したい。伝助、ぬしらの主(あるじ)、原美濃とか申したか。
その者に会えるよう、手はずしてくれぬか。あとはわしが上手くやる。ぬしらに迷惑はかけん」
ミツ 「それは良いずら、御館様の家来になればいいによ」
伝助 「馬鹿言うでにゃあ!! これは無理ずら」
勘助 「何ゆえじゃ!!」
伝助 「物頭(ものがしら)の赤部様を殺したのは、おみゃあではねぇだか!
……武田の御家中も、それを知っとるずら」
勘助 「左様か」
伝助 「勘助。なんで今川に仕官しなかっただ」
勘助 「……駿河でも、殺されかけたでな」
伝助 「……勘助。……おみゃあ、何者だ?」
勘助 「実は。……わしにも分からん」
太吉 「旦那様に見つかりゃあ、必ず殺されるだぁぞ」
平蔵 「殺されりゃあ、いいだ」
ミツ 「馬鹿言うでねえ!(平蔵を叩く)」
平蔵 「いてっ。匿(かくま)ってりゃ、おらっちが殺されるだ!!」
太吉 「おみゃあさんは、すっかり今川のモンと思われとるだに。
ここに居(お)られたら、おらっちが困る事になるだ」
平蔵 「もう困ってるが。ミツやんまで殺されてしまうだぞ!!」
太吉 「おみゃあのせいではねぇか」
ミツ 「おら!! 勘助とおるだ!!」
平蔵 「……ミツやん」
伝助 「……逃げればいいだ。勘助、ミツを連れて逃げろ」
平蔵 「伝にぃ!!」
伝助 「しょうがねぇだに!!
……ミツと、ボコと三人で。駿河がダメなら、信濃にでも逃げりゃあいいだ」
ミツ 「それが良いずら!」
勘助 「逃げはせん。……逃げるとは、守るもののある者のする事じゃ。
放浪にも、少し疲れたでなぁ」
伝助 「守るものは、あるでねぇか」
勘助 「ミツの子は、誰の子であるか分かるまい」
ナレ 「そう言って勘助は横になった。激高した平蔵が、勘助に殴りかかった」
平蔵 「おみゃあ!!」
太吉 「平蔵!!」
ナレ 「もみ合う勘助と平蔵。勘助の足が、飯の入った椀を蹴飛ばした」
ミツ 「やめろし!! 何をするだ!! ……勿体にゃあ。なにをするだ、勿体にゃあ……」
ナレ 「泣きながら、ミツは床に散らばった米を食べた」
■甲斐・府中 躑躅ヶ崎■
ナレ 「場所は、甲斐府中、躑躅ヶ崎。武田信虎と家臣一同が集まり、評定(ひょうじょう)していた」
信虎 「近々、信濃へ攻め入る」
板垣 「畏れながら申し上げまする。
信濃の諏訪領主・諏訪頼光(よりみつ)殿とは昨年、和議を交わしたばかりにございまする」
信虎 「なればこそじゃ。その為の和睦じゃ。
信濃へは、諏訪口(すわぐち)を捨て、佐久口(さくぐち)より攻め入る」
諸角 「八ヶ岳(やつがたけ)を越えられまするか」
甘利 「信濃攻めの間(かん)に、今川・北条がこの甲斐へ攻め込みますれば、如何なされまするや。
諏訪勢と手を組むも良し。なれど、この2国の強敵に抗うには到底足りませぬ」
信虎 「なればこそじゃ甘利」
小山田「なればこそ。信濃を手中にするは我が甲斐にとっては火急(かきゅう)の用」
信虎 「うむ」
小山田「今川・北条の絆は固く。
このまま座して手をこまねいておれば、いずれその2国に攻め滅ぼされましょう。
信濃は肥沃(ひよく)な土地にございまする。
その地を領し、国を富ますほかに、相模・駿河に抗う術(すべ)は無きものと存じまする」
信虎 「うむ!」
間
ナレ 「評定は終わったが、家臣たちは集まり、まだ話し合いをしていた」
板垣 「……信濃攻めには、多大な軍兵(ぐんびょう)、兵糧、金銀もかかろう。
今より年貢も兵も集めるとなれば、国人・領民の不満は、如何なものかと」
諸角 「信濃への出兵は、一年や二年では済まされまい」
甘利 「それよりも、今川と北条じゃ。ことに今川は、先の戦の汚名を注ぎにかかろうぞ」
小山田「御館様は、そのあたりの思慮に欠けておられるのじゃ」
甘利 「小山田殿。なれば先(せん)のは、虚言か?」
小山田「虚言にはござらぬ。御館様の御存念にも、理はあると申したまで」
諸角 「小山田殿。お主の御忠義には、感服いたしておりますぞ」
小山田「某の主君は御館様にて、その意を酌(く)んだまで。忠義というより、道理にござる」
甘利 「(皮肉っぽく)郡内領主とは思えぬ心得にござるの」
小山田「甘利殿。今の世に、内輪争いほど愚かしい事は無いと存じまするが。
確かに某が父は、武田家に歯向かい、御館様に負け申した。
今となっては、某の願いは只ひとつ。御館様に強き国をお作り頂く事」
甘利 「申すまでもなき事じゃ!!
武田家と同じ、甲斐源氏の流れを汲(く)む我らにとって、目指すところはひとつじゃ!!」
諸角 「小山田殿、よくぞ申された。小山田家は、良き跡取りに恵まれたものじゃ」
小山田「ところで、板垣殿。武田家の若様は如何なされておられまするや。
御館様は、元服なされた若様を、未だ評定(ひょうじょう)の座にも召されず。
それも、無理からの事であるとの噂、家中に聞かれまするが」
ナレ 「その頃の晴信は、怠惰な日々を過ごすようになっていた」
間
ナレ 「日も高くなってきた。板垣は晴信の側近である駒井に声をかけた」
板垣 「駒井、若殿は、まだ休んでおいでか」
駒井 「は」
板垣 「……すでに、午の刻近いというに」
駒井 「昨夜も、遅くまで侍女らと歌を詠(えい)じておられましたゆえ」
板垣М「……これでは、家臣らに侮られる一方じゃ。何ゆえ、斯様な遊興を」
■甲斐・葛笠村■
ナレ 「場所は再び、甲斐・葛笠村に移る。勘助はミツの家で、未だに寝泊まりをしていた。
外では、平蔵や太吉らが畑を耕していた。勘助は家の中から、それを眺めていた」
勘助 「……皆、何を作っておる」
ミツ 「大根ずらよ。秋には獲り入れ出来れば良いけんど」
ナレ 「そう言ってミツは土間に腰かけた。藁を編んで、草鞋を作っている」
勘助 「この草鞋は、誰に習ったのじゃ?」
ミツ 「平蔵のおばあやんだ」
勘助 「平蔵の?」
ミツ 「府中に持ってって売りゃあ、ちっとは稼げるだに」
勘助 「伝助は、平蔵の家で寝泊まりしておるのか」
ミツ 「そうずら。……大丈夫ずらよ、勘助。
兄(あに)やんも平蔵やんも、おみゃあにひでぇ事は、しねぇだに」
勘助 「……ミツ。……いざとなったら、わしを突き出せ。僅かながらも、褒美を貰えるやもしれんぞ」
ミツ 「勘助……」
勘助 「この命、お前にくれてやっても良い。なれど……その腹の命は、わしには受け取れんのじゃ。
その子が誰の子であっても、わしの子であるよりは、マシであろう」
ミツ 「勘助! 勘助のボコじゃ! ほら、動いたずら。勘助のボコじゃ!!
ここで仕官したら良いずら。お侍(さむりゃあ)になったら良いだよ。
ここの御館様の事じゃ、戦をすぐ始めるだに。そこで手柄を挙げればいいずら!
そしたら、御館様だって許してくれるだに!」
勘助 「ここで百姓でもして待てと申すか!!」
ミツ 「おらが生かすだ!! 何としてでも、勘助を生かすじゃ!」
勘助 「……」
■甲斐・府中 躑躅ヶ崎■
ナレ 「甲斐・府中 躑躅ヶ崎。晴信は、今宵も侍女らをはべらせ、歌を詠(えい)じていた」
晴信 「『朝まだき 野秋の風の 吹くからに 庭も間垣も なびく草むら』」
侍女A「まぁ、なんと涼やかな」
侍女B「野秋の風が、夜も明けきらぬ庭に吹き抜け、心が放たれるようにございまする」
晴信 「うん、なかなか良い歌であろう。夜明かしをしたこの身に、朝の風が染みるようじゃ。
のぉ、駒井」
駒井 「は。さぞや、染みましょう」
晴信 「……。あ、皆は如何じゃ。出来たものは? ん?」
ナレ 「その時、戸の向こうに気配を感じた晴信。戸に近づき、両の手で戸を開いたその先に居たのは……」
晴信 「……板垣。……何用じゃ」
板垣 「若殿。いつまで斯様な事をお続けになられまするや」
晴信 「歌道も武士の嗜みじゃあ。其方(そち)には分かるまいがの。ははは」
板垣 「近々、初陣の御触れがあるやも知れません。遊びも、ほどほどになさりませ」
晴信 「……板垣。其方(そち)に頼みがある。近こぉ」
板垣 「は」
晴信 「いつぞや、富士川べりで出逢(お)うた女子(おなご)がおろう。摩利支天を首にかけておった女子だ」
板垣 「はぁ」
晴信 「その者を召し抱えたい。取り計ろうてくれ」
板垣 「百姓の娘を、侍女に召されますか」
晴信 「飢えに苦しむ領民が一人減るではないか。よかろう?」
板垣 「御館様が、何と仰せられましょう」
晴信 「まぁ、書物に現(うつつ)を抜かすよりかは、笑(わろ)うて下さろう」
板垣 「……」
■甲斐・葛笠村■
ナレ 「数日後。場所は葛笠村。勘助は慣れない手つきで畑を耕していた。日も暮れかけた夕方の事。
勘助の元に、太吉がやってきた」
太吉 「勘助」
勘助 「おぉ太吉。如何した?」
太吉 「平蔵の事だけんどよぉ。許してやってくれよ」
勘助 「平蔵?」
太吉 「あれは昔からミツを好いとるだになぁ。平蔵の家は皆、疫病で死んだだよ。
村じゃあ、祟られてるって言われてよう。生き残った平蔵を助けたのが、伝助とミツじゃあ。
平蔵は、ミツの為なら、何をするか分からねえだよ。けんど、殺さにゃあでやってくれよ」
勘助 「平蔵を殺しても、武田に仕官は出来ぬ」
太吉 「お、おみゃあ、そんなに武田のお家(いえ)が気に入っただか。命があれば良いがよ、はははっ」
伝助 「おーい!」
太吉 「お?伝助じゃ」
伝助 「勘助、隠れろ! 旦那様だ、鬼美濃の旦那様じゃ!」
太吉 「なにぃ!」
ナレ 「伝助と太吉は、勘助を家の中へと隠し入れる。程なくして、武田家臣の原虎胤がやってきた」
伝助 「旦那様!」
原 「伝助か、丁度良い。其方(そち)に話があって参った」
伝助 「は!」
ナレ 「原は、伝助にミツを連れてくるよう伝えた。慌てて伝助は家へ戻る」
伝助 「おい、ミツ! 旦那様がお呼びじゃ!」
ミツ 「え? おらに? なんで」
伝助 「分からにゃあけんど……」
原 「(被せ気味に)伝助!!」
伝助 「へ、へぇ!! ただいま!! とにかくミツ、来るだ!」
ナレ 「ミツも、そして太吉も、慌てて外へ飛び出した。勘助は、外の様子を隠れて窺っていた。
伝助たちは、原の前にひれ伏した」
伝助 「ミツでごいす!」
原 「ん?なんじゃ、その腹は」
伝助 「あ、ボコでごいす!」
原 「ボコ? ボコが居(お)るのか?」
ミツ 「へい!」
原 「なんじゃあ、ははは。……で、亭主は太吉、お前か?」
太吉 「……へ? あああ、いえいえいえいえ」
原 「そうか。亭主はどこじゃ」
ミツ 「……」
原 「ボコは誰の子かと聞いておる。果報者の顔を拝みたい」
伝助 「は、はぁ。……それが」
平蔵 「わしでごいす!!」
原 「ん?」
平蔵 「わしが、ミツの亭主でごいす!!」
原 「うぬか。……わしはまた、いつぞやの隻眼の浪人かと思うたぞ」
勘助 「!!」
原 「馬鹿めが。せっかくの好機を潰しおって。……ははははは、そうか、ボコが居ったか。ははははは」
ナレ 「原は笑いながら馬に跨(またが)り、その場を去って行った」
■甲斐・府中 躑躅ヶ崎■
ナレ 「場所は躑躅ヶ崎に戻る。板垣と、晴信の母・大井夫人が向き合って座っていた」
大井 「左様でしたか。晴信が百姓の娘を」
板垣 「は。……某には、晴信様の御真意が、計りかねまする」
大井 「真意など、無いやもしれませぬ。在るやもしれませぬ」
板垣 「……はぁ?」
大井 「晴信は、御館様から廃嫡されるのを、恐れているのやもしれませぬ。
御館様と晴信は、言葉を交わさずとも、通じ合うところがあるのでしょう。
それを、良き方には受け取れず、恐れを生むのやもしれませぬ」
板垣 「……恐れ?」
大井 「御館様は、晴信の聡明さを恐れ、晴信は、御館様の憎しみを恐れる」
板垣 「晴信様の御遊興を、御館様は憎まぬ、とでも?」
大井 「……」
板垣 「憎まれる事を避ける為に、うつけの真似を……」
大井 「……私には、分かりかねまする」
板垣 「……某にも。傅(もり)役として、恥ずかしき事にござりまする」
大井 「父と子。その不思議な絆は、一生かかっても、悟れぬものかもしれませぬなぁ」
板垣 「……」
間
ナレ 「その日以来、板垣信方は、急な病を理由に姿を消した」
■甲斐・葛笠村■
ナレ 「それから半月あまりが過ぎようとしていた。場所は葛笠村」
ミツ 「……勘助。こんなもん、作ってみたんだけんど」
ナレ 「ミツが差し出したのは、藁で作った眼帯だった」
ミツ 「好かねえだか?」
勘助 「あ、いや」
ナレ 「勘助は受け取った眼帯をしてみせた」
ミツ 「ふふ。似合うずらよ」
ナレ 「二人は目を合わせ、そっと笑いあった」
■甲斐・府中 躑躅ヶ崎■
ナレ 「その頃、甲斐府中では、ある人物が信虎を訪ねてきていた」
前島 「駿河の国、今川家家臣・福島越前守(くしまえちぜんのかみ)殿の使者にて、山本貞久にござりまする」
貞久 「此度は、お目通りかない、恐悦至極に存じまする」
信虎 「回りくどい話は抜きじゃ。福島(くしま)殿は、謀反を画策しておるのか?」
貞久 「……」
信虎 「其方(そなた)を遣わすとは、左様な事であろう。……駿河の主君を討つかぁ」
前島 「畏れながら、それは、御館様のお考え次第と存じまする」
信虎 「わしに、福島(くしま)に合力せよと申すか?」
前島 「御館様の後ろ盾を得ますれば、福島(くしま)殿、もはや恐れるもの無きかと存じまする」
信虎 「……福島(くしま)殿に伝えよ。この武田信虎、いつでもお味方致すとな」
貞久 「は、ははーー!」
信虎 「大儀であった」
貞久 「は!!」
小山田「……ふふ」
■甲斐・葛笠村■
ナレ 「勘助は、畑に種を撒いていた。ふと顔をあげた時、側道を歩く武士が目に入った」
勘助 「…‥!! あ、兄者!?」
ナレ 「勘助は、急ぎ兄・貞久の後をつけた。その時」
ミツ 「勘助? 勘助!」
ナレ 「ミツが声をかけた。慌ててミツの口を塞ぎ、身を隠す勘助」
ミツ 「んーんー。(塞がれていた手をどけて)ぶはー! 何するだ。誰ずら?」
勘助 「(小声)わしの兄者じゃ」
ミツ 「勘助の?」
勘助 「駿河が動き始めた。駿河で何かが起こる。駿河に、謀反の風が吹き始めたのじゃあ!」
■甲斐・郡内 慈輪寺■
ナレ 「場所は変わって、甲斐・郡内領の慈輪寺(じりんじ)。
武田家家臣・小山田信有と、今川家軍師・太原雪斎(たいげんせっさい)が居た」
小山田「雪斎殿。お見立ての通りになりましたな」
■甲斐・府中 躑躅ヶ崎■
ナレ 「さらに場所は躑躅ヶ崎へ戻る。夜。今宵も遊興に耽る晴信の元へ、板垣が訪ねていた」
晴信 「板垣。病は治ったのか?」
板垣 「若殿、今宵は某にも一首、仰せつけられたいと存じます」
晴信 「ふふ、あっはははははは。其方(そなた)が歌を?」
板垣 「はっ」
晴信 「ふふ、良かろう。
兼題は『夕べの花』じゃ。詠んでみよ。あぁ、狂歌の類でも笑わぬぞ」
板垣 「は。 ……出来まして、ございます」
晴信 「うん。詠んでみよ」
板垣 「では。『飽かなくも なお木(こ)の元の 夕映えに 月影宿せ 花もいろそふ』」
晴信 「……夕映えと重なるように、飽くことなく月の光が差し込めば、花もひと際美しく咲き誇ろう。
……そなた、歌を誰に習うた」
板垣 「はぁ。寺に参り、僧より習い受けましてござります」
晴信 「この二十日余りに? なぜ斯様な事を」
板垣 「畏れながら、それには、御人払いを」
晴信 「……皆は下がっておれ」
ナレ 「晴信は、侍女たちを部屋から遠ざけた」
板垣 「いや、若殿のお励みの事を、傅(もり)役の某が出来ぬとあっては、如何なものかと存じましてな。
いやいやぁ、苦労しもうした」
晴信 「ふふふ。其方(そなた)が? ははは。さぞ、日夜励んだ事であろうなぁ」
板垣 「お尋ね申しまするが、これより上手くなる為には、あと幾年ほど習えばよろしゅうござりましょうや」
晴信 「ははは、案ずるな。これよりは、次第に上手くなろう。苦労あるまい」
板垣 「はは。……なれば、若殿がこの国を治められるまでには、あと幾年ほどかかりましょうや。
若。歌ごときにござりませぬぞ。夜更かし、朝寝坊は今宵限りおやめいただかねばなりません!
武田の御嫡子が、斯様なうつけとあっては、いずれ、この国は滅びましょうぞ!!」
晴信 「……」
板垣 「もし、某のお諫(いさ)め申し上げる事に、ご立腹であるならば……
いつでも、この板垣を御成敗なさりませ!」
晴信 「板垣……。もうよい、わかった。……もう何も申すな」
板垣 「(涙ながらに)この板垣の、この板垣の前では。うつけの真似事など、無用でござる」
晴信 「もうよい。……すまぬ。……すまなかった、板垣」
板垣 「若殿……」
晴信 「(被せ気味に)もうよい。……下がれ。下がれ!!」
ナレ 「板垣は、一礼して去って行った」
晴信М「……飽かなくも なお木(こ)の元の 夕映えに 月影宿せ 花もいろそふ……」
■甲斐・葛笠村■
ナレ 「その頃、勘助はというと」
ミツ 「(あくび)……勘助? 眠れねえだか?」
勘助 「んん?」
ミツ 「……何を作っとるだ?」
勘助 「城じゃ」
ミツ 「城?」
ナレ 「勘助は、集めた土で、城を模造していた。ミツは起き上がり、勘助の隣に座る」
勘助 「山城(やまじろ)じゃ。ここが本廓。二の廓。三の廓。高地。この三日月のが、掘じゃ。
城獲りで、一番肝要なのが、馬出(うまだし)。わしの馬出は、ほれ、丸い。丸馬出じゃ。
これこそ、城の、眼じゃ。ははは」
ミツ 「……。……勘助、ここに居ていいだか?
おらと居て、ここに居て、満足きゃ? ほんとは出て行きたいずら? ……そうずら」
勘助 「……。……ミツ。
……わしは、幼き頃から、誰にも求められず、誰をも導けずに生きてきたのじゃ。
……十五年、諸国を経巡(へめぐ)った。……人を、斬った。
戦を見、先陣を駆けた。首を獲り、その度に食いぶちを稼いできた。数多の戦に出た!
……なれど、真(まこと)の戦をしてはおらぬ。
戦とは、己が国を護るため。一族を護るためにするものなれば、わしは、戦をしてはおらん。
わしの戦は全て、妄念にすぎんのじゃ。
……そなたは、わしの、城じゃ」
ミツ 「……勘助」
勘助 「やっと見つけたのだ。わしの戦を。
……人は、己が求められる場所で生きるのが、もっとも幸せな事なのじゃ」
ミツ 「……信じていいんか? ほんとに信じていいんか?」
勘助 「信じよ」
ミツ 「……勘助!」
ナレ 「涙を零しながら、ミツは勘助に抱きついた。そっと抱きしめる勘助。
そして勘助は、己の首から摩利支天を外し、ミツの首に再びかけてやるのだった」
■甲斐・葛笠村 付近の森■
ナレ 「数日後。武田信虎と家臣たちは、森で鹿狩りをしていた」
甘利 「……よし!!」
諸角 「お見事!!」
甘利 「やっと仕留めたわぃ。……御館様は、どうじゃ?」
諸角 「鹿が少ない。だいぶ苛立っておられる」
武士A「甘利様ああああ!! 今の鹿は、大物にござりまする!!」
甘利 「ぬわぁあ、大声を出すな! 隠せ!隠せ隠せ!!」
諸角 「しかし、何ゆえ御館様は、いきなり鹿狩りなどを」
甘利 「分からぬ。只の御遊興であろう。……そういえば」
諸角 「ん? どうされた」
甘利 「いや、侍女たちが申しておったんだが。最近の御館様は、夜に悪夢を見られるようじゃ。
何でも……若様に矢を射られる夢だそうな」
諸角 「若様に?」
甘利 「その夢を見る度に、大声で起き上がるそうで、寝屋を共にした侍女もびっくりしたそうじゃ」
諸角 「斯様な夢を……」
間
ナレ 「甘利たちの場所から少し離れた所に、信虎と原が居た」
信虎 「鹿が少ないのお。居らぬな」
原 「……あ、御館様。あそこに居りまする」
ナレ 「信虎は狙いを定め、弓を引き絞る。しかし、矢を射かける前に鹿は逃げてしまった。
そこに、晴信と板垣も合流した。
すると、森の奥から声が聞こえた」
平蔵 「おーい!!」
ナレ 「平蔵の声に、身を起こしたのはミツだった」
平蔵 「ミツやん、蕨がいっぱいあったずら!!」
ナレ 「ミツに気付いた晴信。ミツの首から下がっている摩利支天が目に入った」
晴信 「あの者は……」
ナレ 「信虎もその人影に気づいた。苛立っている信虎は、再度弓を引き絞る」
原 「!! 御館様!!」
ナレ 「そして、矢は放たれた」
■甲斐・葛笠村■
ナレ 「勘助は、手製の弓矢で狩った鳥を土産に、葛笠村へ帰ってきた。
しかし、ミツの家の前には、人だかりが出来ていた」
太吉 「……勘助」
勘助 「ほれ!土産じゃ。 ……何事じゃ?」
太吉 「……ミツが。……死んだ」
勘助 「!!」
ナレ 「勘助は動揺した。慌てて家の中へ駆け入る勘助。
そこには、伝助と平蔵。……そして、藁むしろがかけられた、ミツが居た。
震える手でむしろを捲り、ミツの顔を拝んだ勘助。
激しい怒りをむき出し、声を荒げた」
勘助 「……なぜ。……なぜじゃ! ……誰の仕業じゃあ!!」
平蔵 「……御館様じゃ」
勘助 「!!」
平蔵 「ミツやんは、山へ蕨(わらび)獲りに行ったんじゃ、おらも付いて行っただ!
そしたら、鹿狩りが始まって……」
勘助 「……矢では、なかろう」
平蔵 「そうじゃ、助かったんじゃ!! 矢では死なんかったんじゃ! これに当たって助かったんじゃ!!」
ナレ 「平蔵は、懐から摩利支天を取り出し、勘助へ渡した」
平蔵 「御館様は……。ミツやんの腹を……!!
……うわぁああああああああ!!!!」
ナレ 「平蔵は泣きながら、外へ飛び出した。そして伝助も、怒りにまかせ、傍の刀を手に取り、飛び出そうとした。
それを勘助が阻んだ」
勘助 「血迷うな!! ……おぬしに、何が出来る」
伝助 「うるしゃあ!! そこをどけええ!!」
ナレ 「勘助に刀を振るうも、躱され、腕を捻り上げられる伝助」
勘助 「斯様なへぼい腕で、何が出来るというんじゃ!! 一揆でも起こすつもりか!!」
伝助 「(泣いている)ううぅ……」
ナレ 「力が抜け、その場に崩れる伝助を、勘助が支える」
勘助 「伝助。……わしと一緒に、駿河へ行かんか? 駿河に行って、武田を討つのじゃ!!
その機を探るのじゃ!」
伝助 「……百姓のおらに、何ができるっちゅうだ。ううぅ……」
太吉 「伝助ぇー!! 鬼美濃の旦那様じゃ。こっちに来るだぞ!」
平蔵 「殺されるだ……。ミツやんを見た者も殺されるだぁ!!」
ナレ 「程なくして、原と板垣が葛笠村へやって来た。勘助は、家の中より様子を窺っている」
原 「よいか!! 此度の事、他言まかりならんぞ!」
伝助 「漏らせば、おらっちを殺すんでごいすか」
原 「伝助……」
ナレ 「馬から降りる原と板垣。伝助に、そっと歩み寄ったのは、板垣だった」
板垣 「……伝助と、申すか。其方(そち)の妹であったな」
ナレ 「板垣は脇差に手をかけた」
平蔵 「伝にぃ、逃げろぉぉ!!」
原 「何をするか!!」
ナレ 「平蔵が板垣に向かって行ったが、原に突き飛ばされた。倒れた平蔵を鞭で叩く原」
板垣 「よせ!!」
原 「これなる者が、ミツの亭主にございまする」
平蔵 「(泣いている)うわぁああああああ……」 ※しばらく泣いている
原 「腹の子の父親で」
板垣 「……伝助。其方(そなた)このわしに、仕えぬか? 扶持(ふち)取りにならんか。ん? どうじゃ?」
伝助 「お、おらが、板垣様の家来(けりゃあ)に?」
板垣 「うむ! ……他にも、望む者があらば、申し出よ。……伝助。これを其方(そなた)に授ける」
ナレ 「板垣は、自身の脇差を、伝助に差し出した」
伝助 「……それで、おらっちを、お取り込みなさるおつもりでごいすか?」
原 「たわけた事を申すな!!」
板垣 「其方(そち)を見込んでの事じゃ。受けぬか? わしの家来にならんか?」
平蔵 「……嘘じゃ。皆、そうやって騙すんずら!!」
原 「何を申すか!!」
ナレ 「原は、また平蔵を鞭で叩く。すると、ミツの家の戸がガタっと音を鳴らし、刀を携えた勘助が出てきた」
伝助 「か、勘助!!」
勘助 「うぉおおおおおお!!」
ナレ 「勘助は鋭い眼光を板垣に向け、思い切り刀を振るった。それを受け止める板垣」
勘助 「うぉおおおお!! でやぁああああ!!」
原 「何やつ!!」
板垣 「手出し無用!! ふん!!」
ナレ 「鍔迫り合いから、一度お互い距離を取った」
板垣 「……」
勘助 「……」
板垣 「はぁ!!」
勘助 「でやぁ!!」
板垣 「でぃやぁあ!!」
勘助 「はぁああ!! ……なっ!!」
ナレ 「上段、下段の突きを躱した勘助だが、三突き目で首に刀を当てられてしまう。
観念した勘助は、刀を落とし、跪いた。板垣は、刀を上段に構えた」
伝助 「ま、待ってけんろ!! ミツの、亭主でごいす!! こいつが、腹の子の、父親でごいす!!」
原 「なんだと!?」
板垣 「……ぬしが? ぬしの名は!!」
勘助 「……山本勘助」
板垣 「どこの家臣じゃ」
勘助 「浪人にござる!」
板垣 「おぬし、なかなか強いのぉ」
勘助 「……某も、お召し抱え下さらぬか」
ナレ 「そう言うと勘助は、板垣に向き直り、土下座をした」
勘助 「某を!! 家来にお取立て下さりませ!!」
間
ナレ 「その日の夕刻。ミツは村のふもとに埋葬された。その場所に、人の頭より少し大きな石を置いて墓石とした。
勘助は、その石の上に、摩利支天を供えた。勘助も伝助も平蔵も。皆、悲しみに暮れていた」
■甲斐・府中 躑躅ヶ崎■
ナレ 「府中・躑躅ヶ崎。晴信と、母・大井夫人が向き合っている」
大井 「父上を蔑んではなりませぬ。……戦疲れが、時には御館様を、惨(むご)き振る舞いに走らせるのです」
晴信 「おやめ下さりませ母上! それでは、父上の御乱行(ごらんぎょう)を、庇うだけにござりまするぞ」
大井 「……民を慈しむ心を、其方(そなた)は、忘れてはなりませぬぞ」
晴信 「母上は、父上をお許しなされますのか!?」
大井 「許す人間も、また、居らねばならぬのです。
……荻原常陸介(おぎわら ひたちのすけ)が生きておれば、父上の乱行を止められたかもしれませぬ。
悲しくも、母には、そこまでの力は、ありませぬ」
晴信 「父上の、軍師であった者にござりまするか?」
大井 「お父上が家督を継がれてより、その御心の迷いや恐れを、一心に引き受けてきた者です。
光を放つ者は、影を負う者が傍に居てこそ、安堵して輝けるというもの。
いずれ、其方(そなた)にも、左様な者が要りようとなりましょう」
晴信 「……」
■甲斐・葛笠村■
ナレ 「甲斐・葛笠村」
平蔵 「おまっちは、本気で武田に奉公するだか?」
太吉 「ミツの事は悔しいけんど、このまま百姓で居るよりは、マシかも知れねえだ」
平蔵 「仇(かたき)から扶持(ふち)受けれっていうだか!!」
太吉 「仇というても、甲斐におりゃあ、武田を敵にする訳にゃいかにゃあずら!」
平蔵 「この甲斐にも武田の敵は、いっぴゃあ居たでねぇか!!」 ※いっぴゃあ=いっぱい
太吉 「今はもう居ねえだ!!」
平蔵 「おらっちが、それになるんじゃ!!」
太吉 「百姓が、どうやって戦うっていうだ」
平蔵 「……米は作らねぇ、年貢は納めねえ!」
太吉 「……おみゃあが、飢えて死ぬだけずら」
平蔵 「そしたら、どうしたらええだ!!」
太吉 「だから、しょうがねぇって言うとるずら。
……百姓一人殺そうが、百人殺そうが、御館様にとっちゃあ、虫けら潰したみてぇなもんずら」
勘助 「……太吉の申す通りだ。百姓や浪人で居ては、御館様の顔を拝む事すら難しい。
御館様を討ちたければ、家中に飛び込むほかない」
太吉 「……勘助、おみゃあ」
伝助 「御館様を討つ為に、奉公するだか?」
勘助 「伝助。ぬしは、どうなのじゃ。何ゆえ、その脇差を受け取った」
伝助 「お、おらは……」
勘助 「ぬしには無理だ。左様な存念は持つな」
伝助 「おみゃあなら、出来るっていうだか?」
平蔵 「……御館様を見たら、殺すっつうだな?」
勘助 「そう容易(たやす)うはいかん。……戦を待つのじゃ。武田の内情を探り、戦を待つのじゃ。
戦になれば、敵に寝返ろうとも、陣中を撹乱する事も出来る。戦は、謀(はかりごと)じゃ。
武田を負かすように仕向ける方法は、いくらでもある。
武田信虎を、討ち死にさせるのじゃ」
太吉 「……そんな、おとろしい事が、出来るだか?」 ※おとろしい=恐ろしい
勘助 「わしには出来る」
平蔵 「……。……嘘だ。……嘘じゃあ!!
おみゃあは、何だかんだ言うて、戦がしたいだけずら!! 本当は、喜んどるずら。
武田に奉公が出来て、嬉しいずら!!
ミツやんは、葬式も無しに埋められたんじゃあ!!
……。……おらは嫌じゃ。武田には付かにゃあ。
死んでも。……死んでも武田のやつらに頭を下げるのは、もう御免じゃあ!!」
太吉 「平蔵!!」
ナレ 「平蔵は、そのまま外へ飛び出し、その夜は帰ってこなかった」
間
ナレ 「真夜中。勘助は、以前ミツと見た花畑に来ていた。ふと、ミツの幻が見えた」
ミツМ「……勘助。おらには見えるだよ。勘助の中に、咲いている花が。だから、勘助は怖くねぇだ」
勘助 「(泣いている)うぅ……うぅ……。うわぁぁああああああああああ!!」 ※最後まで泣き続けるイメージで
ナレ 「勘助は、ひたすら泣いた。ただひたすら、涙を流した。枯れるまで、涙を流した」
--つづく--